第3章
ルイとカンナはテーブルに腰を下ろし、塩とカンナの人差し指をじっと見つめた。ルイが小皿に塩を山のように盛り、入口で見たような形に整えると、カンナの手を軽く持ち上げ、言った。
「カンナ、魔力って放出もできるんだ。吸収できたなら、外に出すこともできるはずだろ?」
「でも、無意識にやってただけだから、どうやるかは…うーん。コツとかある?」とカンナが尋ねると、ルイは自分の手のひらを見つめながら話し始めた。
「俺の場合は、魔力が手のひらに集まるとほんのり暖かくなる感じがして、さらにその温度が上がるイメージで集中するんだ。集まった塊が水晶に吸い込まれるように意識すると、自然に魔力が出ていく。ちょっと試してみて?」
「わかった。この黒い部分に集中して…」そう言って、カンナはそっと目を閉じた。指先に温かいものを集めるイメージをしてみたが、逆に冷たい感覚が広がっていく。ゆっくりとその冷たさを指先に送り込むようにすると、指の先端が少し黒くなっているのが見えた。
「動かせたみたいだよ。ほら、指先が黒くなってる」
「ほんとだ。ちゃんと集まってる。でも、暖かいどころか冷たかったけど」
「じゃあ、その冷たい感覚をもっと強めて、指先から外に出るイメージでやってみて」とルイが励ますと、カンナは再び目を閉じ、冷たさに意識を集中させた。雪や氷に触れたときの冷たさを思い浮かべると、指先に小さな黒いビーズのようなものが浮かび上がり、カンナが驚いて目を開けた瞬間、それはふっと消えてしまった。
「うん、すごいじゃないか!もう一度、今度は目を開けてやってみて。集中してそのビーズを保ってみて」
「はい、先生!」カンナが少し冗談ぽく言うと、ルイは驚いた顔をしたが、カンナは心の中で「集中、集中」と唱えながら、先ほどと同じように指先に意識を向けた。しばらくすると、黒いビーズが再び浮かび上がってきた。
「そのまま、そのまま…」とルイが声をかけながら、カンナの指先を盛り塩の方に向けると、ビーズは吸い込まれるようにして塩に染み込み、塩は黒く変色した。ビーズは少し小さくなったが、ルイはもう一方の盛り塩に指を向け、残りのビーズもそちらに吸い込まれていった。
「よし、もう力を抜いていいよ」とルイが言うと、カンナは安堵のため息をついた。
「また黒くなっちゃったね!」
「やっぱり塩は魔力を吸収するみたいだな。指の色は?」
「あ、戻ってる!」カンナは自分の指先を見て嬉しそうに笑った。
「この黒い塩、絶対に舐めるなよ。また黒くなっちゃうぞ。試すのはまた今度な」
「はい!先生」カンナがにっこりすると、ルイもくすくすと笑い始め、二人はしばらく笑い合った。
ルイが二つの黒く染まった盛り塩を指さし、カンナに言った。
「カンナ、君って黒い魔力を吸収できるみたいだね。もっと色々試してみたいけど、それはまた今度にして…今はこれだ」
「これ?」とカンナが問い返すと、ルイは頷いた。
「この盛り塩がこの部屋の鍵の役割をしてると思うんだ。また入口の両脇に置けば鍵がかかるかもしれない」
「そうかもね…」カンナは、目を細めて塩を見つめながら呟いた。
「ところで、初めて見た時のこと、どんな感じだったか覚えてる?」
「覚えてるよ。ここに来る前、上から階段を降りてきたんだけど、途中で下に黒いモヤモヤが見えてさ。ここに来たら、ドアの脇に置かれたこの盛り塩から出てるのが見えたんだ。でも、今は黒いけどモヤモヤはないみたいだね…」
「ふむ…」とルイは考え込むように頷いた。
「実は俺、ここじゃない場所にいたとき、魔力に関する本を結構、読まされてたんだ。俺を連れてきたやつが、俺が魔力を扱えるようになるようにって、いろんな本を用意してくれててさ…多分、その黒いモヤモヤは瘴気ってやつなんじゃないかって思う」
「瘴気?聞いたことあるけど、詳しくはわからないな。どんなものなの?」
ルイは少し悲しげな表情で説明し始めた。
「瘴気は、人間にとって有害な負の魔力なんだ。瘴気を取り込んだ動物は魔獣になって凶暴化してしまうから、討伐の対象になる。人間も同じで、瘴気に触れすぎると正気を失ってしまうんだ。…だから、瘴気にさらされた人間も時には討伐対象になってしまうらしい」
「そんな…討伐って、つまり殺されちゃうってこと?」
「そうだと思う…」ルイの言葉に、カンナは驚きと悲しみが混じった表情を浮かべた。
「そんなの酷すぎるよ!人間なんだから、なんとか助ける方法はないの?」
「俺も本で読んだ知識しかないけど…方法があるとしたら、まだ解明されてないのかも。でも、瘴気を消す方法として、この国じゃ黒の魔力が使われてるみたいなんだ」
「黒の魔力で?どうして?」カンナは、さらに興味をそそられたように身を乗り出した。
「瘴気は負の感情から生まれるっていう説があってさ。負の魔力を黒の魔力で相殺することで、瘴気を少しずつ消してるんだ。ガルガンダ帝国っていう隣国では、国民の幸福度を上げることで瘴気の発生を防ごうとする政策がとられてるらしいよ。負の連鎖を生まないための工夫ってやつだね」
「でも、そんな方法で本当に瘴気がなくなるのかな…?」
「わからないけど、それでも他の国は瘴気が広がらないように魔獣を討伐したり対処もしてる。でもこの国は、召喚で黒の魔力を持つ者を異界から呼び出して、瘴気の処理をさせることに頼ってるんだ」
「召喚だよりか…」カンナは小さくため息をつきながら、少しだけルイを気遣うように見つめた。
「ルイ、ここにずっといるつもり?外に出たいとか、思わない?」
ルイは少し驚いたようにカンナの顔を見つめ、それから小さく頷いた。
「もちろん出たいさ。外に出て、自分で色々見てみたい。ガルガンダ帝国だって行ってみたいよ。今まで本で読んだことが本当かどうかも確かめたい」
「じゃあ、ここから出ようよ!とりあえずこの部屋から出れば、そこから道が開けるかも。外の世界を一緒に見に行こう?」
カンナの言葉に、ルイは少し目を輝かせ、はにかんだように上目遣いで尋ねた。
「カンナも一緒に?」
その顔があまりに可愛らしく、カンナは微笑まずにはいられなかった。
「もちろん!」と大きく頷くと、ルイは嬉しそうに微笑んだ。まるで光が射し込んだようなその笑顔を見たカンナは、思わず心が温かくなるのを感じた。
そう、可愛いは正義なのだ。ルイのためにここから脱出しよう…カンナは小さく決意を固めた。
「さて、これから旅の準備を急がなきゃね。誰かがいつ来るかわからないし…」とカンナが言うと、ルイが安心させるように微笑んだ。
「大丈夫。あと一週間は誰も来ないと思うよ」
「どうしてそう思うの?」
「昨日食材が届いたばかりだし、ちょうど召喚も終わったところだろ?それに瘴気の件もある。きっと皆、聖女様たちの相手で忙しいはずで、ここに注意を払う余裕はないはずだよ」
「…そうかもね。私も一応は『聖女』なんだよね?まあ、誰も気にしちゃいないだろうけど…そのうち役立たずだって牢屋に入れられちゃうかも。そうなる前に逃げなきゃ!」
カンナがそう言うと、ルイは苦しいくらいの力で彼女を抱きしめ、「カンナは僕だけの聖女様だよ」と言った。
思わずときめいたカンナは「…ちょっと、すぐに抱きつくのはダメだよ!勘違いしちゃうでしょ?」と小声で言ってみた。
「何を?勘違いするの?」ルイが無邪気に聞き返す。
(そこ…だよね? まあ、わかってたけど…)カンナは心の中で軽くため息をつき、気を取り直した。
「とにかく、バッグはある?お金になりそうなものとか、着替えや食べ物をできるだけ持っていかないと…」
「うん、ここに来たときのバッグがある。それに、あいつに渡してた水晶もできるだけ持っていこう。数が多いけど全部入るといいな。塩も少し持っていかないと」
「ん?“あいつ”って?」
「ダルク・ゼノーだよ。たぶん君も最初に会ったんじゃない?魔術師の…」
「ああ、あのエセ魔術師?閉じ込められてたの、まさか彼に?」カンナは思わず声を上げた。
「そうなんだ。あいつ、俺のことを一応息子ってことにしててね」
「えええ!息子?言われてみれば姓が同じだった気がするけど…」
「血の繋がりは全然ないよ。俺が魔力の入った水晶を渡してたから、あいつがこの国一番の魔術師を名乗れてただけだと思う」
「じゃあやっぱり、エセ魔術師ってわけね。あの水晶のおかげで魔術師だなんて…まったく!」とカンナが立ち上がり、ルイの頭をそっと胸に引き寄せた。だがその瞬間、ルイが微笑みながら囁いた。
「抱きつくのはダメなんじゃなかった?」
カンナははっとして手を離したが、気づけばルイの腕が背中に回されていて、「役得、役得…」と呟きながら、彼女の胸の匂いをくんかくんかと嗅いでいる。
「あんたは犬か!離れなさい!」と両肩を掴んで引き離すと、ルイの腕はあっさりと解けたが、その顔は子犬のようにしょんぼりしている。
「…残念」と彼は呟き、カンナの心が少し痛んだ。その顔は反則だ、と思いつつも、彼の頭をよしよしと撫でてやると、ルイは満面の笑みを浮かべた。うん、彼はやっぱり、わんこだ。
「ルイ、ずっと魔力を渡してたせいで閉じ込められてたんだね?」
「…うん、そうだよ」
「じゃあ絶対にここを出よう!よし、旅の準備をしよう」と言って、カンナは大きな犬を撫でるようにルイの頭をわしゃわしゃと撫でた。
こうして二人は、急いで脱出の準備に取り掛かった。
深夜、館が寝静まる頃を見計らい、私たちはついに移動を開始することにした。
ルイによれば、彼がここに来たときにはこの目立つ髪の色を隠すため、茶色の短めのカツラをかぶっていたという。今回は私がそのカツラをかぶることになり、邪魔になりそうな自分の長い髪を切ろうとしたものの、驚くことに髪が切れない。どれだけ強靭な髪なのだろう…と半ば呆れながらも、仕方なく髪を上でまとめ、頭の周りにぐるぐると巻きつけてカツラに押し込むと、どうにか収まった。
フード付きのローブは二着あり、私とルイがそれぞれ一着ずつ身に着けることができた。黒い盛り塩を手に持ち、緊張しながら廊下へ通じるドアをそっと開ける。幸い、誰もいない廊下が暗闇に横たわっていた。
小さく息を吐き、廊下に出ると静かにドアを閉め、両側に盛り塩を置いた。すると『カチャリ』と小さな音がして、ドアがしっかりと施錠されていた。試しに開けようとしたが、鍵はかかっていて、開く気配はない。
「やったね」私は声を出さずに唇だけ動かして言うと、ルイも力強くうなずいた。
ルイは「来た時に通った道を辿れば外へ出られるはずだ」と言って、私を案内してくれる。
幸運なことにここは一階で、少し進むだけで外への扉にたどり着いた。だが、扉の両側にはまた黒い盛り塩が置かれているのを発見する。
「これは…やっぱり厄介だな」と呟きながら盛り塩に手をかざすと、私が触れると塩はあっという間に白くなった。同じ手順をもう片方にも試し、鍵が解除されると、私たちは静かに外へ出ることができた。無事外に出ると、盛り塩を再び黒く染め直し、今度は扉の外側に設置して施錠した。これで仮に誰かが逃げたことに気づいても、内側からは開けられずに回り道をするはずだ。少しでも時間稼ぎにはなるだろう。
外の冷たい空気を感じ、思わず肩の力を抜いた。その途端、ふと気づく。外に出たときにちらりと見えた盛り塩は、黒い塩にどこか不気味なモヤが纏わりついていたのだ。しかし、私が触れた後にはただの黒い塩となっていた。何か意味がありそうだが、それを考える余裕は今はない。とにかくここから距離を稼がなければ…。
ルイの先導で茂みの奥へと進むと、そこには小さな鉄製の扉があり、両側にはまた黒い盛り塩が置かれていた。二人で手際よく解除し、ついに外の空間へと足を踏み出す。最後にまた施錠をして、目立たない場所まで移動すると、二人で深く息をついた。幾重にも同じ仕掛けを設置するなんて、一度解除してしまえば意味がないように思えた。今は、ここから一刻も早く立ち去らなければ・・・
ガルガンダ帝国はここから東の方角にあり、まずは王都を出て東側のマルクス村に向かう必要がある。ガルガンダ方面への物資を求めて朝早くから門前で待つ人々もいるだろうから、その人混みに紛れて出られればと思ったが、どのくらい歩くことになるのかが気がかりだった。
「ルイ、東門まではどれくらいかかるか分かる?」と尋ねた。
「地図の感じだと、歩いて半日くらいかなぁ。でも、どこまでこの地図が正しいかも分からないから、実際どのくらいかかるかは行ってみないと…」
「でも地図があって助かったね。なかったらもっと時間がかかってたかも」と少し安心して言うと、ルイも頷いた。
「ただ、お金が全くないから、どこかでこれを換金しないと」ルイが懐から取り出したのは、紫色の魔力が封じられた水晶だった。
「門の近くには売れる場所もあるだろうから、そこまで行ってから売ろう」
「そうだね」と、私は水晶を見つめながら言った。
ルイの案に従い、私たちはなるべく王城から距離をとりながら、目指す東門へと足を進め始めた。