1章 渋谷鹿の救出
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渋谷鹿という鹿がいた。
渋谷にいる鹿という意味で間違いない。
でも、そんじょそこらのただの鹿じゃあ、ぜんぜんない。特別も大特別、おそらく、一山いくらの人間なんかよりも特別な存在だった。
まず、その鹿はとても頭脳明晰だった。ほんの一例にすぎないが、彼があやつる言語は四十二語もあるわけで、特に日本語、英語、上海語、ヒンドゥー語、タイ語、インドネシア語、バスク語、スワヒリ語は赤子の手をひねるようにつかえた。あるいは、六法全書は一語一句暗記してあり、警察の「任意の事情聴取」にでもあおうものなら、軽く一時間は法律について講釈をたれ、「法執行者による自己中心的な法の解釈」をめためたに批判することができた。つまり警察に嫌がらせされっぱなしではすませなかった。
彼は草深い徳島県の村で生まれ、茅葺き屋根の木造校舎でできたトレンディングな小学校に入学すると、またたくまに神童と呼ばれるようになった。そのまま県下の名門中高一貫校「徳島できすぎ高校」に入学してからも、「空欄に適切な言葉をうめる」ことに辟易としながらも、毎年学年トップの成績を上げた。
彼が肩で風を切って廊下をぶらつくと誰もが彼に羨望のまなざしを送り、なかには聞こえるような大きい声で、「ああ、鹿先輩のように頭よくなりたーい」とお上手を言う、ごますり小僧がいるくらいだった。
彼が高校の卒業文集にすっと置くように「少なくともノーベル賞を獲りたい」と書いたのを、誰もが将来実現されるはずの真実としてとらえていた。大学センター試験ではもちろん満点をとり、その後の代々木アニメーション学院の試験でもやはり満点をとることに成功した。かたっぱしから大学入学試験に合格し続けたが、マサチューセッツ工科大学の試験を目の前にしてある問題にぶつかることになった。自叙伝「鹿と人間の間に生まれた天才~出過ぎた杭は抜かれず、突き抜けた~」で、彼はその決定的なできごとをこう語っている。
「私はカルフォルニアのホテルのスツールの上で、ルームサービスで頼んだアールグレイを飲みながら、翌日の試験のことをうっすらと思い浮かべた。私は、自慢してもしきれない抜群の準備をしていた。試験があやしげな中古車ディーラーが扱う中古車の欠陥を見抜くことでない限り、あるいは、テニスでロジャー・フェデラーを負かすことでない限りは、満点合格は間違いなかった。私はそうやって課されたハードルの数メートル上を悠々と飛び越えることが普通だった。それは虚栄心によるものではない。ただ単に私の中にあるビッグバンのごときエネルギーがそのような結果をもたらしていた。私はそういうことにとても飽き飽きとしていて、もっともっと愉しいことを探したいと考えていた。万里の長城のような高い壁をこころから求めていた。
だが、私が軽々と物事を飛び越えてしまうことを、人々が羨み、嫉妬し、ときには憎悪を燃え滾らせるということには、あまりにも無頓着だった。そのせいで私はその後の人生でものすごい会心の一撃を喰らうわけだ。そうそうあれは……(中略)
それで、とにかく、そのホテルでの決定的瞬間のことだ。突然、私の脳裏にあるビジョン(映像)が現れたのだ。そのビジョンは私の脳みその感情を司る部分を大いに揺さぶり、理性を司る部分に伝染した。
『なんてすごいんだ!』
私は一人きりなのに大きな声で叫んでしまった。
南極――。
すべてが白く、凍っていた。
流氷に穴を開けて、海水内に特殊なマイクを忍ばせて録音したと考えるのが妥当な、神秘的な音たちが踊り、唄い、心の底からの声をはくのが聞こえた。
ビジョンは少し現実的で、残りのほとんどは虚構の美しさで満たされていた。
膝は激しく振るえ、やがて召使いを呼び、二十八個のボストンバッグに荷物を詰めさせた。私はその足でそのまま南極に向かった。有名な『鹿の探検隊』。私が大学教育というものを拒否した瞬間だ」(「鹿と人間の間に生まれた天才」三章 人生とはままならぬ、三九~四〇ページより)
このできごと以来彼は流浪の生活を始めた。彼はアラスカの古着屋で型落ちの警察の制服を見つけ、さらに中古車屋で買ったホンダアコードを白黒に塗り替えて、パトカーを偽装し銀行を襲った。誰も傷つけず四一〇〇万ドルを獲得した。彼はすぐさま、ウォーレン・バフェットの自伝を買ってきて、彼が表面上明らかにしたノウハウを吸収し、彼がブラックボックスにしている所も洞察してみた。誰にも見えないその暗闇に、彼は風景を描いた。
「こいつはなんて頭が良くて意地悪なおっさんなんだ!」
彼はモーテルの一室で叫んだ。すぐさまウォーレン・バフェットになったつもりで投資してみた。彼の資産は年率67%のリターンをたたき出し、彼のもとにホームレスマネーがあつまった。彼は常に大もうけし、世界中を行ったり来たりすることができたのだ。
やがて二十九歳の夏、彼は十年の旅に終止符を打った。彼は渋谷の若者カルチャー(つまりギャルのこと)を特集したフランスのドキュメンタリー番組を偶然見て、いまさらながら渋谷に対して、得体の知れぬ興味をもつに至ったのだ。彼はすぐさまその街に引かれ、渋谷の美しい界隈に立つセキュリティが半端ない高級マンションに居を構えた。
彼のファッションはロシアのマフィアと雑多なものが混ざった感じだ。プーマのジャージと、ナイキの「エアマックス95」、ヨウジヤマモトのハートをあしらったTシャツ、クロムハーツのネックレス、金無垢のロレックス、全身を覆う茶色の毛をすべて金色に染めて街を闊歩した。
新参者、しかも鹿という状況に、渋谷っていう街は甘くなかった。ギャング、キャッチ、大学生、サラリーマン、ヤクザ、不動産屋、ネット土方と、四方八方から袋だたきにされたが、鹿はぜんぜんまいらない。彼は叩かれながら敵の手の内をしっかりと覚えていき、その後は一匹ずつぎゃふんといわせた。集団に頼っている連中は、往々にしてひとりぼっちになると……もろい。
彼はまたもやハードルを軽々と飛び越えてしまって、ちょっと不満だった。持ち前の交渉力と、金にものを言わせたやり口で、勢力を増し、すぐさま「渋谷四天王」の一人に数えられるようになり、やがて他の三人の天王もあごで使い始めた。
伝説の始まり、とも言われる。
2
どうして渋谷鹿は伝説をつくることができたのか?
いまでもこう問う人々はたくさんいる。諸説は入り乱れたものの、答えは出ていない。
もちろん彼はマサチューセッツ工科大学をほぼ合格したようなもの。でも学校で頭が良くても、実社会で通用するかは別だ。
渋谷鹿のエネルギーは頭が良いとか悪いとかのレベルじゃなかった。アインシュタインものけぞりそうな、天才的なひらめき、である。特に賞賛されているのは、性交渉における男性の持続力を増幅するトレーニング用のフラフープの発明なのだ。
渋谷鹿は大宮遠征の帰りの埼京線が赤羽駅を通りかかるころ(彼はなぜか大宮のチンピラをかわいがるための遠征を愛した)、つり革をつかんだ若いオフィスレディの細い体に、電車のゆれが伝っているところをみた。60年代の記憶がよみがえった。
「フラフープ。ああ、懐かしい響きだ。時代遅れの響きを常にともなっている。でもね、あれには素晴らしい効用があることを忘れてはいけない。だって、あれを使う女性の動きはあまりにも挑発的だ。もしおれが独裁者だったら、あの運動を女性に義務づける法律を作って、チャウチェスク・ルーマニア大統領みたいに、朝のテレビ番組で『腰をふれ、ふらないと死刑だぞ!』と厳命するんだ」(「鹿と人間の間に生まれた天才」四章 ときめかないと、ひらめかないと、七九ページより)
彼自身、理にかなう説明には失敗したが、とりあえず彼はそのころ千葉県柏市に保有していた工場で、イノヴェーティヴなフラフープをつくりあげた。側近のマコトとともに検証した結果、このフラフープを利用すると、男性の股間と肛門の筋力がはね上がることは確実に思われた。かれらはドヤ顔をしてそれを「モテフープ(モテるフラフープ)」と名付けた。彼らの自身は揺るぎなき者だった。
彼は渋谷の一番素晴らしい地域を根城にしているベンチャーキャピタリストたちと次から次へと会って、プルトニウム爆弾のようプレゼンテーションをかました。彼らは、その暴力的な熱さに感化され、すぐさま渋谷鹿を好きになった。そのプーマのジャージをまとった鹿にぽんと数十億円を渡した。中国・深圳の工場で委託生産されたフラフープは“冬場のみかん”のノリで売れまくった。
鹿はとてつもなくクレバーだった。まず、渋谷ハチ公の交差点で五百人が一斉にフラフープを使う映像をYouTubeに載せた。悪ふざけぐせのせいで売れそこなった気鋭の映像監督を採用してカメラ十七台を駆使してあらゆるアングルを効果的に使った斬新さでせめた。ど真ん中で、テンガロンハットをかぶり、ドルチェアンドガッバーナのド派手なサングラスをつけた鹿のキグルミを着た輩が、葉巻を加えながらこう言った。
「マクドナルドで働くか? バーガーキングで働くか? それともウェンディーズかい? それがイヤなら、モテフープを回しやがれ!」
すると水着姿の女たちが鹿を囲い込んで、黄色い声を上げる。スーパーの籠につめた札束をばらまく女もいる。
「ああーかっこいい、この鹿! 鹿のくせにイケてるのは、モテフープのおかげね」
「そのとおりだよ、二十人のガールフレンドたち。100人の準ガールフレンドたち。ナイスですね〜。これもなにもかも、モテフープのおかげさ。さあ、テレビの前で、ほえ面書いているヤツら、ブラック企業でバイトするなんてやめてさ、いますぐモテフープ、もといモテフープを回しやがれ!回せ!回せ!舞わせ!回せ!」。この後皆がサンバを踊りだした。
映像は2週間で5億アクセスを記録した。すぐさま、ウォルマート、ターゲット、カルフール、ロッテ、イオンなど主要なグローバル小売業者からの注文が殺到した。アマゾン、イーベイ、アリババでは前代未聞の発注数を誇り、配達員の過労死が相次いだ。鹿はすぐさま女性バージョンのフラフープを開発し、似たような映像をつくってこれまたスマッシュヒットした。
頭が良い彼は、もちろん起こるべくことに対処するのを忘れなかった。別名「小田原城」と呼ばれる、ディフェンシブな特許群で、類似商品を封じ込めた。徹底的な秘密主義で、製造上のある秘密をこっそりと隠し通した。類似商品をつくることは、濡れた流木に火をおこすよりも難しいと言われた。
だが、中国・深圳の天才たちを眠らせておくことはできなかった。ジャングルのようにしげった工房は、試行錯誤の末に、ちょっとまわりくどい製造方法を編み出した。瞬く間に、魔法のように優れた模造品があふれ始めた。
鹿は秦末期の楚の武将、項羽を彷彿とさせるほどの、かんしゃく持ちだった。類似品メーカーのすべてを法廷に持ち込んだ。だが、多勢に無勢。1社だまらさせても、すぐに新しいのが無数に現れるのだから、だんだん彼の手は間に合わなくなった。訴訟費用はふくれ上がり、それを回収できる見込みはゼロに近かった。この大量訴訟は、アップル―サムスン訴訟とともに、イノベーションの対価は誰に与えられるべきかということをめぐって、世界的な議論を巻き起こしており、学会ではまだ誰も説得力のある結論を導き出せていない。
訴訟の効果を疑い始めた彼は、しかたがなくフラフープの材料をチタンにしたり、折りたたんでクローゼットにしまえるようにして、差別化をもくろんだ。だが、モテフープはあまりにも売れすぎて、ソーセージのように一般的な商品になった。誰も小さな違いに気を払わなくなった。
鹿にはその後も委託業者からのライセンス料が舞い込んだが、かつてのようなボロ儲けは叶わなくなった。彼は自動車の大量生産を編み出したフォードのように名声には恵まれた。いまでは誰でも自動車を大量生産する。多くの工程がロボットによるものになっている。同じように、いまでは誰もがモテフープで来るべきときに備える。その製造は自動化されており、工場で働く人は管理者と検品者の2人だけでこと足りるそうだ。
しかし、これで終わらなかった。彼のひらめきはタフだったのだ。ある昼下がり、スターバックスでトール・スターバックス・ラテとサンドイッチの値段にギモンを感じながら、友人と猥談していた(彼は最低3時間居座るのをポリシーにしていた)。えげつない話の内容に隣のクッキーを焼くのが趣味と主張する主婦連中の顔がくもった。
そんなカオスのなかから、突然、面白いアイデアが浮かんだ。
彼はその足で東京都太田区の工場で7日徹夜をした。アドレナリンが彼を眠らせなかった。社員たちはテクノバンドがステージに置くロボットのような動きで、サポートした。すると、またマスターピースができあがった。美しい弧を描いて傲慢な権力濫用をやらかす老害の後頭部をいやらしくなでつけるフリスビーである。
そフリスビーの機能のうち、最もほめそやされたのは、「透明化」だ。そのフリスビーは複雑なきりもみ運動を伴うことで、その姿が見えなくなる。しかもフリスビーが老害管理職の権力濫用を認識した場合しか「透明化」機能を発動しないという制約をつけられている。フリスビーの誤った使い方を防ぐためだ。学校での先生いじめや、馬鹿げたヤツが他人を恐れ戦かすのに使われないように。鹿はそういう人間たちが本当に大嫌いだった。特に同調性が高く、善悪の判断をしないヤツらばかりのその国では、キケンがどこそこに転がっていた。
鹿は当時の恋人のモエに、ベッドサイドでこう話した。「この素晴らしすぎるフリスビーをなんと呼ぶべきだろうか。私は九十八の候補からこの名前を選びたい。『老害による権力濫用を排除するフリスビー』!」。
モエはこう振り返っている。「彼がそういうと工場の真横に大きな雷が落ちた(彼らは工場に設えられた私室にいた)。部屋の中に真っ白な光が満ち満ちたのよ。彼の体中を覆った毛がここぞとばかりに輝いた。彼はいつだって狂っている感じだったけど、そのときはいっそうそうだった。私はそういうのにちょっとおぞましさを感じてた。『どうして、こうまで普通じゃないのこの人って』ってね。まあ、確かに雷が落ちたよね。とにかく、彼の命名はどう考えても長過ぎた。そしてすぐにその名前を忘れていたことに、わたしは気がついた。つまりピンとこないのよ。私は『ねえ、あなた、なんて名前だっけそれ?』って尋ねたの。すると彼も『えええっと。あっれ〜何だっけなあ~忘れたなあ』っていった」
モエは「フリー・スビー(自由のフリスビー)」とコンパクトな案を出した。鹿はすぐさま、自分の案をほっぽり出した。
彼はすでにこのときまあまあ金持ちだった。彼はこのイノベーションを儲けることよりは、世の中のあり方を変えることに使いたいと考えていた。
「私は世界中を旅していて気づいたが、世界中の多くの国が、特に欧米やアジアの裕福な国で特に、高齢化が進んでいた。高齢化社会の大きな問題は、次世代のことなんか全然頭になく、人生ももうあとちょっとだから傲慢に自分のためだけのずるいことをやってやろうじゃないかという老人の態度なんだ。ばか、老人め!
いい老人もたくさんいるけど、全てを台無しにしながら椅子を譲らない老人もたくさんいる。
日本では、そういう老害があらゆる組織に染み付き、他に居場所がないせいで、むしろ強い決意を持って自分中心的なゲームを押し進めていた。ヤバいことに『次の世代のための種を撒け』という良識派が、少数派に成り下がる、という現象を生んでいた。時代遅れの仕組みを変えようと叫び立てれば、粛清されてしまう。
私は厳密に考える方だ。もし邪悪なじいさんの自己チューが続けば、われわれの未来がぶっ壊れる。それをとてつもなく恐れていた。恐怖が私に新しい発明を与え、そして当時の愛人であるモエとの涙なしには語れない別離(金絡みのもめ事がキッカケだった)にいたる決定的なプロセスを誘発したのだった」(「鹿と人間の間に生まれた天才」四章 ときめかないと、ひらめかないと、八七ページより)
彼は金持ちだった。金よりもテクノロジーで世界を変えて見たかった。フラフープの一件で、彼はどうすれば、自分の発明が世界を駆けめぐるか知っていた。
彼はこの製造方法をネット上でオープンにした。製造は3Dプリンタがあればどこでもできた。シンガポールをスコールが通りすぎるほどの短い間に、「フリー・スビー」は世界規模の大ブームになった。ある時期には各地の工房の3Dプリンタがこのフリスビーだけを作り続けたと言われた。各国・各企業・各コミュニティで世代交代が起きた原動力の一つになったことが、多くの証言で認められている。
3
鹿の発明はほかにもたくさんある。でもここでは割愛しよう。この物語が鹿の伝記ではないからだ。
とにかく、これらのあらゆるテクノロジーへの貢献が、鹿が渋谷区の富裕層が集う土地に敷地1ヘクタールの豪邸を持つことを許した。彼はそのときにはドラッグで理性を失った渋谷のギャングや、繰り返される日常に絶望した社畜が、発狂して襲いかかってくることに心底おびえて、塀を高くし堀を深くする富める人々の一人になっていた。
その豪邸はクボタのトラクター、コマツのブルドーザー、キャタピラーのショベルカー、マンのヘビーデューティトラック、ウルトラ警備隊のマグマライザーと、ごつごつしたヘビーな乗り物がたくさんあることで知られた。彼もまたベンチャーキャピタリストとして、エンジェル投資家として、無数の万馬券をがばがば買いまくった。それはあまりにも損を出した。でも、彼は「情熱の賜物なんだ。金なんて東京湾にまくか、こうするかくらいしか、使い道はなかろうぜよ」と話した。彼は自分に続く勇者を常に探していて、若いヤツのエネルギーに触れることで、自分のなかにあるくすぶった火薬にまた炎をつけてやりたいと考えていた。
そう、彼はまあまあくすぶった。次なるビックパンチが出ないんだから。それで、彼は「死ぬまでの時間つぶし」的行為に走った。軽井沢ではフランク・ロイド・ライトが設計した別荘を買い取って、「最先端人種」って呼ばれる浮浪者どもを集めて、毎夜毎夜、目もくらむような乱痴気騒ぎをしでかした。休日はテニスをたしなみ、その金色の毛に覆われた体を真っ白のテニスウェアで包み、時速72キロのサーブを放った。彼のプレースタイルは格好が良く、年に1回はサンプラスを彷彿とさせるサーブアンドボレーをかますことができた。
ちなみに、彼の外見はかなり人に近づいていた。マイケル・ジャクソンばりに容姿に神経をつかった。おおむね2足歩行で歩いた(ただ酒が入ると地が出て4足歩行になるときもある)。小便をするときは3足歩行だ。それから「良識のある紳士」の装いを好み、金色に染めた毛は品のいい店で出てくるざるそばのようにそろえられている。ケーリー・グラント的な笑みを絶やさず、半開きになった口からホワイトニングされすぎた歯がのぞいた。チャーリー・チャップリンも腰を抜かしかねない魅力的な口ひげ、目は苦々しい思い出を思い出しているかのように、常に遠くを見つめていた。立ち振る舞いはきざったらしく、それでいて、麻雀荘の常連のような気さくさもあわせ持った。
とにもかくにも、彼という人間をひとつの何かに括り付けるのは難しい。彼は常に変化している。彼に話しかけてみたら、それは別の彼の人格だったなんてことはざらなのだ。それは多重人格なんかじゃない。彼はいつだって昔の自分を置き去りにする。もう二度とそこに戻ろうとしない。焼き畑農業のようだ。いまある農地を放棄して、森を焼き豊穣な新しい農地に出会う。そんな感じだ。彼は常に時代の風に乗ってきたことは明らかだ。それがうまい乗り方かどうかは別として。
4
金鹿、そう渋谷鹿の説明はしてもしたりないが、我慢してとにかく重要な部分に進むしかない。
鹿はとある奇妙な世界で独特の役割を担った。奇妙な世界の説明は後回しにする。独特な役割とは〈協力者〉である。これも説明は後回しにする。
とにもかくにも、この役割を憎たらしいと思う人がたくさんいたのだ。彼は渋谷のクラブ「エイジア」で遊んでいた。数十人の「最先端人種」にタダ酒を飲ませて、プリンス・ロジャーズ・ネルソンのように踊り狂った。何かを欲しそうな人たちがフロアを埋め尽くし体をくねらしたり、酒をあおったりしていた。彼はそのうごめきを見ながら、まったく確信のないひらめきを覚えながら「きゃりーぱみゅぱみゅみたいな彼女がほしいなー」と考えた。
だが、まったく逆方向のものが捧げられた。どこからともなく現れた黒ずくめの屈強の男たちにとらえられてしまった。フロアがわいわいする中、男たちのリーダーである背の低い牛乳瓶眼鏡をかけた男は「警視庁」と書かれた手帳を見せつけた。自信満々にこう言い放った。彼は人間中心主義者で、鹿が人間の界隈に入るのをよしとしていなかった。
「鹿野郎、てめえは人間であることを詐称した。詐欺の疑いで逮捕するんぞこの野郎!」
「おいおい、証拠を見せなよ。そんなファンタジックなんで、書類送検できんのかいな。できるとしたら、もうこの国もおしまいだ。シェーだよ。シェー!」
牛乳瓶眼鏡はばりばりのノンキャリだ。
「わっはっは。最近は桐ダンスみたいな感じだよ。うまく押せば、何でもありなんだ。そんなんで、ふんぞり返っているから、あっちょんぶりけだよ、キミ。わっはっはっは!」
牛乳瓶眼鏡からは、階級化して能力が伴わないエリートへのあざけりがうかがえた。それから、エリートと叩き上げの間に引かれた線への悲哀ものぞいた。
鹿は赤塚不二夫の漫画的なリアクションをかまして驚いた。「シェー!なんてこった。おれはずっと、鹿として渋谷にいたんだぞ。ずっとおとがめなしだったのに、いきなりだな。最近は何でもかんでもなんですか、それともおれっちにだけはそういうやり方ですか? もしかして何かとおれっちを勘違いしてるでしょうに?シェー!」
鹿はその間に自分が知りうる最強の弁護士のことを思い浮かべた。あのバッファローのような法律屋が動き回れば、こんなことで塀の中に突っ込まれることはあるまい、とたかをくくった。だが、想定は裏切られるためにある、らしい。彼は警察署に連れてかれるわけじゃなかった。奥の方から、400キロはあろうかという、弁髪のデブが出てきて、青龍刀をテーブルの上に突立てると、おもちゃのように小さく見えるハイネケンのビール瓶で思い切り、頭をどつかれた。
「きやいん」
*
目を覚ますと白い四角い部屋のなか、であった。
ホワイトキューブだ。なぜか一カ所には、八〇年代的な月面の壁紙が張られていて、デコボコの月の表面、紫色の土星、タコのような火星人、光線銃を握った水着美女、大きな伊勢エビ、アダムスキー型のUFOが描かれていた。その手前に、時代遅れのレーザーディスクを読む方法のカラオケマシーンが設置されていて、歌い放題になっている。曲は化石並みに古いものしかなく、サウンドシステムはぽこぽこと微笑ましいローファイさだった。
だが、もっと大きな、あるいは詳細なる特徴をその空間は持っている、と渋谷鹿は推測した。まず、不定のタイミングで震えを伴わない地鳴りが聞こえた。地鳴りは興味深い点をいくつか含んでいた。
「私が気づいたのはこういうことです。まず地鳴りの音の現れ方は、その音の発生場所の方向が特定できないようになっていた。ごおおおおお、と音がなるのだが、それはどこか一転から来るのではなく、彼を囲む空間すべてから現れるのだ。そして、それも均等に全方向から現れるのではなく、むらがまあまあある。左ではちょっと小さくて、右前左では少しだけ大きい――こんな感じの微差が無数に積み重なっていた。これらはゼロサムの感じでもなかった。つまりすべての音の量を足すと平均して同じ音の量になるわけではなく、毎回かなりむらがあるわけだ。とどのつまり、完璧に放っておかれているか、操られまくっているかのどちらかだった」(「鹿と人間の間に生まれた天才」六章 不思議な不思議な狭い箱、一〇一ページより)
そして、その空間は一見立方体の形をとっているふうだが、よく見ると立方体はぐにゃぐにゃに歪みまくっていた。壁と壁の間の線を目で追っていくと、一見まっすぐなふうだが、目が慣れてまやかしの厚いベールを越えると、恋に落ちた中学校2年生の心理状態のようだ。天井も見る角度によって見え方がまったくちがった。
つまり、そこは立方体のようにみせかけられた、歪んだ箱だ。ていうか、箱と言えるかもあやしい。
彼は自分が錯乱しているのか、どうか確かめる術もなかった。眼球にプリズムを仕込まれているのだろうか。やはり確かめる術がなかった。
つまり自分がおかしいのか、それとも箱がおかしいのかは分からなかった。あるいは両方ともおかしいのか。彼は昔読んだ仏教の本のことを思い出し、心を「空」にすることを意識し始めた。そうやってその空間にたたずんでいると、もう一つのポイントが浮かんだ
「あっちょんぶりけ。おそらく時間も歪んでいる。どうなっているか分からん」
その空間で時計をつくることはどだい、むりだった。
5
長い間、ぼうとしていると、おぼろげな言葉が聞こえた。ものすごくもわもわしている。
彼は三角形の耳をピンと立て、目をこらした。
もわ~と眼前の空気がうねりだした。それは大きな形を生み出した。彼は自分の目の前にもう一人の渋谷鹿を認めた。改めてみるとプーマがださかった。そいつは憔悴しきった自分より遥かに元気で、カリブ海のビーチにいるような陽気さすら漂わせた。鹿は頭を抱えた。どうやら幻を見始めたようだ。かなり危ない兆候だと分かる。
「ハーイ、ナイスですね〜。鹿君、キミ、疲れているね。大丈夫かい」
そいつは問いかけた。
「うるせえ、お前だって鹿だろ?」鹿は返した。「お前は何者だ?」
「ご察しの通り、わたしは幻さ。何の根拠も持たない幻さ」彼はにっこり笑った。「わたしは自分のことを理解することができないんだ。あまりにも複雑で理解しがたいのさ。わたしという幻は無意味で謎めいたものであり、ゆらゆらとした真夏の白昼夢の錯覚でもある。何やら神秘的なものが存在しているが、その神秘に触れるための道筋は完璧に閉じられていて、本質に触れることができない。そういうふうだ」
「おれはお前の言っていることをまったく理解できないぜ。どうかしてるぜ。やばすぎるぜ」
「シェー!。未知との遭遇にびびっているわけだ。ださいやつだな。いいかい、わたしのようなかたちをしているものは、世の中にたくさんある。例を出すのは、危険だから、しない。でも想像する分には勝手だ。想像してみなよ、鹿君……」
「……そんな時間すら惜しいね。ぼくはこっから出たいんだ」
「どうどうどう。どうどうどう。そんなに急がないでよ。ゆっくりやってよ、あんた」
「はあ?」
「つれないねー。じゃあ、真面目になって、もう一つのことを教えてあげようか。この白い箱はなにかってことさ。なんだろうね? 分かりきっていることだけど、ここはもう本当に普通じゃない場所なんだ。ここに鹿君を入れるのだって相当大変なことをしたはずだよ。ここはあまりにも“あそこ”から遠いんだ。あまりにも不自然すぎる場所なんだ」
「“あそこ”ね……。おれは“あそこ”の生き物なんだな」
「一つヒントを出せば、現実の中には、とてもやわらかい部分があるんだ。ぐにぐにぐにしていて変化自在だ。どうにでもできるが、そこをうま~くいじくるとだな、あやふやなものたちを現実的に見せることができるんだ。要はそいつがどう感じるかなんだ」
彼は付け加えていく。付け加えていくのは得意だ。彼のなかからは言葉がわき水のように出てくる。「この考え方を突き詰めていくとねえ。われわれが生きている場所と言うのは、いつわりの造られた現実感で満ち満ちている。あっちょんぶりけ、だろ? あるときはそれは支配のために利用され、あるときは秩序を生み出し、あるときはていのいい嘘であり、あるときは単なる錯覚で、あるときは完璧にないがしろにされている。ハッハッハ」
言葉はレッドシーの油田みたいじゃないか。
「もちろん、それはその力を使おうとする人間によるんだ。人間っていうのは、とっても不安定な存在なんだ。カシオの電卓にぽちぽちぽちのノリで数字を入れてみても、人間ってのは全然違う所に転んじゃうんだ。そのうごきが何によってもたらされたか、誰にもわからない、そんなことがたくさんある。だから小説のようなものだって存在できる。小説だってとんでもなくあやふやなんだけど、ときにすごいエネルギーを帯びるんだ。なんか間違っているような気がする。でも、これでいいのだ。これで、いいのだ」
彼は呵々大笑した。
「まあ、いいだろう、さて、ぼくには質問がある……。
…………………。
君には分かるか?
どうしてわれわれは定期的に戦争を起こして殺し合うようなことをするのか。
君には分かるか。
どうして人間は他人を不幸にするやり方で自分がうまみをえることがまあまあすきなのか。
君には分かるか?
なんで人間は自らを傷つけるのか。
君には分かるか?
われわれはどこから来たのだろうか。
君には分かるか?
なぜわれわれは存在しているのか」
彼はきびすを返してどんどんどんと壁をたたいた。その音の空虚さったら。鹿は自分が完全に錯乱していると感じて、頭をかきむしった。もう一度見上げると、やはり幻はそこにいた。
「まだ終わりじゃないよ。ぼくは予言を携えているんだ。これは古代エジプトの宮廷でされた予言で、彼らは現代の人間よりもよほど正確に未来を予想できた……」
「混沌とした世界にキボウが現れる。キボウは子どもと中年と鹿とかなんとかとともに帝王に立ち向かう」
彼は消えた。
残された虚空は驚くべきほどの静けさをまとった。