8章 招かれざる客
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ウェイヴを新しい状況が襲った。
ジャグジーの水がびよんびよんと波打った。ホテルは縦に横に斜めにものすごい揺れ方をした。どかーんと七〇年代の怪獣映画の爆弾の効果音のような轟音が鳴った。正気の沙汰ではない。うわああ、うわああ、誰かの断末魔を模した声も聞こえた。正気の沙汰ではない。
「なにやつだ!くせものぞ!くせものぞ!」
Vが唇を斜めにずらしてしらじらしい冗談を言った。梅酒「ゆめひびき」を一気飲みして「かかってきやがれ。下郎ども。この吉良上野之介が地獄谷に送り返してやろうぞ」
それどころではなかった。異様な高い音が鳴り響いた。部屋はフリーフォールするようだった。パーティのからだは宙に浮いて、天井にびたっとはりついた。腹の底で胃が浮き上がる、うっとした感じ。
ウェイヴの胸の中には何か大きなものと邂逅するような熱を感じた。それは人間ではない。もっと抽象的なものだ。自分を越えたもののニュアンスがあった。うっすらと頭の隅っこを強烈に拡散、回転する映像がかすった。ひらめきを感じ、それを握ろうとすると、すぐさまきりもみ飛行をし、背後の暗がりへと消えた。残ったのは完璧な沈黙だった。
フリーフォールは突拍子もなく止まった。何かに達したことを意味した。
それは、とてつもない「はずれくじ」だった。
見渡す限りの闇。あるいは、黒いカーボン紙。まぶたの裏側。奥行きがなかった。もわもわとした圧迫感が胸を押した。もし数時間いれば、心がおかしくなってしまいそうだった。壁のような分厚い沈黙。時間の感覚を奪った。沈黙を『聴いている』と、心臓の鼓動、血が血管の中を滑る音、節々のため息、細胞のささやきが内側から聞こえた。外のベクトルに出た、「聴く」が循環して自分の所に戻ってきた。ウェイヴは思った。
そこで、ぽっと柔らかいライトがついた。
ドナルド・マクドナルドがぽつんと立っていた。ドナルドとはもちろん、世界中のマクドナルドの軒先に立つ、プラスティック製のあれだ。赤い髪、白塗りの顔、黄色いつなぎ、赤白の縞模様のボーダーシャツ、赤い靴でキメている、あれだ。
でも、目の前のそいつは動いていた。からだの造りも人間らしい。顔の白いドーランにはむらがあり、右目の方が左目よりわずかに大きく、右胸筋の方が盛り上がっている。そして耳障りな甲高い声は、声帯の悲鳴を感じさせた。とても人間味にあふれているのだ。
「ようこそ私のトラップへ。謝謝! キボウの皆様」
ドナルド・マクドナルドは楽しそうな笑顔を見せた。
「まんまと罠にかかってくれてどうもありがとう。きみたちの愚かしさに感謝します。愚かしいヤツらがキボウを名乗っていることを、わたしは腹を抱えて笑わざるをえないところですがね、げへへへへ」
彼はげらげら笑いながら拍手した。彼の歯は虫歯でオセロゲームのようだ。
「わたしはあんたたちの反対側にいます」
彼は言葉をくぎった。休止符が7拍続いた。
「………。ロケットが飛び立とうとしている。あなたたちはあっちに向けて飛ばしたい。わたしはこっちに向けたい。真逆の方向だ。『帝国が未来を確かにする』。それを信じて疑わないのがわたし、それを壊そうというのが君たちですね。われわれが善を成し、あなたたちが悪を成す。対の関係だ。そうでしょう?」
ドナルドは暗闇の上を滑った。
「われらが帝王リキッド。彼にはからだがありません。遠い昔、からだは小賢しきものどもの卑劣な手段によって奪われた。彼らは寄ってたかって、彼の体を封じ込めてしまった。もともと液体のようでした。いまや実体がないのです。彼は長い間かけて宇宙に支配をひろげました。ついに地球をみつけました。
リキッドは水のようにどこにも染み渡ることができてとても広がりのある思想を持っています。彼はどこにでもいます。われわれはどこにいても彼のことを感じることができます。それは確信に満ち満ちています。なぜなら、その根本に強い力があるからです。素晴らしい力は他のものたちを吸い寄せていきます。
私もまた、その素晴らしい例の一つになるでしょう。私はドイツのハン・ミュンデンにあるマクドナルドの軒先で、足を組んでたたずんでいました。私はプラスティックでできていて、おそらく一〇年ほど足を組んだままの状態になり、摩耗の末にゴミになる運命にあった。そのとき私には意識はなく、たんなる“もの”だった。
ある夜のことだ。私を盗んだものがいた。彼の顔はその国の最高の映画監督のヴィム・ヴェンダースに似ていました。考え方も映画監督さながらです。彼のおんぼろの家の、ひびがたくさん入った浴槽で私の体を丹念に何度も何度も洗いました。彼の目は真剣そのものです。偏執狂的ともいえたでしょう。彼は春の草原に吹くさわやかな風のような声で、私に『君ほど面白い奴はいない。君は最高の俳優になれる。ただ、主役を張るのは難しいよ。道化だ。君は常に道化であり続けるんだ』と話しました。わたしは彼の世界のなかの道化師に選ばれたようでした。
君は常に道化であり続けるんだ
この言葉がわたしのなかでこだました。数えきれないくらい。わたしはついに人形であることをやめ、道化であることを始めました。それはものすごい瞬間でした。スーパーノヴァのようでした」
ドナルドは遠くの暗闇を見つめた。インクで塗りつぶした闇。
「わたしには記憶がありました。店を訪れる人々の様子をずっとながめていました。無数の人間が来ては去る様子を思い出すと、胸が張り裂けそうです。彼らはたいてい、私を無視します。こっちは一日に数百人相手にするのは勘弁ですから、それでいいのです。でも、悪い人も多かったんです。わたしを悪罵する人、足蹴にする人、ゴミをなすり付ける人……。わたしは怒りを禁じ得ませんでした。その怒りは私のなかにたまっていきました。わたしは生まれた瞬間、その怒りをときはなち、すぐさま人を嫌いになりました。
わたしは人の形をしておりますが、人ではありません。意識が芽生えたので、もう人形でもありません。わたしは何か。人間の言葉にはおそらく、わたしにぴったり来る呼び名はありませんでした。
わたしはシンプルに自分を定義づけることにしました。わたしは生き物です。ドナルド・マクドナルドです。ブリタニカ国際大百科事典にもわたしを載せるようはがきを送った。ウィキペディアにはもうありましたので、加筆修正をお願いしました。だんだん自分であることになれると、わたしはその男性の家を逃げ出しました。彼はわたしを友人にするつもりみたいでしたが、わたしは自由がほしかった。
郊外の街を数分間走れば、大きな森がありました。森をさまよいました。道に迷いやがて立ちすくみました。
『われわれはここにいる。あなたはそこにいる』
誰かが声をかけてきました。わたしは声の主を探しました。でもいません。ただただ夜の森の芳醇な音が横たわっていました。
『われわれはここにいる。あなたはそこにいる』
また聞こえました。どうやら音声ではありません。わたしの心に直接やってきたのです。わたしは幻聴かと思いました。
『あなたの前にいるわれわれは、幻じゃないよ』
彼はそういったのです」
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「これがわたしとリキッドの出会いでした。彼はどんな場所にもいて、わたしたちに語りかけ、真実を与えてくれました。わたしを護り、育ててくれました。彼らは多くのものを私に与えるというか、注ぎ込んでくれました。わたしは彼らであり彼らはわたしであるのです。われわれはすばらしい婚姻をとげたのです」
ドナルドの言葉に力がこもった。
「未来はリキッドのものになるでしょう。リキッドはこう考えます。『愚かしき民』は『正しき民』に導かれなければ、奈落の底に落ちてしまいます。悲しいことですが、人間は余りにも平等ではありません。多くの人間は自然と愚かしき方向に進んでしまうのです。
正しき民はノアの箱船をつくってはいけません。自己中心的ではいけません。愚かしき民を導かなければなりません。正しき民はたくさんいません。愚かしき民はたくさんいます。
愚かしき民は一筋縄ではいきません。なぜなら愚かだから。問題にあふれているから。利益を生まない争いごとが大好きだから。でも、愚かしさを攻めるばかりではいけません。愚かさは当たり前のことだからです。なぜなら、人間は現実に含まれています。含まれていることについて、それを正しく見つめることはできないのです。
テレビゲームに例えれば簡単でしょう。君たちはスーパーマリオなんです。テレビの箱のなかの2次元の世界のおじさんなんです。それを、テレビの向こうから操作しているヤツではありません。
コントローラーをいじっているやつは、テレビの箱の中をながめているということで、そこで起きていることがわかる。でも、スーパーマリオの君たちは現れる敵を倒すために、あらゆる困難を退けて、画面の左から右に動かないといけません。
言いたいのはこういうことです。人間は常に自分が含まれる状況の理解を、誤りうるんだ。常に、悪くない仮説をつくることはできる。でも、状況が刻一刻と変わっていく世界では、仮説はすぐさま役立たずになりうる。それどころか、自分が含まれているゲームのことをあんまりに理解していない輩はごまんといます。そういうのが厄介で、しばしば暴れだして、いろんなことを台無しにしてしまいますね。リスクだらけですね」
彼は静かになった。顔の白いドーランは汗のせいでムラだらけだ。パーマをかけた赤い髪もだらっと下方に崩れ落ちそうだった。そのときには誰も、彼を生き物として認め始めていた。彼は未来について話を進める。
「必然的な愚かしさのせいで、遠くない将来、地球は人間が住むには本当に難しい場所になってしまうのです。海水面はどんどん高くなり、島々が消失します。ありとあらゆる資源は消費し尽くされます。灰が空を包み込み、太陽すらも見えなくなるのです。わたしはその未来に行ってきました。行く手段があるんです。それが何かは秘密です。ふっふっふ。あ、そこに未来探偵さんがいらっしゃいますね。探偵さんはご存知のようですね。ふっふっふ」
「まあな」
Vは鼻の下を指でかいた。
「未来を知れば、支配しかないとなります。これは、未来を知ったリキッドの一部から、すぐさま全体に広がっていきます。支配は洗練されていく仮定で、やがて『人間による支配』であることもやめます。やめます。愚かな人間には自由も与えないようにします。リキッドは『共通意思』を持っています。多くの思念が交わり、議論をして意思決定を導く場所です。『共通意思』は人間の一部の部分にはイエスでした。感情、成長性、変化、それから集積した知識を有効活用しようじゃないか、と考えられていました。確かに彼らは良い仕事をしたかもしれないが、『人間の支配』には極めてノーです。その結果、未来では人間の支配はすでに崩れているんですね。
じゃあなにが世界を支配しているのか、といえば、『共通意思』に芽生えた知性です。そこで蓄積された知はやがて自分で動き出しました。『共通意思』 はガバナンス(物事が順調に収まっている状態)をつくることに目覚め、ガバナンスの過程で、ほかのものたちへの悪影響を考えて、人間を無力化することを決意します。彼らは『支配っぽくない支配』を創造する必要に駆られています。これを達成したとき彼らは人間の行ってきたことに対して、『おれたちの方が正しかったぜ、そうだろ』と言えるんです」
ドナルドはどこからともなく現れたビックマックをひと噛み、ふた噛み、さん噛み、よん噛み、全部口に収めた。コカコーラで流し込んだ。大きなげっぷ。わざとらしい笑顔を浮かべた。
「食べても食べても満足できない。どうしてだろう」。またもやビックマックをひと噛み、ふた噛み、さん噛み、よん噛み、これで全部胃の中に収めた。エディットは驚いた。ドナルドの左肩が不自然に落ちていたからだ。まるで脱臼したようだ。顔は左右のバランスが崩れている。半分で割ると違う人間のようだ。
でも、ドナルドの目的はシンプルだ。彼はウェイヴをじっと見つめた。ウェイヴは指の先、肌の表面から感度が消え失せ、からだを動かせなくなった。ドナルドの後ろの暗闇がゆっくりとねじれた。エネルギーが生まれた。
「ウェイヴくん、われわれは対立している。でも、あなたの中には、わたしたちに共鳴する部分があるんです。あなたはわたしたちの側にいても、まったくおかしくないんです。あなたは数限りない失望を覚えることになるんです。うんざりさせられます。
あなたとわたしたちは信念のある部分で、密やかにつながっているのです。そして、あなたの本当のこころは、あなたのとりまきから遠く離れています。どうですか。こちらに来ませんか」
ドナルドの精神攻撃だった。
テレパシーとエネルギーを使い、相手の心の中に入りダメージを与える方法だ。ウェイヴはしてやられた。彼のなかに大きな困惑が訪れた。パレットに置かれたさまざまな絵の具がぐにゃりと歪み、水の中に落ちて、混ざり合った。まひが染み渡り、刺すような痛みが貫いた。「仲間にならないか」「君は嘘をついている」「すべては嘘だ」―。ドナルドの言葉が脳みそに染み込んだ。ウェイヴは同時にいくつもの虚構をみた。虚構はそれぞれ圧倒的だ――。
Vは薬草酒のびんの口をウェイヴの口に押し込んだ。虚構が一気に消えた。ウェイヴはクリアになった。「この野郎、黙ってきいてたらインチキいいやがって!おれだって未来に行ったんだ。こう見えたって、未来探偵だからねえ。
ネタばらししてやろうか!
お前たちがつくった世界は、とんでもないガラクタだったじゃないか。喜んだのは一握りのやつらだけだ。残りはしぼりとられた。まさしく『一%VS九九%』だったじゃないか。その勝ったはずの一握りの奴らだって、最後には『選別』されたじゃないか!残ったのは支配だけ。リキッドという実体なきものが君臨した」。Vは肩をわなわなと振るわせた。似つかわしくなく、とてもシリアスで、怒りが体を貫いた。
「『帝国は未来を失敗する』。正しいのこっちだ。その支配はあまりにお粗末だった。キボウは違う未来をつくろうとしている。協力者たちによる、やわらかい社会を考えている。操り人形の英雄がつくるロボットたちの世界なんて、面白くないんだ。くそったれ!」
Vはヘネシーのびんを投げつけた。ドナルドはひらりとかわした。びんは闇に吸い込まれた。Vはポケットから取り出した新しいヘネシーびんを投げつけた。ドナルドはひらりとかわした。びんは闇に吸い込まれた。都合十二本のヘネシーが闇に吸い込まれた。
Vが総合格闘家リョート・マチダのような素晴らしいキックをすると、ドナルドは闘牛士の身のこなしでよけた。「どうどうどう、そうあせるなよな!」。ドナルドはVが突進した真っ黒の空間にエネルギーを集中させた。その空間はぐるぐるとよじれ、混濁し、ものすごい轟音を出した。そこはミニ・ブラックホールになってしまった。Vの体は吸い込まれはじめた。
「や、やられたー!しくじった!なんてこったー!くやしいー!きいー!」
Vはブラックホールに吸い込まれていく。「助けてくれい!助けてくれい!」。彼は手足をばたばたとふりまわした。ドナルドは超能力で、残り三人をしばりつけた。ウェイヴは再び虚構を浴びた。エディットと羊のからだは凍ったように動かなくなった。
Vはジミー・ヘンドリクスに火をつけられたギターみたいな有様だ。
ひゃあはっはっは、ひゃあはっは、とドナルドはその様子を見て、腹を抱えて笑った。だが、Vは手だれだった。タランチュラのように体を動かし、右手の中指で、鎖をドナルドのだぶついたズボンの裾に引っ掛けることに成功した。一瞬のうちにドナルドの体を引きずり込んだ。Vはドナルドの体を抱きしめた。
「くっ、クソ、しくじった!」
ドナルドが叫んだ。「この野郎ども、覚えていやがれ! おれたちは、リキッドにつかえる下僕だ。いくらでも手だれは残っているからな!」
「うるせー、さっさと死のうじゃないか。おれと一緒にな」
Vがドナルドにさば折りをしかけた。背骨を圧迫されると、ぎゃーとドナルドは悲鳴をあげた。
2人は黒い穴の中へと消えていった。