13章 追憶
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アフリカ西岸にある誰も知らない離れ小島に大きな城が築かれていた。それはゼツボウの地球最初の拠点だ。Vとウェイヴ父、彼女はその城から重要な牌を盗み出すことを目論んだ。親指ほどの大きさの牌には龍と虎が争う模様が描かれている。
城は強化コンクリートの塊でできている。特殊部隊同様の能力を持つ私兵企業「ファーストミリタリー」が鉄壁の守備をしいた。
キボウのチームはファーストの超現代的な守りを破らなくてはいけなかった。彼らはそのミッションをウェイヴの初陣にしようと考えた。ウェイヴはすでに「キボウの希望」だった。「ウェイヴは将来、世界のあり方を変える存在になる。早いうちから経験を積ませておくことが大切だ」と人々は声を合わせた。
キボウの古いメンバーの中には消耗しきった人たちが現れた。彼らは激しい仕事に疲れ果て、あらゆる崇高な目標のための犠牲がイヤになってしまった。彼らは無能ではなき。運が悪いのだ。ちょっとした運で人の行く道は変わってしまう。
牌にはものすごい力が潜んでいた。彼女たちはそれを新しい社会のために生かしたいと考えていた。牌は負の側面もつが、そこには目は閉じられた。
キボウのグループは素晴らしく狡猾だ。ファーストにけどられることなく、牌を盗んだ。
ただ盗賊が残したダミーがばれるまで時間はかからなかった。盗賊たちはとても強大な力に追われることになった。グループは出口戦略はあった。それを使えば、すぐさま身を隠すことができる。地球は大きくて八〇億の人口を抱えていた。その中から四人を見つけるのは難しい。あの「雪原」のことを思い出してほしい。ああいうのをつくる力があったんだ。
問題はミッションの過程で敵がウェイヴのことに感づいたこと。後にキボウの救世主と呼ばれるウェイヴの輝きは想像を超えた。将来の不安の芽をつもうと考えた。
ウェイヴを「隠す」のにはちょっとやそっとじゃあいかなかった。しかし、ある大きな逸脱で可能だと、サイエンティストが言った。彼の輝きを覆う、布をかけるプロセス。その布は一定期間たてば力を失い、彼の輝きは再び露出することになる。
その施術、あるいは儀式は驚異的だった。ウェイヴの特定部分の記憶は、彼自身からはみえないように隠されて、前のとある名前から「ウェイヴ」へと変えられた。彼はこのとき初めてウェイヴになった。履歴や個人的な属性を書き換えられた。ウェイヴはそこらにころがる馬の骨のようなヤツになった。
アープは笛でカブトムシが渋谷二中の裏山で奏でたあのメロディーを再現すると、ウェイヴはそれを思い出した。「このメロディーはとても大事なのよ。あなたの力に関係している」。ウェイヴの頭の中で泡が弾ける感覚がある。彼女の表情はかたくなった。豊かではち切れそうなほおにかすかなしわをつくりながら、セーラムの細い煙を、中空に吹いた。煙は彼女の容貌を少しだけ隠して神秘をふくらました。
それから彼女は青いフリスビーを手にした。それをすっと、ウェイヴに投げつけた。フリスビーはとても不安定な軌道を描き、がたがたと揺れながら、空気を裂く小さな音を鳴らした。ウェイヴの頭をとらえた。
すると、ウェイヴの記憶が震えた。震えた。震えた……。
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彼女は道しるべを持っていた。Vが先月、エジプトのピラミッドから盗んだ羊皮紙……。古代エジプトの王の予言が書かれた。
「鹿を百人複製すること。百人いれば、鬼に金棒、天下無双である」
古代の文字は興奮気味な筆致で力説していた。はて、鹿を複製するとは、なんのことだろうか。彼女はホットラインでキボウのブレーン「三賢者」にはかりにかけた。三賢者は離れた場所からまなざしを送り、知恵を授けてくれる。「人間は自分が含まれている状況を、うまく理解することができない」ため、遠くにいて独立している彼らは重用されてきた。
三賢者は「百人複製」について、かんかんがくがくの議論をした。この作戦にはただならぬリスクがあると見なした。百人も増やせば、敵に見つけてくれと言っているようなものだ。一方で、人手が足りなく、猫の手も借りたい状況をかんがみると、増やさざるを得ない。あらゆる要素を立体的に検討した結果、賢者たちは複製をゆるやかに支持した。
羊皮紙は鹿の複製方法について教えてくれている。新宿のバーには工具がなかった。エディットはピンときた。「錦糸町工房しかない!」
あの、さえない錦糸町は変貌を遂げていた。
技術者たちの工房の集合体がぎゅっとより集まり、新しい「ものづくり」が花開いた。錦糸町は一時はスラム化に拍車がかかり、若者たちが暴れ回る街だった。しかし、鋭意ある起業家たちが地価が郊外よりも低くなったことに着目した。スラムはテックな若者の街へと変身した。改造嗜好者、空想家、芸術家、変態、オタク、ギークらがすぐさま集まった。彼らはあっという間にその街がうるおうだけの「外貨」を、技術で稼ぎ始めた。特に政府の力をかりることなく。
幸運なことに、鹿の情報はすべてオンライン上に存在した。血液型、筋肉、脂肪の量、骨格、臓器の形、格好、サイズ、生殖器の大きさ(かなり大きかった)、睾丸の形状、しわの量、好む姿勢、考え方、理論、おもだったできごと、なんやらかんやら。
「こういう日を想定して、すべてをアップロードしておいたんだ。たぶんおれの分身がこの世に現れることになるはずだ、とね」と鹿は自慢げに言った。
錦糸町工房では一回プロジェクトが立ち上がれば、すぐさま若く才気あふれるが腹が減っている頭脳と手が確保できた。
鹿のあやしい金は国際徴税者『国境なき税務署員』により接収されていた。しかし、資金はどこかからやってきた。必要だと思われる資材は、クロネコヤマトが次から次へと運び込んでくる。
アープは言葉を操る天才だ。縦横無尽な弁説でプロジェクトの意義をぷくっとふくれたもちの状態にして、エンジニアたちのこころを、力強く揺さぶった。変わり者たちの斜めに傾いた目に炎がともった。皆が皆が「人間を超える知能を持つ鹿を複製する」というできごとに、初めてエロ本を買ってきたばかりの子どもさながらの興奮を禁じ得なかったからだ。
人の手のひらの大きさにぴたっとはまり、誰でもモウ牌できるオーダーメイドの麻雀牌で世界的に知られたエンジニア、達人三太夫は「まさか、鹿を複製するなんてな、あまりにも面白すぎるだろう。『鹿の複製』ってタイトルで小説にしたらめちゃくちゃ売れるんじゃないかなあ。ようし、このプロジェクトをやっつけたら、小説家デビューだな。おれが、おれであることを、より確かにする小説が、人生にとって不可欠な気がしたんだ、うおおお」と感想を残している。
若くてけんかっぱやいアドミラルはその1メートル長あるマスターシュをなでつけながら「あの渋谷鹿御大は昔、あやし~いフラフープを売って売って売りまくった人物じゃあないか。つくったものを世に問える、という点で、彼は大事な仲間だろう。仲間に対しては、こってりとした貢献を与えて上げるべきだろうな。間違いない」と興奮気味に口走った。
特殊素材と3Dプリンタなどの装置をつかって、鹿を複製することは難しかった。からだの一部はむしろ外敵の攻撃を想定して、ガンダムに使用された固い合成金属でつくることの方がいいとみられたが、滑らかに動くようにするのがとても難しい。
もっと難しいのが、鹿の精神をコピーすることだった。「こころを持った、動作する存在」をつくるのは富士山を二十七回連続で噴火させるほど複雑だった。第三チームの長に収まった三太夫は「これは神を想像するような行為だな。なんとも暴虐な試みであることは間違いないな」
長丁場。難しさが暴れ回り、人間ドラマがどこそこで勃発する。でも一番でかいのは技術的な壁だ。仕切り役のアープの顔に影がさすことが増えた。彼女はエンジニアたちの提案をもとに鹿にある要求をした。これが突破口になった。
「われわれは壁にぶちあたったわ。万里の長城のような壁よ。本当におもしろいチャレンジだけど、われわれにはまだまだ足りない技術があるの。いろんな技術が大企業や政府機関に独占されているのがその原因よ。もちろん危ない使い方をする人たちがいるし、開発に金がかかって回収しなくちゃいけないのはわかるけど、でも、大事なものをひとところに閉じ込めておくのは本当にばかげているのよ。情報は自由になりたがっているし、技術だって自由になりたがっている。そういう時代でしょう?オープンにすることはとても正しいことだわ」
アープがしゃべると人は聞き入ってしまう。そういう才能にあふれていた。彼女のきれいなかたちをした鼻の先に、工房の天井にはられた強化ガラス板を抜けた柔らかい太陽光が当たり、その顔はまるでギリシャの彫刻のように印象的で、彼女の強い決心がのぞけるようじゃん。
「でも、鹿さん、あんたには、特殊技能がおありだと聞いているわ。それが、特効薬になるわ。世界をもっとオープンにするワザをつかって頂戴!あんたがいきなり金持ちになったのもそれのおかげだって、こっちはネタを掴んでんだからね。堪忍して頂戴よ」
「おいおいなんだよ、いきなり、アープ。なんのことやら。特殊技能だって、あれかい、ぼくが女性を喜ばすためには全力を尽くすことかな。もしかして、君はぼくに全力を尽くされたいと、オーブンがピッツアを焼くような温度で、願っているのかな。なんてこった。気づかなかったよ。アープ。君は本当に素晴らしい女性だと、前々から思っていて、ちょっとだけ波長が合わないとは、思ったけど、こういうのは突然来るもんだよな。ぼくは女性を喜ばせることを生き甲斐にしている。もう一度言おう。ぼくは女性を喜ばせることを生き甲斐にしている」
アープの髪の毛が逆立った。
「はあ、うるさいわね。きもち悪いにもほどもあるわ。妄想はノーよ。まちがってもあんたみたいな、ばかでハレンチな鹿とはそうならないようにしているわ。ちがうのよ。やってよ、マジックハンド。次元を切り裂いてほしいものが手に入るんでしょう。知っているんだから、こっちは、それともしらを切り続けるつもり?」
「マ、マ、マ、マ、マジックハンド〜〜〜???」
鹿はもろてあげで驚いた。顔はポンチ画みたいだ。汗が顔面からどっと噴き出ているし、声はジェットコースターに乗っている最中みたいに裏返っている。「な、な、な、な、なんだ〜〜〜い、それは?」
「茶番はやめてね。わたちたちはしっているのよ。わたしたちは知っているのよ」
彼女は二回繰り返した。エンジニアたちも鹿のことをじっとりと睨めつけた。百人を越える人々が集まって、フランス革命のさなかのように「マジックハンド! マジックハンド!」と声を挙げ始めた。
鹿は氷柱のなかに閉じ込められたかのように固まった。「おいおいおい、そういうのってないんじゃないの?強要している感じじゃん。感じ悪いよ。仲間同士だろうがコノヤロ!」
「どうして、そんなにいやがるのよ」
「いいかい、必殺技を連発するのは、なんというか、格好悪いだろう。正義のヒーローは追いつめられた末に最後、それを出して大逆転劇を演じるんだ。なのに、さっきやったものを、またやるのか。だいたい、こうやって全力を尽くしまくるやつは、だいたい、あっさりと途中で命を失うことになるんだよ。ハリウッド映画とか、だいたいそんなのがいるだろう。『ああ、こいつそろそろ死ぬな』ってヤツが。おれはそんなのゴメンだね。おれはいつだって自分自身の主役でありたいんだ」
「大丈夫よ。これが成功した暁には『あんたのようなもの』が百匹も追加されるわけだから。たぶん、あなたが命を失っても、魂が残りの人たちのからだに宿ることができるように設計するわ。そうすれば、あなたはむしろ不死になるのよ。精神が常にこの世界で生き続けることができるわ。それはすごいことよ。何かを超越したことで得られる幸せと、覆い被さるような悲しみもたぶん、一緒に得られるわ」
まわりのエンジニアたちも、そうだ、大丈夫だよ、鹿さん、前に進もうよ、と詰め寄った。「愉しいことをするためにこの世界に生まれたんだ。みんなで愉しいことをやり遂げようよ。そのためには鹿さんの力がいるんだ」。彼らは鹿がすごいヤツになるのを見越している。
鹿は意外に単細胞だった。だんだんノリノリになってきて「みなさんのために、テクノロジーの正しい発展のために、努力する事に、不肖、渋谷鹿、マジックハンド発動もやぶさかじゃあないなあ、まかせてつかあっさい」。
マジックハンドをやった。今度は次元の向こうをごちゃごちゃいじって、大企業や政府がひた隠しにする先端技術をインターネット上にオープンにした。これにより、世界中の独立自営のエンジニアや、スタートアップ、中小企業にスーパーノヴァ的な巨大な光が射した。逆に大企業や大国の独占に先行きに暗雲がたれこめた。
皆が皆「ボーナスステージ」を理解して、一世一代の発明に乗り出した。それには正と負の側面があるが、ものごとをあらためていくのには、文句なく一番良い事がされた。それは鹿の「正しきブーメラン」を越える功績として記録された。彼は人生の新しいマスターピースを手に入れたのだ。
「壁にぶつかっちまったと、あんなに苦悩していたのに、こんなところに、答えがあったなんて、しらなかったぜ〜、すげえなあ」と彼は自分の腕をながめて、感嘆した。
もちろん、鹿の複製は赤子の手をひねるように簡単になった。
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百の鹿たちは複製された。彼らは素晴らしいアイデアを携えた。
彼らは大量のコンピュータを組み立てて、その性能を驚異的なレベルまで高めて、世界中の情報をため込んでいる米国家安全保障局(NSA)とから情報を奪うことに決めた。
エディットはそのリーダーのゆるやかなつながりのなかで、有用な役割を提供した。朝から晩までコンピュータに触っている子どもで、資質にあふれていた。彼は博愛主義に裏打ちされ、協力することがどんなに重要な効力を発揮するか、ようく知っていた。知識の伝達をとても愉しくできる複製鹿たちから、根掘り葉掘りいろんなことをきいて、スポンジのように吸いとった。彼らは簡単な言葉で難しいことを説明するのがうまかった。
細やかなレイヤーや導線、テレパシーが行き交う共同作業はどんどん、大きくなった。もちろんあつれき、ぶつかりあい、性格の不一致、音楽性の違いなどの問題をはらみながら、それをクリアしていくことに、チームは努力を惜しまなかった。
複製された鹿は知恵をより集めて、集中力をはねあがらせる、魔法の薬バンキットをつくった。どこからともなく、それは広まった。薬はとんでもない効果を持っていた。地球の裏側で起きていることも見えるくらい頭が透き通る。エディットもそのとりこになった。ウェイヴはエディットをからかった。「おい、エディットいつからそんな不良になったんだ?へんな薬は飲むは、コンピュータで大それたことをやろうとするわ」
エディットは反論した。「ぼくは不良なんかじゃないよ。しかも不良って言葉自体好きじゃないな。権威主義のにおいがするよ。ぼくとか君とかにとって、不良ってのは憎むべき言葉さ。ぼくがやっていることは簡単だ。自分の頭で物事を考えるようにしているんだ。自分の辿り着いた結論を、なんとか実現しようとしているんだ。『真実はどこに隠されているか』ってね。人の考えたことをおうむ返しするなんてまっぴらごめんだよ。お上の言うことを復唱する、指人形にはなりたくないんだ。ぼくの考えでは、なにも間違ったことなんかしてないんだ」
「そうか、そうか。お前の理屈は聞いていて、まあいい感じだよ。そんなに面白いのなら、おれっちも試してみよう」
ウェイヴはその灰色の錠剤を飲み込んだ。
「おいおい、なんだ、こいつは」
ものすごい気分になってきて、六ブロック向こうを歩いている女の下着の色が判別できそうな気がするくらいになってきた。彼はラップトップを開けて音楽をいじりはじめた。無数のメロディーが見えた。それから音が立体的に見え、自由自在に好きな角度をとることすらできる。なのに同時に、世界地図を見ているかのように、あらゆるものを俯瞰している。彼は無限のなかでたわむれていた。
薬を発明した鹿三七号が書いた取扱説明書はこううたっている。「この薬は普段数パーセントしか使っていない脳みその大半を動かしはじめることで、人間の機能を飛躍的に高めることができます」
「脳みその高機能化は、あらゆる方向で作用しますが、特にその人間が持つ特徴を拡大することができるのです。つまり、服用者の得意な部分が素晴らしく拡大し、苦手な部分を覆い隠すほどになります。大樹が育ち、その枝葉が陸やそのからだを隠してしまうことに似ています」
「これはわれわれの人間の行動の本質的な部分をあらわにします。われわれは好きなことだけをやればいいんです。嫌いなことをやれば、ものすごく生産性が悪くなります。愉しいことだけをやれば、生産性は雲を突き抜けるでしょう」
「たしかにわれわれは社会という複雑な構造物を形作っています。すべてのひとが好きなことだけをできるわけではありません。もしかしたら、すべてのひとがそうじゃないかもしれません」
「でも本質部分は、好きなことだけをやる、のほうにあります。そうできれば、もっと社会自体が発展していくでしょう。そういう、忘れがちなことを、このバンキットは思い出させてくれるのです」
取り扱い説明書はこんな考え方にふれている。でも、成分については、次の一言が添えられているだけだった。
「これらはブラックマターでできております。とても特別な成分です」
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桜が咲き、桜が散った。その間に米国家安全保障局(NSA)の膨大な情報の海が調べ尽くされた。
鹿101匹(オリジナル一匹+複製百匹)が下した結論はこうだ。
ウェイヴが「運命の女の子」と会う。どうやって会うかは「火星人と電話できる赤い電話」の製造により分かる。
どこをどう調べても、揺るがなかった。膨大なデータがそれを立証した。揺るぎない確証があった。なにしろ「運命の女の子」は余りにも響きが良すぎた。キボウが直面する未来を一気に変える、「魔法」のにおいがただよった。
パーティは工房の人たちに赤い電話をつくるようお願いした。鹿がマジックハンドで盗んだ財産は、国際税務組織「国境なき税務署員」に押さえられていた。でも、クラウドファンディングで簡単に開発費をまかなえた。
エディットと鹿百匹のグループが得た情報と、錦糸町エンジニアの見事なワザが絡み合って、「火星テレフォン」は簡単に完成した。見た目はただの真っ赤な固定電話。ただケーブルはどこからもはえていない。できたてのつるつる感はなく、むしろ、金貸しが乱暴に千回叩きつけた感じの古めかしさだ。受話器のしりのぶぶんは赤い塗装がはげかかっているし、ボタンの七番はかなり緩くなっているっていて、押すとすこっと気の抜けた音がした。こういう風につくるよう支持がされていたからだ。
おもむろに受話器に電話がかかってきた。渋谷鹿オリジナルが出た。
「…もしもし、火星人のサオトメよ。なによ、こんな真夜中に電話してくるのはー、うん、うんうん、たぶん、あんたちよね。だいたいわかってんの、はやくヨーケンをいーなさいよー、くそったれが」
女の声だった。それも年増の酒やけしたがらがら声だ。
「あ、どうも、渋谷鹿と申すもんです。われわれ『運命の女の子』をさがしているんです。キボウのウェイヴの仲間になる女の子なんです。ゼツボウが世界を掌握し始めてまして、こちとら、急いでいるんで、こうやって、きゅうなアクセスになっちゃっいましてね。がんばって調べてみましたが、彼女がどこかはぜんぜん分かりませんでして。サオトメさんならわかるとうかがいました」
「なによ。あんた。火星人だと思って丸なげなの。頭に来ちゃうわ。ずるずる。いい、あんた、大の大人なんでしょう。何にもかにも人に頼っちゃダメなのよ。ずるずるずる。自分の道は自分で切り開きなさいよ。ずるずるずるずるずる。うん、いけるわ。わたしの言っている意味わかる?」
どうやら彼女はかわいた麺をすすっている。会話はちょっと中断される。向こうの集音マイク、こちらのスピーカーともにかなり具合がよく、なにかに食らいつくという生き物的な音がとてもみずみずしい。中低音から低温がかなりクリア。おんなの喉を麺がくだるときのごくっという、普段の生活じゃ意識しない音まで拾っている。中年女性の麺を飲み込む音というのは、めまいがするわな、と鹿は静かに苦笑した。
麺の歌の後ろでテレビが聞こえる。
「この高枝ばさみなら、脚立に乗らなくても大丈夫。高齢者のかたも安心して庭のお手入れができますよ。一・八メートルのこのはさみが、するするする~とのびて三メートルになるんですよ。いろいろな角度で切れます。重さは一キロと計量ボディです。女性でもらっくらっく。さあ気になるお値段なんですが……」
「いや~高いでしょうね。うーん三百ドル。それくらいはしないともととれないでしょう」。
「なんと五十九ドルです」
「ええっこんなに安いんですか。大丈夫ですか。これじゃ、大赤字じゃないんですか、会社つぶれちゃうんじゅないですか、社長」
「今回は大変勉強させていただきました。出血サービスです。分割送料はこちら。お待ちしっていま~す~」
鹿は頭を抱えた。彼女はどうやら火星にいるわけではないようだ。
いきなり、音がとだえた。
路上を誰かのかかとが打ち付ける音に変身。車の騒音。セブンイレブンに入店したときのピコピコと、いらっしゃいませー、という投げやりな時給八百二十円の店員の、求められるに甘んじたあいさつ。おとこの声。疲れ果てた中年の男の声だ。
「おい、モエ、どうだ。明太子スパゲッティにしようか、親子丼にしようか、それともカルビ丼かな」
がらがら女が答えた。さっきよりも声がかれて、ひきがえるのようだ。
「私なんか。こういうのにあきちゃった。やすいはやいうまいに飽きちゃった。飽きちゃった、ほんとに。東京にも飽きたわ。特別なもの食べたいわ。ほしいものがほしいわ、そういうことよ」
「しょうがないな。モエはわがままだな、相変わらず。自分の欲望に忠実だ、ともいえるかなあ。まあその気持ちも分からんでもないがな。なんせ地球の食い物はうまいからなあ」
「そうよ。火星には土しかなかったじゃない。からからの、赤くて、ずしっとおもたい土。とんでもない気候変動の後は、もう水だって手に入れるのが難しかったわ。あそこはすべてが凍てつくかのように寒くなったと思ったら、焼けちゃうくらい熱くなるんだから、たまったもんじゃないわ」
「ここの奥におそらく装置がある。火星人のぼくらがあれをつかえば、いろんなことができるだろう。それで、ちょっと違う所にいこう。日常を抜け出そう」
「あなたって、誰かに説明しているみたいに話すのね」
セブンイレブンのスピーカーがならす、しゃかしゃかしたアメリカナイズされたビート、ありとあらゆる雑音、いらっしゃいまーせー、などが聞こえた後、ドアがばたんとしまり、水が吸い込まれるどわわわわとい音がした。それからモロボシダンがウルトラセブンに変身するときの派手な音が聞こえた。
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がやがや、がやがや。
広東語が飛び交っている。弦と打楽器によるオリエンタルな曲が聞こえる。食器とハシがぶつかる高い音がたくさんある。「やっぱり、香港はいいわね。飯がつきぬけてうまいわ。しかもこの夜景。百万ドルの夜景よねえ。いいわ。このまち」
「百万ドルの夜景、いやはや懐かしい言葉を聞いたね」
何か固いものを砕く音、何かをちゅるちゅるとすいこむ音。それから、例の喉ごしの低い音。彼女ののどぼとけが上下する動きが目に見えた。おえええ。
「海老とかなんだとかがいっぱい入っている飲茶を喰いたいんだけど、頼んでくれないかしら、ダーリン。わたし、ほら広東語って苦手なの」
「こういうときだけ、ダーリンとかいうんだ、君は。そういう欲がつっぱってるのが、あからさまに見えるところに、僕は安心できるのかな。まあ、君がそういうのには、ぼくも同感だ。人間の言語ってのはなんか複雑すぎるよね。ぼくもシンプルにすることで、もっと地球人が考え方、思想、テクノロジーを進歩させられると思うんだ。複雑なところからスタートすれば、複雑な袋の中から出られなくなることは目に見えている。シンプルがいくつもいくつも絡み合うことで、遠くにある美しい複雑さにやがて出会うことになる。ツールはシンプルであるべきだ。そういうことだ」
彼はぱちんと指を鳴らす。
「言語のなかでも差があると思うんだ。特に日本語は一語一語が重たくて、漢字とひらがな、かたかなを無数に組み合わせることで、さらに重たくなる。こうすると意味を組み合わせて、そのメロディーたちの編み目をつくることで、おおきな物語をつくろうと思えなくなる。こむずかしい言葉たちを振り回すだけの大人たちだらけになる。みんなそんな感じのペーパーテストを繰り返して、大人になっていく輩ばっかだからな。やれやれ」
「ねえ、どういうことよ。何を言っているのよ。まったく、眠たいりくつなんか、どうでもいいのよ、あんた早く頼みなさいよ。いまは食べるときよ!」
「ああ、しまった、麗しき火星のプリンセスを怒らしてしまった。もう、ごたくはならべないよ。ウェイター! ごにょごにょごにょ」
「ごにょごにょごにょ」
彼らは黙々と食べ続けた。咀嚼音や食器とはしがぶつかる音が聞こえた。どうやら、露天のめし屋らしく波の音もある。やかましい、周りを取り囲む人々の広東語のやり取りもある。
「そろそろ宇宙船に戻ろう」
「そうね、その頃合いね」
かれらは勘定もはらわないで、どこかに移動した。宇宙船とされる場所のなかでは、シンセサイザーでつくった音の粒たちでみたされた音像が広がっていた。
彼はついに受話器に向かって話し始めた。
「さて、火星人の言葉は画期的だと知ってもらいたい。火星語は七音。たったこれだけでできている。これを組み合わせて、どんな複雑なことも表現できる。人間の言葉はだいたいどうも、最少単位が複雑すぎる。単語単語がいちいち重たいので、それらを組み合わせたときに、どうも明瞭じゃなくなる。でも、七音でことばたちを造っていけば、とても簡単で明瞭になる。ことばたちが、マイケル・ジャクソンみたいにおどるのさ」
彼は説明を続けた。
「さて、そろそろ本題に入ろうかな。待ちくたびれたかな、ウェイヴくん」
「そんなことないよ、お兄さん。ぼくは長話が大好きなんだ」
ウェイヴは答えた。スピーカーフォンに切り替えてある。
「いやあ、こまるね。お兄さんっていう歳ごろでもないんだ。紹介が遅れたね、わたしの名前は、コンプといんだ。サオトメの連れさ。それでだよ。これから宇宙の歴史にふれよう。どうやってリキッドが生まれたかだ」
「ああ、いいですね。面白そうです」
「むかし、むかし、かたーい、ハードな宇宙帝王がいた。名前をソリッドといった。かれは宇宙をおおざっぱに支配していた。細かいところには手が届かなかった。ソリッドは支配というのが、どこまでも届くレーザー光線ではなく、アルコールランプの灯りのようなものと理解するようになった。ハードな支配には限界があると理解したんだ。それはあまりにもデコボコしすぎている。
そのため支配のほかのやり方が大事になってきた。暗に誰かを操ったり、自分に有利なルールがとっても全うなものにみえる理屈をつけたり、宇宙人のこころを密やかに誘導していったりと、テクニカルなことをいろいろやった。
でもそれだけじゃあ、たりないんだ。
ソリッドは自分の手を汚さずして、悪いことをしたいと考えた。それで、三日三晩寝ずに考えた所、やわらかーい小さな帝王をつくった。自分のかたい力と、それに従う、やわらかい、液体的な力。とても素晴らしい組み合わせだ。このソリッドの栄華は千年を超えるに違いない、と思った。自分の意のままになるような小僧で、若くて素直でちょろいのがいいよな。あっ、いいのがいた。それがリキッドだった」
「リキッドはとても忠実なやつで気に入られた。どんな顔を背けたくなることも、どんな吐き気を催すことも、やりおおせた。そのくせ、泣き言を言うこともない。
使い勝手のいいやつだなとソリッドは思った。いくつもの嫌なことを並行してこなしながら、リキッドはものすごい勢いで力をつけていった。だが、その心の中には、逆心が芽生えていた。『おれはかれを越えられる。あまりにもかんたんなことだ』とね」
やがて、リキッドの力はソリッドでも抑えきれないほどになっていた。液のように染み渡るその力はしなやかで柔らかかった。かちかちのソリッドの暴力なんかを簡単に上回ることができた。リキッドはやがて、ソリッドを小さな箱(周囲から孤立した空間のことだ。鹿が最初に閉じ込められたような)のなかに封じ込め、宇宙を自分のものにした。
そういうことだ。
われわれはリキッドとソリッドの争いには加わっていないんだ。ごたごたがきらいでね。それでこうやって、地球人に成りすまして暮らしていたが、リキッドの触手は地球に触れてしまった。われわれはまたどこかに逃げようと思っているのさ。いつだって自由を求めているんだ。そのためにわれわれは逃亡することに優先順位を置いている。逃げて逃げて逃げまくるんだ。
さて、地球にも自由という観念を考えた人たちがたくさんいるでしょう。自由ってのは南海ホークスだよね。失礼。難解だよね。火星にも考えた人がいた。ぼくはそういう人たちを恨むよ。なぜなら、自由ってのは雲をつかむようなものだ。なんなんだろう、それはものすごく魅力的に見えるが、とても難しいものなんだ。そう南海ホークスなんだ」
「南海ホークス、しつこいね」とウェイヴ。
コンプは咳払いをした。
「とりあえず、直近の結論に移ろう」
「運命の女の子の話だ」
「そうだ。運命の女の子はねえ、千葉はフナバシにいるのさ。フナバシの難しい所に彼女は閉じ込められている。助け出すには、ごちゃごちゃした道を抜けないといけないだろう。かなり難しい。でも、君はやらなくてはいけない。『運命の女の子』なしでは、リキッドを倒すことはできないからだ。しかし、彼女はとらわれの身で、危機が迫っている」
「彼女はどんな女の子かな」
「そうだな。君の好みかどうかはよくわからないな。なんというか、本当に普通の女の子なんだ。宇宙はなぜか、子どもたちばかりを選びたがった。そこにどんな理由があるのか、はたまた理由なんてないのか、その中間の複雑さのなかにあるのか。ようく分からない。
やはり彼女もまた、特別なんですね。そういうふうにできているのでしょうか。偶然でしょうか。その中間でしょうか。彼女には他の人にはない力が備わっているんだ。君は、キボウは、目的をなしとげるために、彼女のことを必要としているんだ。理由はよく分からない」
「なるほど、南海ホークスなんだね、コンプレスさん」
「そうだよ、ウェイヴ、南海ホークスなんだ。君はとてもいいセンいっているよ。ワッハッハ」
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「目的地はフナバシ」との情報を得て、興奮に包まれた錦糸町に、あの伝言オウムが現れた。「はいはい、またしても登場の伊勢屋勘九郎です。あちきがでてくるってことはだね、ここが勘所です、ってことだよ。集中しなさい」。
彼はナルシスティックな笑顔を見せた。
「とは言っても、今回はどさ仕事だな。なにしろ伝書鳩と同じ役割なんだからね」。彼は足に結びつけた手紙をウェイヴに渡した。それは彼の母からだった。
ウェイヴは彼が母と最後にあったのはいつだったか思い出そうとする。だが、思い出せない。彼女の顔も声も言葉も何もかも思い出せない。とにかく読んでみた。
ウェイヴ。おかあさんだよ。元気にしてる?
あなたはわたしのこと覚えているかしら。わたしはとても遠い所にいるの。ずっとあなたから離れていたわ。それには事情があります。事情を説明していると、三日三晩過ぎます。お互いのために省略することにしましょう。いずれ、あったときにとんと話しましょう。
おかあさんはねえ、ききました。きいちゃいました。あなたがキボウとして目覚めたとね。時代遅れの伝書鳩かと思いきや、「伝言オウム」がわたしの場所にやって来たんです。私はテレビで少しだけ彼のことを知っていました。でも、テレビの中の世界は虚ろですね。もちろん映画だって、漫画だって、小説だってそうなんですけれども。オウムがテレビの中にいたときのような、素晴らしい人間じゃないってことはすぐに分かりました。
なにしろ本当にやかましいのよ、あのオウムったら。昨日のプロ野球の試合をことこまやかに描写していくの。マウンドの土の湿っぽさとか、それに影響されるゴロの転がり方とか、打者の心理状況、コンディション、監督の頭の中にある戦略とか、選手一人一人のことこまかなデータとか。
それから、オウム様はオウム様なりの大評論をぶちかましてくれました。あの選手は将来、ヤクルトスワローズを引っ張ることになるとか、あいつはトレーニングをさぼっているから、数年後にはラーメン屋でもひらくことになるとか、もしおれが選手を選んで、育成する立場にあれば、野球界の新しい将来を切り開くことになるとか、そんなたわごとをいうのよ。
もうやってられないわよ。オウム様はお酒に酔っているらしく、態度がもう上の方にいるばかで横柄なやつらと似ていて、かちんと来ましたが、まあ、なにか特命を負っているふうなので、なんとなくがまんしました。万が一にも寝ている虎を起こすようなことにはなってほしくないから。
でも、それだけでは、すみませんでした。かれはわたしの肩に手をかけて「久しぶりに肉じゃがが喰いたいなあ、おかあさん」とかいいました。彼の指はわたしの鎖骨らへんまでなでつけました。セクシャルハラスメントですよね。もう、わたしはかっとなって殺意すら覚えました。
肉じゃがと牛肉の生姜焼き、ぶりの刺身、鳥の唐揚げ、日本酒などを楽しんで、やっと彼はあなたに関することを語り始めました。そこでどうやら彼がわたしの態度やら何やらに探りを入れていたことが、明白になりました。なんて古風なおじさんなんでしょう。なんとか勘九郎っていうたいそうなお名前を持つオウムのくせにねえ。それでも、彼はプロフェッショナルですね。聞いたことを完璧に暗記してそらんじることができる。おちついたまま、長くて複雑な話のすべてを聞かせてくれました。わたしとしても彼が嘘を混ぜたり、こっちの聞き方を密かに操ろうとしたりするか監視していましたが、そんなことはない。彼は本物ですね。
そして、わたしはあなたが成し遂げたことに、心から感激しました。さすがはわたしのこどもだ、とあなたを誇りに思います。
あなたは生まれた時から今まで、ずっと変わった子でした。おそらくこれからも一生そうでしょう。わたしはそれが変だとはおもいません。あなたはじぶんが好きなことを、他人のことなんか気にしないでやっちゃえばいいのよ。人のことなんか気にして、臆病になっているウェイヴなんか、わたしは見たくありません。あなたはあなたのあるがままでいい。ムラ社会のことは忘れなさい。
だから、いつまでも、聞き分けなんか持たない方がいいわ。自分の中にある考えを自由に解き放っていきなさい。もちろん人に迷惑をかけすぎるのはダメだからね。人を痛めつけてもダメです。
でもちょびっと、迷惑をかけるくらいならいいかもしれないわ。わかったわね。途中で音をあげる人は、好きじゃないわ。最後まで自分であり続けるの。それはあなたがキボウかそうでないかは関係ありません。
あなたがやることはシンプルでいいの。自分のする大好きなことで、人々が生きていくことを良くしていくことです。そしていま、あなたはとてもシンプルなことをすればいいのよ。わるいやつらから、地球を救うこと、ね。
じゃあ、そういうことよ。旅が終わったらかえってらっしゃい。あんたが好きな肉じゃがをたらふく食べさしてあげるからね。
母より。
46
ウェイヴは手紙を読み終えた。胸に温かみを感じた。全然知らない母さんだけど、それでもやはりぼくは他の男たちと同じようにマザコンなんだ、って思い知った。母さんはどこにいるんだろう。母さんに会いたい。
とたんに母さんとの記憶がぶり返したんだ。
視界が暗く溶ける。黒い沈黙が少し続いた。それから黒さは明るく溶け直した。
*
8ミリカメラで撮ったかのような濁った映像だけど、印象は槍のようにぼくの心に突き刺さるんだ。ぼくと母さんは遊園地のコーヒーカップに乗っている。夕方の終わり、ほとんど夜だ。コーヒーカップには温かみのある照明の灯りたちがクロスしていた。コーヒーカップはかなり速い速度で回転しているせいで、後ろの世界は鈍く濁っているけど、母さんの姿だけは、空気からくりぬかれたようにきれいだった。
母さんは大きな口を開けて、笑顔を見せていた。とても愉しそうだ。素晴らしい時間をわれわれは過ごしている。母の笑顔になんというか若さがある。彼女は二〇代の後半か、三〇代の前半か。将来への楽観、幸福もあふれだしている。
母さんは黒髪のロングヘアで、豊かな髪の毛は光たちをきれいにはじいている。とても東アジア的な顔立ちで、柔らかい目もとと穏やかな鼻、目の下に小さなほくろがある。口元はいつだって笑っているようだ。痩せたからだはなめらかな丸みをおびていている。彼女はシミひとつない笑みを浮かべている。
ぼくもまた幸せだった。母の笑顔をみていると安心できるんだ。ぼくのこころにはいつだって茫然とした不安がある。それは様子がおかしくなると、こころのなかで膨らみだして、時には暴風雨を降らせるんだ。彼女が送ってくれる、まなざしにぼくはいつも感謝している。ありがとうお母さん……。
*
8ミリカメラで撮ったかのような濁った映像だけど、印象は槍のようにぼくの心に突き刺さるんだ。ぼくと母さんは遊園地のコーヒーカップに乗っている。夕方の終わり、ほとんど夜だ。コーヒーカップには温かみのある照明の灯りたちがクロスしていた。コーヒーカップはかなり速い速度で回転しているせいで、後ろの世界は鈍く濁っているけど、母さんの姿だけは、空気からくりぬかれたようにきれいだった。
母さんは大きな口を開けて、笑顔を見せていた。とても愉しそうだ。素晴らしい時間をわれわれは過ごしている。母の笑顔になんというか若さがある。彼女は二〇代の後半か、三〇代の前半か。将来への楽観、幸福もあふれだしている。
母さんはブロンドのショートヘアで、 とても魅力的でオリエンタルな顔立ちで、髪の束感が素晴らしく、毛は風に揺れている。きりと見開かれた目の中には緑色の瞳がある。
細くてつんととんがった鼻、ほお骨が出ていて、ほおがきりと引き締まった顔立ちだ。あごもよく研がれたナイフのようにとがっていた。ノースリーブとジーンズでまとめた体つきもよく鍛えられていることが分かった。彼女はシミひとつない笑みを浮かべている。
ぼくもまた幸せだった。母の笑顔をみていると安心できるんだ。ぼくのこころにはいつだって茫然とした不安がある。それは様子がおかしくなると、こころのなかで膨らみだして、時には暴風雨を降らせるんだ。彼女が送ってくれる、まなざしにぼくはいつも感謝している。ありがとうお母さん……。
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8ミリカメラで撮ったかのような濁った映像だけど、印象は槍のようにぼくの心に突き刺さるんだ。ぼくと母さんは遊園地のコーヒーカップに乗っている。夕方の終わり、ほとんど夜だ。コーヒーカップには温かみのある照明の灯りたちがクロスしていた。コーヒーカップはかなり速い速度で回転しているせいで、後ろの世界は鈍く濁っているけど、母さんの姿だけは、空気からくりぬかれたようにきれいだった。
母さんは大きな口を開けて、笑顔を見せていた。とても愉しそうだ。素晴らしい時間をわれわれは過ごしている。母の笑顔になんというか若さがある。彼女は二〇代の後半か、三〇代の前半か。将来への楽観、幸福もあふれだしている。
母さんはボブヘア。首元が大きく開いたカットソーからのぞいた鎖骨とともに、キュートな感じだ。部位のすべてが小さい顔立ち。顔自体もものすごく小さかった。細い目には小さくて黒い瞳があり、控えめな口元に真っ白な健康的な歯がある。彼女のからだは小さく、すっとやせていた。彼女はシミひとつない笑みを浮かべている。
ぼくもまた幸せだった。母の笑顔をみていると安心できるんだ。ぼくのこころにはいつだって茫然とした不安がある。それは様子がおかしくなると、こころのなかで膨らみだして、時には暴風雨を降らせるんだ。彼女が送ってくれる、まなざしにぼくはいつも感謝している。ありがとうお母さん……。
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花火が上がる。現実感のない花火。おくれてやってくるどーんという破裂音。回転木馬が回っている。休むことなく。しゃかしゃかした木馬の祝祭的な音楽。ぼくは茫然とした記憶の泥に取りつかれた。コーヒーカップは回り続けたままだ。止まる様子なんかなかった。