第1章
カップからこぼれ落ちたコーヒーが、テーブルにじわじわと広がっていく。
その瞬間、稲森環奈いなもりかんなは、今日が"そういう日"だということを悟った。寝不足のせいで、頭がぼんやりとしているのに加え、朝からこの調子だ。大きくため息をつき、慌てて布巾を取り出す。
「もう、何でこんなにツイてないんだろう…」
気持ちを切り替えようと、いつもより強くコーヒーをかき混ぜ、急いで玄関へと向かった。だが、悲劇はまだ続いていた。
マンションのエントランスを通り抜けようとした瞬間、足元がもつれて尻餅をついてしまう。カバンが床に落ち、中身が散らばる音がやけに大きく響いた。頬が熱くなり、恥ずかしさがこみ上げる。
「…大丈夫?」
不意にかけられた声に、顔を上げると、近所に住む50代くらいのおじさんが手を差し出していた。整った顔立ちとは言い難いが、その穏やかな表情と親切な仕草に、なぜか心が温まる。
「…ありがとうございます」
彼女はためらいながらも、その手を取った。
立ち上がると、周囲をちらりと見回す。誰にも見られていないかと確認したが、少なくともこのおじさんにはしっかりと見られてしまった。
"なんて恥ずかしいんだ…" 心の中で叫びながらも、彼の優しさにほんの少し救われた気がした。そして、職場へと急いで足を運んだ。
時計が18時を回った。オフィスの天井から、半分の照明が消え、薄暗い空間に包まれる。環奈はため息をつきながら、画面に向かう。明日が締め切りだというのに、仕事はまだ終わっていない。目の前のタスクはまるで無限に続くかのようだ。
「やっぱり、この会社…ブラックかもしれない」
頭の片隅で浮かんだ考えを、環奈はかき消すように首を振った。
仕事の遅れは自分の責任だ。いつも他の人は定時に帰ってしまうのに、どうして自分だけがここに残っているのだろう? 疲労感と孤独感が、彼女をますます重くしていく。
しかし、考えている時間はない。彼女は再びキーボードを叩き始めた。あと数時間の辛抱だ。
22時過ぎ。ふと気がつくと、周りの席はすっかり空っぽになっていた。環奈は椅子に深く腰を落とし、画面から視線を外す。オフィスの静けさが、耳に響く。
大学を卒業してすぐにこの会社に入社してから、環奈は全力で働いてきた。最初は新しい環境に希望を抱き、頑張ることに意義を感じていた。しかし、日々の疲労と孤独が彼女の心をじわじわと蝕んでいく。
"このままでいいのだろうか?"
最近はその問いが、頭の中でぐるぐると回る。限界を感じながらも、未来に何かを変える勇気が出ない自分がいた。
オフィスの照明が消え、薄暗い中でパソコンの画面だけがこうこうと光を放っていた。環奈は、しばらく画面を見つめた後、両腕を上に伸ばして「う〜ん」と伸びをした。固まった背中がポキポキと音を立て、少しだけ気分が軽くなる。
その瞬間だった。目の前のパソコンの画面が、まるで命を持ったかのように眩しく輝き始めた。
「え?何これ…?」
彼女は驚いて画面を覗き込んだ。そこには不思議な模様が現れ、次第に輝きを増していく。模様はまるで生きているかのように動き、光が渦巻いていた。環奈は目を凝らそうとしたが、光があまりにも強く、思わず目を閉じた。
瞳の奥に残る光の残像が徐々に弱まっていく。ほっとしたのも束の間、突然、座っていた椅子がなくなり、彼女は尻餅をついた。
「あいたっ…!今日は本当にツイてない日だな…」
彼女は痛みで顔をしかめ、ぼそりとつぶやく。朝に転んだばかりの尻をまた打ってしまったのだ。おしりをさすりながら、ついイライラして叫んでしまう。
「誰よ!いきなり椅子引いたの!?」
周囲を見回すと、驚くべき光景が広がっていた。自分がいたはずのオフィスではなく、足元には奇妙な模様が描かれた石畳が広がっている。そして、パソコンで見ていたあの模様と同じものが、地面に二つも浮かび上がっていた。
環奈は息を呑んだ。
「…何?これ?」
模様は、自分の足元だけでなく、少し離れたところにも二つ、重なるようにして描かれている。その模様の中心に、それぞれ人影が見えた。環奈は立ち上がって、その人物たちをよく見ようとした。
一人は、黒髪の少女。腰まで届く長い髪が印象的で、どこかの学校の制服を着ているようだった。"JK?" と環奈は直感的に思った。そしてもう一人は、赤色のボブヘアの女性。肩までの髪が軽く揺れている。その雰囲気からして、大学生くらいだろうか。どちらも環奈より若く見えた。二人ともとっても可愛い・・・
「な、何なの…ここ?」
声を出してみたものの、二人はまだ動かない。まるで自分と同じように、この状況に戸惑っているかのようだった。環奈は、自分の足元に描かれた模様を再び見下ろす。目の前に広がるこの異常な光景が、現実なのか夢なのか、全く分からなかった。
おしりの痛みをこらえながら、環奈はゆっくりと立ち上がった。足元に描かれた模様を見つめる。黒髪の少女の模様は黒、赤色のボブヘアの女性の模様はその髪色と同じ赤色だった。それを見て、当然自分の模様も黒だろうと思ったが、意外にも白だった。
「白?…髪は黒なのに?」
環奈は首をかしげ、模様の色が髪に関係していないのかと考え始めた。だが、その考えを遮るように、背後で大きな音がした。振り返ると、彼女の真後ろに大きな扉があり、ゆっくりと開いていく。二人の少女たちがじっとその方向を見つめている。どうやら、彼女たちが見ていたのは環奈ではなく、この扉のようだ。
扉の外から現れたのは、妙に豪華な服を着た40代くらいの茶髪の男性。頭には冠が乗っており、まるで王様のような風貌だ。その右には、同じくらいの年代で、長いマントを羽織った茶髪の男性が立っている。左側には、20代くらいに見える若い男性がいて、彼も王様風の豪華な服をまとっていたが、彼のマントは短めだ。彼を「王子様風」と呼ぶことにしよう、と環奈は心の中で勝手に名前をつけた。3人とも髪の色は茶髪だった。
「皆様よく、お越しいただきました」と、王様風のおじさんが重々しく口を開いた。しかし、彼が環奈を見た瞬間、その顔が一瞬ギョッとした。
"え、何?ちょっと失礼じゃない?"
環奈は心の中で不満を言った。自分に何かおかしいところがあるのだろうか。無意識に手で髪や顔を触って確認するが、特に変わったところはない。
"もしかして、この服装?それとも顔?嫌な感じ…" 彼女は小さくため息をついた。
その間に、王子様風の若い男性がゆっくりと近づいてきた。彼はまず黒髪の少女の前に立ち、優雅に手を差し出して彼女を立たせる。そして次に、赤色の髪の女性にも同じように手を貸した。彼の動きはスムーズで丁寧だった。
"まあ、私は自分で立ったし、別に手を貸してもらう必要なんてないけど…"
環奈は、自分の足元に視線を落とし、自分だけが無視されたように感じた。どこか引っかかる。確かに彼女は他の二人より年上かもしれないが、それにしてもスルーするのはどうかと思った。
"いや、待って。そんなことで気にするのは大人気ない…あの二人は若くて可愛いんだから仕方ないよね。"
環奈は自分を無理やり納得させようとした。若さと可愛さは、時として優遇されるものだ。彼女は薄く笑いながら、心の中でそう結論づけたが、どこか腑に落ちない気持ちは残っていた。
王子様風の若い男が、黒髪の少女と赤髪の女性を両脇にエスコートし始めた。彼は二人を左右に丁寧に導きながら、さっき開いた大きな扉の方へゆっくりと案内する。その姿は優雅で洗練されていて、まるでおとぎ話の一幕のようだった。
環奈はその様子をぼんやりと見つめていた。王様風の人も自分の方を気にかけるかと思いきや、彼は一度も振り返らずにそのまま扉を出て行ってしまう。残されたのは環奈と長いマントをまとった茶髪のおじさんだけだった。
"え?…私、置いてけぼり?"
環奈は一瞬、状況を飲み込めずに立ち尽くしたが、マントのおじさんも扉の方へ向かおうとしていることに気がついたので慌てて、声をかける。
「…ちょっと、私もそっちに行くんでしょう?」
彼女の声が少し震えていたのは、戸惑いと苛立ちが入り混じったせいだ。マントおじさんは足を止め、忌々しそうに環奈の方を振り返った。その表情には明らかな不満があり、まるで邪魔者を見るかのような冷たい視線を向けてきた。
「そうですよ!早く、来てください」と、短く答えると、再び扉の方へ向かって歩き出す。
"何、この態度?とてつもなく感じ悪いんですけど…"
環奈は思わず眉をひそめた。さっきの王子様風の男が二人の女性に対して見せた優雅な振る舞いとは対照的だ。彼の丁寧なエスコートとは程遠い、無愛想で冷たい対応に、環奈の心の中に苛立ちが募る。
"なんで私だけこんな扱い?…"
強い不満が込み上げてきたが、この状況が何なのか、全く理解できていない以上、環奈には説明が必要だ。今ここで反論するのは得策ではないと、彼女は自分に言い聞かせた。深呼吸を一つして、理不尽な怒りを抑え込む。
"ここで騒いでも仕方ない…まずは説明してもらわないと、話にならないよね。"
そう思い、環奈はぐっと耐えた。大人しく部屋を出て、マントおじさんを急いで追いかけることにした。廊下は冷たく静まり返っていて、足音だけが響く。環奈はこの異様な状況に、ますます不安を感じながらも、先を急いだ。
環奈が到着したのは、まるで応接室のような豪華な部屋だった。室内は上品な装飾で満たされ、壁には重厚な絵画がかかり、足元にはふかふかの絨毯が広がっている。目の前には、王子様風の若者が、先ほどエスコートした黒髪の少女と赤茶色の女性を両脇に侍らせたような格好で座っていた。三人はすでに楽しげにお茶を飲み、お菓子まで進められていた。
"仲良し三人組ってわけね…"
環奈は心の中でつぶやいた。その様子がどこか絵に描いたようで、まるで彼らだけが招かれた特別な客のように見える。
「そこに座ってて」と、マントおじさんが環奈に向かって指を指した。
指示された場所は、彼らの座っている豪華なソファではなく、部屋の端に設置されたカウンターバーのような背の高い椅子だった。環奈は一瞬、戸惑いの表情を浮かべる。なぜ自分だけこんな場所なのか、他の二人と明らかに待遇が違うことに不満が湧き上がった。
"なんで私だけ…ここ?"
環奈は少しむっとしたが、今は黙って話を聞く方が得策だと考えた。心の中では色々と引っかかることがあったものの、とにかく今は、自分がどうしてここにいるのか、なぜこの状況に巻き込まれたのかを知りたい。それがわかれば、場所なんてどこでもいい。
「わかったわ」と静かに返事をし、環奈は仕方なくその背の高い椅子に腰を下ろした。座り心地は悪くなかったが、明らかに他の人たちと距離があり、疎外感を感じずにはいられなかった。
部屋の反対側では、王様風のおじさんとマントおじさんが、3人の向かいの一人用のソファにそれぞれ腰を下ろしていた。すぐに召使いのような人物が現れ、彼らにお茶が丁寧に差し出された。
"…お前たちはそこなんかい"つい心の中でツッコミを入れてしまった。
環奈は小さくため息をついた。自分だけがまるで外れ者のように扱われていることに、不満はあったが表情に出すわけにはいかない。
"よかったね、君たち。私が暴れるタイプじゃなくて"
心の中で毒づきながらも、環奈はじっと我慢した。今は、冷静に話を聞くことが最優先だ。
"これって、異世界召喚ってやつじゃない…?"
環奈は思わず自分の状況を確認しながら、頭の中で冷静に考えを巡らせた。彼女は電車の中やお風呂でこの手の小説を読むのが大好きで、暇さえあればタブレットを片手にラノベに没頭していた。読む本の数は、月に20冊ほど。休みの日には、ベッドに寝転がって一日中ファンタジーの世界に浸っていることも珍しくない。環奈はそんなラノベ中毒の自分を少し思い出しながら、この状況があまりにも「テンプレ展開」だと気付いた。
"出たよ…お約束の聖女召喚系"
彼女は心の中で苦笑いしながら、壁際の背の高い椅子に腰を下ろしていた。向こうのソファでは、王子様風の男が黒髪の少女と赤髪の女性を両脇に抱え込むように座り、3人仲良くお茶を飲んでいる。環奈はその様子を見て、思わずツッコミを入れたくなった。
"私にはお茶も出さないのかい…まあ、いいけど"
彼女は心の中でそう呟きつつ、ぐっとこらえた。とにかく、なぜ自分がここにいるのかを知りたかったからだ。そんな環奈の心の声をよそに、マントおじさんが話を始めた。
「皆さんをお連れしたのは、他でもない。あなた方は聖女様たちです。この国は、今、瘴気という恐ろしいものに囲まれております。瘴気を払うには、聖女様たちの力が必要なのです。どうか、ご協力をお願いします。瘴気が払われなければ、この国の存続は危ぶまれ、人々は魔獣に襲われる危険が増えています。お二方には、何卒お力添えをお願い申し上げます。」
マントおじさんは深々と頭を下げる。それに続いて、王様風と王子様風の二人も、丁寧に頭を下げた。
"ああ、出たー!テンプレ聖女召喚…"
環奈は内心で叫びながらも、黙って話を聞いていた。だが、ひっかかる言葉が耳に入る。
"お二方?"
環奈は眉をひそめた。まさか、自分は何もしなくていいの?いや、楽でいいんだけど、話を聞くだけでも参加させてほしい。そう思っていたが、ついに我慢できなくなり、手を挙げた。
「はい、は〜い!私、何もしなくていいんですか?いや、楽でいいんですけどね!」
一瞬、部屋が静まり返った。次の瞬間、全員が一斉に環奈の方を見つめた。少女たちは驚いた顔をしていたが、王様風、王子様風、そしてマントおじさんの表情は明らかに険しく、彼女を睨むように見ていた。
"なんか、怖いんですけど…"
その時、マントおじさんが口を開いた。
「あなたは役に立たないので、いいです。むしろ、じっとして何もしないでください。」
"はあ!?"
環奈は、思わず声を上げたくなったが、ぐっと堪えた。だが、今度は抑えきれなかった。
「何それ?勝手に連れてきて、役に立たないって言うなら帰してよ!」
しかし、マントおじさんは冷たく言い放つ。
「この召喚は一方通行です。だから、帰ることはできません」
"何だそれ!?勝手すぎるだろ!"
怒りが沸騰した環奈は、立ち上がりかけたが、少し考え直した。自分だけがこんな不公平な扱いを受けている理由を二人に聞いてみるべきだ。彼女は黒髪の少女と赤髪の女性に向き直り、声を掛けた。
「ねえ、二人とも。それで本当にいいの?家族や友達と離れて、それで満足なの?私だけこんな扱いされてるけど、彼らの言うこと信用できるの?」
環奈の質問に、少女たちは少し戸惑ったような表情を見せた。しかし、彼女たちは何も言わず、ただ視線を交わすだけだった。その反応を見て、環奈は心の中で舌打ちをした。
"こりゃーダメだ…"
マントおじさんの冷たい態度に、環奈の中で不信感がますます膨れ上がっていく。
"もうこの人たち、私の中では完全にブラックリスト入りだね。信用できない…"
環奈は静かに座り直しながら、内心で決意を固めた。彼女にとって、この異世界は早くも信用ならない場所になりつつあった。
環奈は、ふと考えた。このままでは絶対に良くない。今まで読んだラノベが200冊を超える私にはわかる――こういう状況は、だんだんと「虐げられる系」に発展していくんだ。力がなくても、このまま流されているだけじゃダメだ。心にそう決め、穏やかにマントおじさんに問いかけることにした。
「どうして?私が役に立たないって、どうしてわかるの?」
声は冷静だったが、内心は不安でいっぱいだった。すると、マントおじさんが少し厳しい表情で説明を始めた。
「昔の文献によると、聖女は黒髪、赤毛、青毛、金髪のいずれかが召喚され、この国を救ってきた。だが、あなたのような真っ白な髪に、真っ赤な目をした聖女なんて記録にない。むしろ、白髪は不吉とされていて、忌み嫌われている。だから、不吉なことが起こらないように、何もしないでほしいということだ。」
環奈は、目を大きく開いて驚いた。
「えっ…私って白髪なの?」
驚きながら、環奈は自分の髪を一房つまんで見た。そこには、真っ白な髪の毛がはっきりと存在していた。
「ええええーーーーなんでーーー!?」
思わず叫んでしまい、その場で立ち上がって自分の全身を見回した。両手、両足…まさかの事実に直面する。環奈が誇りに思っていた肩甲骨までの黒髪は、今や真っ白になり、しかもおしりの下まで伸びている。白さはまるで雪のようで、普通の白髪とは比べ物にならない。
"なにこれ…?"
さらに、自分の両手を見つめて驚いた。手がほっそりしていて、昔のぽっちゃりとしたクリームパン〇ちゃんのような手では・・・ない。
環奈は召喚される前、少しぽっちゃりした体型をしていたはずだ。だが、今の体はスリムで、両足も細く、まるで過去に憧れていた理想の姿だ。
"足も…なんでこんなに細くなってるの?しかも、色白すぎる…"
召喚前は日に焼けやすく、自黒だったはずなのに、今の肌は透き通るように白い。さらに、マントおじさんが「目も」と言っていたことを思い出した。
「ちょっと、鏡を見たいんだけど…」
環奈がそう言うと、すぐにお茶を運んできたお姉さんが鏡を差し出してくれた。環奈は急いで鏡を手に取り、自分の顔を確認する。
「なにこれ…真っ赤な目…」
その目は、まるで白いうさぎのように真っ赤に染まっていた。環奈はさらに、まつ毛や眉毛も真っ白なことに気づいた。
"なんでこんなことに…"
しかし、顔をじっくりと見つめた環奈は、ふっと安堵した。
"ふぅ…顔自体は変わってない。ちょっと可愛いままだし・・・"
顔の形こそ変わらないものの、どこか一回り小さくなった気がする。じっくり鏡を見つめていた彼女は、改めて自分の顔を確認しながら思わず笑みを浮かべた。
"前の私は、仕事しながらお菓子を食べて、ちょっとぽっちゃりしてたけど…今は憧れのスリム体型!"
環奈は自分の胸元をそっと触れた。ぽっちゃりしていた頃は胸があったが、スリムになった今、どうなったかが気になったのだ。
"…あ、大丈夫。小さくなってない!"
胸のボリュームが変わっていないことに、ほっとしている自分に気づき、環奈は思わずにやっと笑った。さらに鏡をじっと見つめ、若干若返った自分を確認する。20歳?いや、19歳って言われてもおかしくないくらい若く見える。
"私、けっこう若返ってるじゃん…!"
右を向いてニヤ、左を向いてニヤ――そんな風に自分の姿を確認していると、どうやらその姿が周囲に見られていたらしい。ソファに座っている王様風、王子様風、そしてマントおじさんが、全員が少し引いた表情でこちらを見つめていた。
"…あ、やっちゃった?"
環奈は、思わず頬を赤らめた。どうやら、心の中で思っていたことがすべて態度に出てしまっていたらしい。周囲の視線に気づいた環奈は、場を取り繕うために、わざとらしく咳払いをした。
「ゴホン、ゴホン…」
"やだ、つい一人芝居してたわ…気をつけなきゃ。"
そんな私を冷めた目でじっと観察していたマントおじさんが、少し苛立った様子で口を開いた。
「とりあえず、皆さんの魔力を測定しましょうか」
彼が袋から取り出したのは、まるで占い師が使いそうなエセ水晶玉。環奈は心の中でツッコミを入れつつ、じっとその様子を見守る。案の定、マントおじさんは、冷静に指示を出し始めた。
「一人ずつ、手をかざしていってください」
まずは黒髪のJKに指示が飛んだ。彼女はおずおずと右手を水晶にかざす。
"おっと、この子は右利きね…"と、環奈は冷静に観察モードに入る。水晶玉は、光り出すかと思いきや、ゆっくりと真っ黒に染まっていった。
"なるほど、黒髪だから黒ってわけね。"
次に、マントおじさんは赤髪の女子大生に指示を出した(そう、環奈は勝手に彼女を女子大生だと決めつけている)彼女は躊躇なく左手をかざす。
"おっ、この子は左利き…興味深い。"
すると、水晶玉はゆっくりと赤く染まった。環奈はしばらく冷静に状況を観察していたが、次は自分の番だとわかり、マントおじさんの顔を見ると、あからさまに嫌そうな表情をしていた。
"なんでそんな顔するの?まるで汚いものを見るみたいに…私、招待されたんですけど…?"
思うところはあったが、環奈は深呼吸し、自分の右手を水晶にかざしてみた。結果は、予想通り、何の変化もなく真っ白だった。
"やっぱり髪の色に比例してるんじゃない?白い髪は白のままだよね…わかってたよ、うん!"
マントおじさんは、淡々と説明を続けた。
「色が濃いほど、その色の魔力に特化しています。この国には色持ちの子供が生まれることがありますが、多くは淡い色です。黒は瘴気を払う力、赤は炎、青は水、金は癒しを司ります。この水晶は、その色が濃ければ濃いほど、その能力に長けていることを示しています。髪の色も同様です。色持ちは薄い赤、薄い青、薄い金色が多く、色を持たない人は茶髪で生まれます。皆さんのような濃い色を持ってる者は非常に貴重です。特に黒は…」
一息ついてお茶を飲むマントおじさんを見て、環奈は目を細めた。あなたたち、みんな魔力ないじゃない。髪の色がみんな茶髪なんだから…
"なるほどね、色持ちはわかりやすいってことか"
そして、ずっと気になっていた質問をぶつけてみた。
「じゃあ、白は?」
その瞬間、マントおじさんが飲んでいたお茶が気管に入り、激しく咳き込んだ。環奈は呆れつつ、彼が落ち着くのを待った。咳き込みながらも、マントおじさんは再び口を開いた。
「白は…いない。だから、不吉とされている」
"やっぱりね…結局そうなるのかい"
環奈は、もう面倒くさくなってきた。マントおじさんの説明には聞き飽きてしまい、反論する気も失せてしまった。彼女は深くため息をつき、あとは黙って話を聞くことに決めた。
その時、王様風のおじさんがようやく口を開いた。
「ここはバイゼルン国。私はこの国の王、ゲルド・バイゼルン。そして、こちらが王子のアイゼン・バイゼルン。そして、魔導士のダルク・ゼノーだ」
"このマントおじさん、髪、茶髪じゃね?なのに魔導士?ものすごく胡散臭い…"
王様風のおじさんは誇らしげに名前を名乗った。
環奈は、その名前に大した驚きもなく、淡々と心の中で整理する。
"はいはい、やっぱり王様風じゃなくて、ちゃんと王様だったわけね。じゃあ、王子も魔導士も見たまんま"
そして、魔導士のダルクという男に視線を移す。魔導士ということは、彼が私たちを召喚したのか?
"…魔力使ったわりには、元気じゃんか"
環奈は内心でツッコミを入れつつ、相変わらず冷静な態度を崩さなかった。
王様が、再び口を開いた。
「そなたたちの名前を聞いてもいいかな?」
"おっと、まずは黒髪JKね。確か、黒は赤より貴重なんだよね?"
環奈は興味津々で様子を見守る。黒髪の少女が少し緊張した様子で、静かに口を開いた。
「私は、西城あすみです。17歳です。」
"いや、歳は聞いてないけど?"
環奈は心の中で突っ込みを入れる。まるで、自分が一番若そうだからアピールしたいかのような発言だった。
"まあ、あざとくない天然ならいいんだけど…"
そして、次は赤髪女子大生の番だ。王様は彼女に視線を向けた。
「私は、飯野真由美です。」
"あれ?歳は言わないのね。まあ、言いたくない気持ちはわかるよ…私も一緒だけど…"
環奈はにやりとしながら、自分が次に自己紹介を求められるのかと少し期待していた。ちょっと若く言っちゃおうかな~、なんて考えていたが――
見事にスルーされた。
"…あれ?"
内心、驚きつつも、すぐに気を取り直す。
"まあ、いいけどね!どうせ教えないし…ふん、聞かれなかったから教えません!"
環奈は軽く肩をすくめて、心の中で強がりを言ってみる。王様は二人の名前を確認するように、もう一度問いかけた。
「西城と飯野が姓でよかったかな?」
「「そうです」」と、二人は声をそろえて答える。
"ほほう、ちゃんと名字も聞いてくれるのね。"
環奈は冷静に二人の反応を観察しながら、内心では自分の立場を考え始めた。
"まあ、どうせ白は魔力なしーとか言われるのがオチだしね。名前なんて聞かれなくてもいいわ。でもさ…全世界の人々をランダムで召喚するわけじゃないんでしょ?普通、能力がある人を優先的に召喚するものじゃない?"
環奈は、今までに読んだラノベの知識を思い返しながら、少しずつ自分の可能性を考え始めた。
"だって、もし私に本当に何の力もないなら、わざわざ召喚する意味がないはず…。何かあるはずだよね、ラノベ的には…"
そう自分に言い聞かせるものの、現状ではまだ何も見えてこない。環奈は大きく息をついて、目の前の状況を冷静に分析する。
"こればっかりは自分で探すしかなさそうだ…"
彼女は再び背筋を伸ばし、心の中で固い決意を抱いた。どんな力が隠されているのか、今はわからないけれど、いつかきっと自分の力を見つけ出す。そう信じて、環奈は静かに次の展開を待つことにした。
マント魔導士が「お二人ともお疲れでしょうから、お部屋でゆっくりお休みください。詳しい話はまた明日」と言い残して部屋を出て行ったのを見届け、環奈は心の中で静かにため息をついた。
"で?私は?"
面倒ごとは避けるため黙っていたのに、まさか本当に存在すら忘れられるとは思わなかった。環奈はしばらく待ってみたが、誰も戻ってくる気配はない。ただ時間だけが静かに流れていく。まぁ~、役に立たないからって牢屋とかに入れられないだけましか・・・
"この部屋にいて、あのおっさんたちが戻ってきたら面倒なことになりそうだし…別の部屋で休める場所を探すか"
急にホッとしたせいか、疲労が一気に押し寄せてきた。思えば、召喚される前から残業続きでボロボロだった。とりあえず、さっき召喚された部屋に戻ってみることにしよう。少し探検もしてみたいし・・・
環奈は最初の部屋を目指して廊下に出た。召喚された部屋の近くまで来ると、下に続く階段があるのを発見した。
「…あ、こんなところに階段があったんだ!」
完全に見落としていたらしい。あの時はあまりの状況に頭が真っ白で、周りなんて全然見ていなかった。環奈は、階段の方を何気なく覗き込んだ。下の方に黒いモヤが漂っているのが見える。
「なんだろう、あれ…?」
疲れがピークに近いとはいえ、興味が湧いてきた環奈は、黒いモヤモヤの正体を確かめるべく階段を降りていくことにした。階段を降りるにつれ、モヤはどんどん濃くなっていくが、特に体に影響はないようだ。
"異世界だからって、過剰に期待しすぎだよね。とはいえ、真っ白になった自分を思い出すと、否定もできないけど…"
階段を降り切ると、召喚された部屋の真下あたりに位置する扉が見えた。扉の両脇には三角に盛られた黒い砂がある。
「…盛り塩ならぬ、黒い砂?」
環奈は首をかしげた。どうやら、この砂から黒いモヤが出ているらしい。好奇心が抑えきれなくなり、人差し指で三角形の砂をそっとツンツンとつついてみた。すると、砂が少し崩れた。指先にわずかな違和感を感じて見てみると、ほんの少し黒く汚れている。
"うわ、なんか指についてる…こりゃ、擦っても落ちそうにないな"
さらに興味が湧き、今度は三角形の砂を横に撫でてみることにした。すると、黒いモヤが少し薄れたような気がする。環奈はさらに指を動かし、三角形を半分崩したところで気づいた。黒いモヤが指にまとわりついている。
「なんだ、これ…?」
環奈は手を振ってみたが、モヤはしっかりと指先に絡みついている。しばらくすると、それはスーッと指先に吸い込まれるように消えていった。環奈は不思議そうに指を見つめた。
"一体、何だったんだろう…?"
砂の方を見ると、色が少し薄くなっているのに気づいた。元の真っ黒だった砂が、濃いめのグレーに変わっている。
「もしかして、私が触ると色が抜ける…?」
環奈はさらに興味を掻き立てられ、人差し指で砂をグルグルとかき回し始めた。すると、砂の色がどんどん薄くなり、やがて完全に白くなった。
「おお、やっぱり白くなった!」
"私の能力って、黒いものを白くする力とか?かき混ぜると白くなるとか?"
10分ほどかけて黒い砂が完全に白くなったけど・・・
「もしかして、これが私の力…?」黒いものを白くしたって、なんの役に立つのだろうか?
環奈は白くなった砂をしばらく見つめていたが砂はもう一つあるので、そっちの砂も同じようにしてみることにした。
両方の黒砂が真っ白になった瞬間、「カチャリ」とドアのカギが開く音が響いた。
"えっ?これってもしかして、カギだったの?"
環奈は驚きながらも、軽く肩をすくめた。黒い砂を白に変えたら扉が開くなんて、異世界の仕組みは謎が多い。少し疲れが出てきたけれど、せっかく開いた扉だ。恐る恐る内側へとドアを引いてみると、静かに足を踏み入れた。
部屋の中央には、見覚えのある水晶玉が台座の上に静かに輝いている。エセ魔術師が持っていたあの水晶にそっくりだが、今は環奈の髪の色のように真っ白に染まっている。
「なんだろう…これ、召喚された部屋の真下だし、あの時の模様がある場所と同じ位置かも…」
環奈は本で読んだ数々のラノベを思い出しながら、この水晶に「魔力を注ぐ」とかそんなことをするのかと考えた。けれど今はそれを試す気力もなく、周りを見回してみると、隣に別の扉があるのに気がついた。
"向こうに休める場所、あるのかな?"
そっと扉を開けると、中には小さな寝室のような部屋が広がっていた。そしてベッドに向かう途中の床で、誰かが倒れているのが目に入った。
「…大丈夫ですか?」
思わず声をかけてみたが、返事はない。近づいてみると、その人が病気や体調不良というわけではなく、ただ極度の疲労で倒れているように見える。環奈には心当たりがあった。自分も残業続きで仕事が終わる前に力尽きた経験が何度かあるからだ。まさに、「あと少しでベッドだったのに…」という状況だ。
"…わかる、この感じ…"
環奈は少し笑みを浮かべながら、その人をなんとかベッドまで運ぼうと決めた。倒れている人を慎重に背中へ抱え上げる。意外と重いが、なんとかベッドまで引きずっていく。
「大きなベッドだし、ここなら大丈夫だよね…」
そう言ってベッドの端まで運ぶと、環奈もそのまま倒れこむように背中をついた。柔らかいベッドの感触が背中に心地よく伝わり、途端に疲れが全身に押し寄せてきた。
"なんだか…ヤバい…眠い…"
自分が異世界にいるということも一瞬忘れ、環奈はそのまま意識が遠のいていくのを感じた。ベッドの上で静かな眠りに落ち、夢の中へと吸い込まれていった。