表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
恋する惑星  作者: 夏川慧
8/18

7章 ハック

「ねえ、ウェイヴ、なにをしているの」

 メアリーは金髪の髪をかき上げた。彼女は焦げ茶色のガウンをきていて、その向こうにある乳白色のきめ細やかな肌が際立った。二十歳そこそこなのに、一丁前のコケティッシュな顔をしている。ベッドに腰を降ろし、窓から下の都市の風景をみつめるウェイヴを、さそっている。ウェイヴは視線をゆっくりと風景から、女に移した。それは絵画だった。あるいは写真だった。それは普通の視野に入る何かとはあまりにもかけ離れていた。

 女はとても不思議な生き物だ、とウェイヴは思った。女の表現力の豊かさに舌を巻いたのだ。彼女の表情はあまりにもたくさんの何かを表現している。四、五重のリズムが交錯する、リズムの多層構造みたいだ。それだけじゃない。膝を斜めに滑らした座り方、少しだけはだけて見える足、力の抜けた足の指先、彼女の手と、すっと長い指たち。それらは素晴らしかった。


25


「ねえ、ウェイヴ」

 彼女はふたたび促した。ベッドサイドテーブルから、グラスに入ったカクテルをとり、彼をみつめながら飲んだ。彼女はリラックスしている。ウェイヴは軍隊を投入する必要がない。門は開け放たれ、彼という客人を迎えようとしていた。

 彼は笑みを浮かべてにじりよった。彼女の横に腰を降ろした。ベッドは完璧な代物で、反発もせず、深く沈むこともなく、彼の体重をそのまま受け止めた。彼はその状況を生かして、片方の手を彼女の腰もとに、もう片方を太ももに置いた。彼の聴覚は彼女のまわりの狭い一帯だけに集中投下された。他はなにも聞こえなかった。彼女のすべてが聞こえた。黙り込んでいるが、呼吸している。吐息。からだの呼吸。生命としてのバイオリズムがある。ものすごい音をたてている。うるさい、のではない。濃密。人間はやはり生き物なのだ。揺れている。安定していない。一所にとどまらない。だからすばらしい。彼女からは女のにおいがわき上がり始めた。

 彼女の表情に一つの強いベクトルが浮かんだ。彼と結びつくことへのありのままの表情だった。こんな表情を見れることはあまりないんだ、と彼はガキなのに思った。人間はそんなに素直じゃないし、細かい、くだらない計算にとらわれたり、外部にあるものを深く疑い、恐れているから、と。彼の表情もまたシンクロナイズした。

 二つの揺れ動くバイオリズムがコミュニケーションを始めた。彼は体の力を抜いて急がなかった。ゆっくりとそれが、川の流れのように、行きつきたがる場所へと行くのにまかせていた。恊働はたまに意外な動きをみせながらも、深い結びつきに守られた。まるで、最初からそうなると予想したかのように。膨大な情報が一つの器に注ぎ込まれた。それを互いに自分のなかに取り込んでいく。性交とは情報の塊である人間が、その核たる情報を交換する行為なんだろう。交換には程度がある。信頼を築けていればいるほど、素晴らしいものになり、多くの「記憶」の共有になる。逆ならば、結果も逆になる。

 時間が溶けていた。時間なんて存在しなかったかのようだ。濃密な時間に没入するあまり、その時間のことすら気づかなくなっているようでもあった。 

 山の頂上へと歩幅を置きながら歩いた。泡が現れた。無数の泡たちは結合してどんどん一つになっていく。彼らはそのことに意を介さなかった。自分らのしていることをするだけだ。泡はやがて彼女たちを包み込んだ。ベッドから離陸して部屋の中をさまよった。それでも彼らは止めなかった。泡は外にある小さな泡を吸収してやがて部屋をいっぱいにするほどまで大きくなった。常にその表面をよじらし、光をあらゆる方向に散らばらせた。


――せかいはぐるぐるまわっている

   それでいてきみょうにゆがんでいる――


 泡は突然やぶけた。

 2人はいなくなった。

 泡とともに消えてしまったのだ。


 

 ウェイヴは突然目を覚ました。ジャグジーの中。

「なんだったんだ?」

 すべてはビジョン(幻視)だった。だが、現実より現実感にあふれていた。「どこから来たんだ?」ウェイヴは髪の毛をかきむしった。幼い頃、あるSF小説を読んだ。次々と女と交わって、女のなかにある重要なエキスと化学反応して、特殊能力を発達させていく男の物語。彼は憧れた。いろんな女性と関係したいという潜在的な欲望をいとも簡単に説明していた。性欲は全部が全部浅はかではない。

 彼は女と交わることで自分が変わっていくと信じた。「進化」じゃなく「変化」。生き物として、まったく自然なことだ。生を改造しすぎておかしくなった人間にとって、なめらかな変化こそ処方箋になりうると、ウェイヴは考えていた。

 だけど、新しいビジョンがウェイヴを襲った。

 荒いドット模様がごちゃごちゃしている。錯綜している。ファミコンがバグったときの画のようだ。めまい。

「おいウェイヴ」

 目の前にビートが現れた。ビートは陸軍将校の顔つきをしている。ウォール街の銀狐のごとき光沢感のあるスーツ、細長い葉巻をすった。もうひとつの片手はポケットに突っ込まれ、ファッション雑誌のモデルの姿勢を維持した。

「お前は、ビートじゃないか。おまえどうやっておれに辿り着いたんだ」

「ふっふっふっふ。不思議な力に目覚めてしまったんだ。リキッドからさずかった力とでもいえるだろう。さて、さっきの演説をみたかな、ウェイヴ?」

「ああ、見ていたよーん。大層立派なことで、すごいなーって思ったよ」

「あれで、はっきりしたことがある。おれはおまえを越えた。おまえは気づかなかったが、おれはいつもお前の背中を追いかけていた。おまえはどんどん、ひとつ飛ばしでモノゴトを進めていく。おれは悔しい思いをしていた。おまえはある日からおれに気づきもしなくなった」

 ウェイヴはビートが同じクラスにいることは知っていた。同じ渋谷公営住宅に住んでいることも知っていた。でも、印象はないに等しかった。ヤンキーのヤツらにこき使われていたのが、いきなり、獰猛なエリートとして変身したのは衝撃的だ。

 ビートは派手に手を振りかざして熱弁した。「まだ、おれは覚えているよ。お前がおれをばかにしたあの決定的な瞬間を。おれは役立たずなんかじゃあないんだ。いまこうして、おれは証明した。おれはおまえをこえたんだ!」

 ビートが革靴をたたきつけると、ドットたちが赤みがかり、錯綜した。音はむかつくくらい反響した。でもウェイヴは何を言われたかわからなかった。「わるいが、何を言っているか、ぼくにはよく分からないな。ぼくとあんたは、密にかかわったこともないはずよん。フェイスブックの『いいね』を押したこともないでしょ」

「なんだと、覚えていないというのか! なんて野郎だ!」

 彼の叫び声は世界を真っ二つに切り裂いてしまいそうじゃないか。ドットは嵐のように舞うことで怒りを明らかにしていた。

「わかった、ビートっち。あんた記憶が移植されてんじゃないの、わっはっはっは。『ブレードランナー』みたいにさ。わかった、あんたアンドロイドなんだな? 電気羊の夢でも見ていろよ。わっはっは」

 もういいよ、とビートは洗脳された殺し屋みたいな表情になった。

「おれはこれから君たちをやっつける。ゼツボウは『問題』を生み出す『敵』を見つけたら、徹底的な戦略で相手を滅ぼしにかかるんだ。そうしなければ、敵は世界を壊す呪文を唱え、良識的なわれわれが滅びるはめになるんだ。中間はなく、二つにひとつなんだ。とても分かりやすいだろう」

 ハッハッハ、とウェイヴは相変わらずちゃらけている。

「おれは音楽をやっているんだぜ。拡張された感覚で、世界のあらゆるディヴィジョンにあるものたちをすくいとっているんだ。世界はおそろしく複雑だ。少なくとも、おまえの感覚とはすごーい差なんだな。つまりね、敵と味方という二つにひとつの考え方ってのが、現実と合致しない。おれはさっきまで森にいた。あそこには、余りにも多様な関係性が存在した。関係性はだよ、人間が言葉を持っていないせいで表現できないほど細やかで、さまざまなんだな。わかるかな?」

「わかりはするよ、ウェイヴ」

「おれはナショナリズムとかさあ、イデオロギーとか、アイデンティティとかさあ、そういうの、ばかばかしいって感じているわけだ。おれは音楽をつくっている。ラップトップのなかで、デザインしているわけだ。そのとき、いつも、何を生み出したいのか、人々が生み出されたそれを好きになるか、それが人のために、宇宙のためになるか、考えているんだ。この考え方からいくとね、どうも、いまの世の中の動かし方ってのは、『いままでこうやってきたから、こうしなくてはいけない』『これまで軒札と問題点を考慮すると、こうせざるをえない』ってところで堂々巡りしてるんだ」

 ウェイヴはため息を吐き出した。

「先入観にとらわれている。ナショナリズムとかは先入観というか固定クソ観念というかの筆頭なんだ。うまく働かない所がある。オヤジにも聞いてみろよ、カイシャにだって固定観念でずぶずぶになった部分がどっさりあるんだ。ゼツボウってのはその最たるものだ。『人間は愚かしい!だから悪い部分をおさえつけなくちゃあねえ!』ってか。それは山に掘ったひとつのトンネルのなかから、その山のすべてを類推するような者だ。ばかがやることだな。幻想に過ぎないぜ、あほ」

 ビートは拍手した。余裕を示す満面の笑みを浮かべながら。

「ハッハッハ。いいね。いいね。実はナショナリズムだとか〜のところはわれわれは同意見だよ。われわれはもう役に立たないと判断した。でも、レキシを忘れられない。われわれの履歴だし、キミは人間の不快さから目をそむけた話をしているんだ!人間はなんでもない理由から他者を殺す。精神が崩壊するまでいじめられたヤツがガッコウで銃を乱射する。リスクについて、ちゃんとした準備を持つのが、権力のすることなんだよ。いっちゃえば、『人間に投資するのは割に合わない。人間を囲い込む環境に投資する方が効率的だ』って考え方でもあるな。

 もし、キボウが言っている青臭いことが実現するとしても、それは二〇〇年くらいの後の話だと思うんだけどね」

 彼はうそくさい満面の笑みを浮かべた。

「そしてだよ。ウェイヴ。おまえは、最もシンプルな部分を忘れている。おれがおまえを敵と見なす限りは、おれたちは敵同士のままなんだ。敵と味方の中間とか、それ以外の無関係とかそういうふうにはならないんだぜ。おまえの好きな白昼夢は所詮、白昼夢にすぎない。人は、他人を憎み、敵と見なさざるを得ない愚かな生き物だからだ!」

 ビートは手のひらを掲げた。その上にドットが集まり、爆発的なエネルギーをもえあがらせた。彼が手をウェイヴにむけてふると、それは火の鳥になって、ウェイヴの体を真っ二つにした。ウェイヴは生きたまま自分の体が、腹から半分になったことを見ていた。たくさんの血がこぼれている。痛みは感じない。

 ビートはウェイヴの頭を上等な革靴でふみつけた。

「おい、ウェイヴわかったか。おれはそんな甘く世界を見てなんかいないのさ。いますぐキボウを粉砕して、ゼツボウを基底にした素晴らしい社会を実現させてやる」

「『粉砕』、ねえ、懐かしい響きだ」とウェイヴは笑った。

 靴に力が加えられ、ウェイヴの頭は粉々になった。


 ウェイヴからビジョンが去った。ウェイヴはホテルのジャグジーの中だった。「ビートか、あんなやっかいなヤツだったかな」と彼は、のぼせながら思った。

 ビートも玉の間に戻った。

「ようし、やってやったぞ。あとはヤツらを捻り潰すだけだな。ハッハッハ」

 彼は皿の上のりんごをとってかじった。玉座があり、国連的に集めた世界中の美女たちが彼の身の回りの面倒を見て、さまざまな方法でリラックスさせてくれる。

 しかし、ビジョンは終わらない。ビートは再びそれに飲み込まれた。

 戦闘機が空を飛んでいた。双発プロペラ機で機体は古かった。確証はないが第二次世界大戦ごろのテクノロジーだ。ただ、機体は何ものか、よく分からない。

 戦闘機数百は蜂の群れのように飛んだ。その先に大きな街が見えた。摩天楼の雑木林の上に、真っ黒な四角錐が浮いた。街の外縁はリングと呼ばれる円環で囲まれていた。

 戦闘機はやがてなだらかな下降に向かった。いきなり街へとダイヴしていった。戦闘機にはきわめて優秀な爆薬が積まれていた。

 すべての戦闘機がダイブを終えたとき、ガレキの山だけが残った。


「なんだったんだ? なんでおれはこんなビジョンをみたんだ」

 ビートは頭を抱えた。心配した女が渡した手を、乱暴に払いのけた。すぐ我に返った。「ああ、すまない、ちょっと気分がわるいんだ」。彼を覆っていた「新しい力を手に入れた」という全能感はうすれた。代わりに得体の知れぬ不安が現れた。

「どうやら、おれにはしらされていないことがたくさんあるようだな」。全知全能の地球の長になった気分だったのに。世界は彼に対しても十分な悪意を持っている。クソッ!彼はパイナップルジュースの入ったグラスを床にたたきつけた。無惨にくだけちった。

「…………」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ