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驚愕

作者: 鰯田鰹節
掲載日:2024/06/02

驚愕





鯖江は飢えていた。それも、『音』に飢えていた。

叶うのならば、音楽を習わせて欲しかった。

しかし、貧しい家に生まれ、食べるのに精一杯、習い事なんて以ての外だった。


放課後に聴こえる、吹奏楽部や合唱部の奏でる美しいメロディー。

それらを背に、毎日アルバイトに行かなくてはいけない惨めさ。


(もっと聴いていたい。)


(楽器をやってみたい…。)


願いは聞き届けられることはなかった。

鯖江は高校を卒業した。春3月、早めの桜が惜しまれながら青空に散っていた。





卒業と同時に実家を出た。

まだ下に弟や妹がいるから、鯖江の面倒までは見られない、卒業後は自活してくれと親から言われていた。

地道に就職活動をし、とある大学の清掃員の仕事に就いた。

この仕事に就くために、鯖江は高校3年間、無遅刻無欠席を貫いた。


大学には講堂がある。

講堂にはピアノがある。


(もしかしたら、仕事をしながらピアノが聴けるかもしれないじゃないか。)


淡い期待を胸に、鯖江は仕事に勤しんだ。


(今はまだ、講義室や階段の掃除だが、いつか、ホールや講堂の清掃も任されるかもしれない。)


(いつか、サークルやなんかの演奏が聴けるかもしれない…。)


まるで水彩絵の具を画用紙に滲ませるように、期待はジュワッと広がっていった。


期待は、いつまでも期待のままだった。

鯖江は講義室を隈無く清掃する日々を送った。

そのまま、2年の月日が経った。

2年の間も、鯖江はやはり無遅刻無欠席、真面目に勤務した。






ある日、奇跡が訪れた。

清掃員の間で風邪が流行った。鯖江は休んだベテランの清掃員の代わりに、講堂担当となった。

足取りも軽やかに講堂に向かう。


そこでさらに奇跡が起きた。

講堂に着くと、ステージのど真ん中にグランドピアノがあり、蓋があいていた。

引き継ぎでは、ピアノは舞台袖に仕舞われているが、決して触ってはいけないとのことだった。


暗がりの中でも分かるほどに白い鍵盤が、鯖江の目を刺した。


(少しくらいなら、触ってもいいんじゃないか…。)


ピアノに近づくうちに、ボワッと記憶が蘇る。


汚いと言われた子供時代。

リコーダーですらまともに吹けなかった音楽の授業。

楽譜が読めなくてついていけなかった、合奏や合唱。


近づいてみると、ピアノの鍵盤は、自分が触れば汚れてしまいそうな白さだった。

鯖江は手を伸ばした…。







「あ。」


高い女性の声に驚き、振り返った瞬間、鯖江の指が黒鍵に当たった。

予想以上に大きな音が出て、鯖江は飛び上がった。


不協和音がこだましている。

取り返しがつかない罪を犯した気がしている。


振り返った先には女子学生が立っていた。

ツインテールに、フリルのたくさんついたワンピースを着ている。とても綺麗で、天使のようだ。

鯖江に驚いて、楽譜を落としてしまったらしい。


「わ、すみません…!」


女子学生が楽譜を拾い上げながら、鯖江の方にやって来る。そうして、人懐っこく、鯖江に話しかけてくる。


「あなたもこの時間にピアノ練習を予約したんですか? この時間枠は私のはずなんですが…。」


鯖江は自分の愚かさに赤面した。

鯖江には、楽譜の名前が何なのかすら読めないというのに。


「…失礼します。」


とだけ言って、その場を後にした。


(住む世界が違った!)


(こんな、毎日ゴミ集めしてる、俺とは違う!)


鯖江は滅茶苦茶に走り、清掃員の詰所に戻った。

改めて、更衣室の全身鏡で自分を見る。


清掃員の就業服である、水色のつなぎ。

手に握られた紺色の帽子。

ボロボロの紐がちぎれそうなスニーカー。


(俺とは違った…!)


悲しみに打ちひしがれるというよりも、努力でどうにもならないものがあるという驚きの感情だった。

鯖江はなだれ込むようにして鏡に額をつけ、目を閉じた。






女子学生が弾こうとした曲は、奇しくも、ハイドンの交響曲『驚愕』であった。



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― 新着の感想 ―
[一言] 水彩絵の具、の表現がとても素敵ですね。 音楽を愛する気持ちと現実に打ちひしがれる姿のギャップに心を締め付けられます(´・ω・`) 女子学生が優しいのがまた鯖江のことを打ちのめすのでしょうね。…
[良い点] 『純文学ってなんだ? 企画』 から参りました。 貧しくて、音楽を習いたくても習えない環境であっても、真面目にやってきた鯖江さんに、音楽に触れる機会ができて、どうなるのかと思いながら読みまし…
[良い点] 音楽に対する憧れが、まるで舞踏会に憧れるシンデレラみたいで、あまり具体的に描かれていないにも関わらず伝わってくるものがありました。 [気になる点] 短いです。あらすじみたい……。 [一言]…
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