驚愕
驚愕
鯖江は飢えていた。それも、『音』に飢えていた。
叶うのならば、音楽を習わせて欲しかった。
しかし、貧しい家に生まれ、食べるのに精一杯、習い事なんて以ての外だった。
放課後に聴こえる、吹奏楽部や合唱部の奏でる美しいメロディー。
それらを背に、毎日アルバイトに行かなくてはいけない惨めさ。
(もっと聴いていたい。)
(楽器をやってみたい…。)
願いは聞き届けられることはなかった。
鯖江は高校を卒業した。春3月、早めの桜が惜しまれながら青空に散っていた。
卒業と同時に実家を出た。
まだ下に弟や妹がいるから、鯖江の面倒までは見られない、卒業後は自活してくれと親から言われていた。
地道に就職活動をし、とある大学の清掃員の仕事に就いた。
この仕事に就くために、鯖江は高校3年間、無遅刻無欠席を貫いた。
大学には講堂がある。
講堂にはピアノがある。
(もしかしたら、仕事をしながらピアノが聴けるかもしれないじゃないか。)
淡い期待を胸に、鯖江は仕事に勤しんだ。
(今はまだ、講義室や階段の掃除だが、いつか、ホールや講堂の清掃も任されるかもしれない。)
(いつか、サークルやなんかの演奏が聴けるかもしれない…。)
まるで水彩絵の具を画用紙に滲ませるように、期待はジュワッと広がっていった。
期待は、いつまでも期待のままだった。
鯖江は講義室を隈無く清掃する日々を送った。
そのまま、2年の月日が経った。
2年の間も、鯖江はやはり無遅刻無欠席、真面目に勤務した。
ある日、奇跡が訪れた。
清掃員の間で風邪が流行った。鯖江は休んだベテランの清掃員の代わりに、講堂担当となった。
足取りも軽やかに講堂に向かう。
そこでさらに奇跡が起きた。
講堂に着くと、ステージのど真ん中にグランドピアノがあり、蓋があいていた。
引き継ぎでは、ピアノは舞台袖に仕舞われているが、決して触ってはいけないとのことだった。
暗がりの中でも分かるほどに白い鍵盤が、鯖江の目を刺した。
(少しくらいなら、触ってもいいんじゃないか…。)
ピアノに近づくうちに、ボワッと記憶が蘇る。
汚いと言われた子供時代。
リコーダーですらまともに吹けなかった音楽の授業。
楽譜が読めなくてついていけなかった、合奏や合唱。
近づいてみると、ピアノの鍵盤は、自分が触れば汚れてしまいそうな白さだった。
鯖江は手を伸ばした…。
「あ。」
高い女性の声に驚き、振り返った瞬間、鯖江の指が黒鍵に当たった。
予想以上に大きな音が出て、鯖江は飛び上がった。
不協和音がこだましている。
取り返しがつかない罪を犯した気がしている。
振り返った先には女子学生が立っていた。
ツインテールに、フリルのたくさんついたワンピースを着ている。とても綺麗で、天使のようだ。
鯖江に驚いて、楽譜を落としてしまったらしい。
「わ、すみません…!」
女子学生が楽譜を拾い上げながら、鯖江の方にやって来る。そうして、人懐っこく、鯖江に話しかけてくる。
「あなたもこの時間にピアノ練習を予約したんですか? この時間枠は私のはずなんですが…。」
鯖江は自分の愚かさに赤面した。
鯖江には、楽譜の名前が何なのかすら読めないというのに。
「…失礼します。」
とだけ言って、その場を後にした。
(住む世界が違った!)
(こんな、毎日ゴミ集めしてる、俺とは違う!)
鯖江は滅茶苦茶に走り、清掃員の詰所に戻った。
改めて、更衣室の全身鏡で自分を見る。
清掃員の就業服である、水色のつなぎ。
手に握られた紺色の帽子。
ボロボロの紐がちぎれそうなスニーカー。
(俺とは違った…!)
悲しみに打ちひしがれるというよりも、努力でどうにもならないものがあるという驚きの感情だった。
鯖江はなだれ込むようにして鏡に額をつけ、目を閉じた。
女子学生が弾こうとした曲は、奇しくも、ハイドンの交響曲『驚愕』であった。