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恋する惑星  作者: 夏川慧
13/18

12章 鹿の複製

36


 ウェイヴは新潟県糸魚川市の山間部、平岩で生まれた。姫川という長野の山岳から新潟の海へと貫く川の袖に集落があり、川から山へと数百メートル登った所に棚田が広がっている。山之坊と呼ばれるその集落には数百人しか住んでおらず、冬は一晩で二メートルつもることもある豪雪地帯だった。人々は夏の間、田んぼを耕し、野菜を育てて、長くてつらい冬を越えるのだ。

 彼は農家の一つで産声を上げた。

 誰が生んだかは、詳しくはわかっていない。彼の母と呼ばれる人物だと言われる。

 彼はそこで血のつながりのない老婆、クミに育てられた。クミは夫を早くに亡くし、子どもたちがその山を降りて、街や東京で暮らすようになった後も、頑固に先祖代々の田んぼを守っていた。

 彼女は忙しい農作業のかたわら、大きな愛をウェイヴに注いだ。ウェイヴが素晴らしい自尊心を持てるのはそのおかげだ。

 ウェイヴは山々の上を茂る森のなかで自然たちと遊ぶのを好んだ。彼は自然たちと言葉にならぬ言葉で会話することができた。彼はある日森の深い所まで入り込み、道を失った。午前中に入ってから夕方が来た。夕日が消えていくときには、ウェイヴは絶望的な気分になった。

 大きな菩提樹を見つけて、そのずんぐりとした根っこの上に腰を降ろして、彼はどうしようもなく混乱していた。森はいつだって彼にやさしかった。

 でも、それだけではないのだ。ぼくがここで静かに命を失ったとしても、森はそれを道理としてとらえるだろう。でも、ぼくは人間で、どうしようもなく死を恐れる。

 彼は長い夜をそこで明かした。

 その間、彼にはカミサマが話しかけた。

 カミサマの話のほとんどはただの世間話だった。資本主義的でなく、合理的でなく、むしろ、やわらかい感情の欠片たちだった。ウェイヴは自分のカルマの存在を感じた。体はかっと熱くなっている。神様はこういう。

「あなたは巨大な波に飲み込まれることになる。それはなんというか、ほとんど決まっているようなものだ」

 翌朝ウェイヴは森を出ることができた。導かれるように足が正しい方向を選んだ。ウェイヴの姿を認めたクミは、ウェイヴの小さな体を抱きしめた。

 

37


 雪深き冬のある日、そこにヘビーデューティなジープがやって来た。ジープは雪を切り裂くタイヤを履いていて、どんな急坂も苦にしない馬力を持っていた。

 余りにその裏日本の農村には似合わなかった。

 中身の人間もふさわしくなかった。その男は真っ白なダブルのスーツをきていた。ポケットに入れたウイスキー「余市」をがぶがぶ飲む男の顔は、野生の獣のようだった。

 クミは抵抗しなかった。ウェイヴをその男に手渡した。ウェイヴは故郷を捨てることになったその日の、ジープの車窓から見えた風景をずっと覚えることになった。ただただ、どこまでも広がる田んぼたちの上に、しんしんと雪が降り積もっていく、見慣れたはずのシーンなのに。彼のこころの奥底に突き刺さって、どうやっても抜けないのだ。彼は濃密な寂しさを知ることになった。

 やがて彼は眠りに落ち、そして目覚めると、渋谷公営住宅での暮らしが始まった。彼は渋谷第一小学校に通い、都会の少年として暮らし始めた。

 ここにも父と母の姿はなかった。家政婦のマユミが彼の母親代わりになった。

 彼は小学校に入ってすぐに「変なヤツ」との烙印を押された。その少し前まで自然と会話を交わしていた少年は、どうやっても東京の真ん中で暮らして来た子どもたちとは違うのだ。日本には余り「違い」を受け入れる文化がない。それは小学校の頃から子どもたちにそうあるように徹底されている。

 あるのは同調圧力だ。つまり「右向け右」に徹底的に従うよう求める「空気」というものだ。「空気を読む」という言葉すら、かの国には存在する。それがかの国の活力が失われ、どうしようもない停滞のなかに沈んだ原因と言われている。世界はまったく違う方向に進んでいたからだ。

 とにかく、そんなカルチャーのなかで、ウェイヴは自分であることを失わないで、タフに生き抜いた。何度も家政婦に泣きついてエプロンを涙で濡らした。あるときから涙が出なくなった。彼はどんどん強くなっていくのだ。

 彼が住む公営住宅はワルガキのたまり場だった。ウェイヴはもちろんワルガキの標的にされた。彼は何度もいじめられたが、やがて「やられたらやり返すこと」を知った。それから論理的な言葉が、彼らの弱点だということも知った。彼は体を鍛え上げてタフになった。読書を重ねて論理的な方法論を身につけた。そうすることで、自分が含まれているくそったれな状況を、客観的にとらえ、戦略的に対処できるようになった。ワルガキたちはやがてウェイヴに手出しするのを止めた。

 そのワルガキたちに組み敷かれ、奴隷にされていたのが、ゼツボウの救世主ビートだった……。

 

36


「ねえ、ビート、起きてよ、ねえ?」

 誰かが体を揺さぶっている。ウェイヴは目を覚ました。光がまぶしかった。そこはビートと対面したのに似た空間だった。ファミコンがバグったドッドが飛び交っている。混乱を表すかのように。その向こうはつんとした白地だ。

 ウェイヴは驚いた表情をみせた。

「ミユキ、どうしたんだ」

 ガールフレンドのミユキがいた。彼女は渋谷の若い女の子が好みそうなファストファッションに身を包んでいる。白いノースリーブ、オレンジのフリッツスカート、ふわっとしたロングソックス、少女趣味なパンプス、薄いようでばっちりなメイク。文句なくかわいかった。もしぼくがベートーベンだったら彼女のために即興の曲をつくる。

 でも、彼女の表情は水を混ぜすぎた水彩絵の具のようだった。透き通っている。

「ねえ、ウェイヴくん。あなたとわたし、何もかも失っちゃったね」

 ウェイヴは顔をゆがめた。彼女が意味する所をうまく理解できなかった。

「そうなのかな?失ったのか、ぼくは……」

「そうよ、ウェイヴくん、君はことごとく失ったのよ。まず、あなたの家、アメリカの特殊部隊がやってきてこなごなにしちゃったわ。中には誰もいなかったみたいだけど」

「そうか、なんて卑劣なやつらだ」

「それから、あなたは学校を卒業して、いい会社に就職して、わたしみたいなかわいい女の子と結婚してローンでマンションを買って、子どもを二人くらいもうける権利も失ったわ。テレビはあなたを世紀の極悪人として扱っているわ」

「最悪だな」

「あなたにはもう人間としての権利は残っていないの。死んだことになっているけど、捕まったら二度死ぬことになるわ。それ以外の選択肢はないのよ」

 ウェイヴはため息をついた。消え去った可能性に、意外に未練があった。その「いい会社、いい暮らし」は、日本ではものすごい支配的なマインドセットだった。

「そして、わたしも失われたのよ」

彼女は泣き出した。

「わたしはあなたと関わったことが問題視されてしまった。精神病院の隔離病棟にずっと閉じ込められている。週に一回、ロールシャッハ・テストを受けるの。それで、また、冷たいコンクリートの箱の中に閉じ込められるの」

彼女は再び表情を透き通らせた。

「わたしはやがて体から遊離する方法を知った。わたしはもうあの『牢獄』の中には含まれていないの。私は高次の存在になったの」

「高次の存在?」

「そう、高次の存在。現実から遠く離れたところを自由に動けるの。例えば、ここだって現実じゃないでしょう。ここ、あなたがいまいるここも、高次の場所なのよ。普通ならざる場所なのよ」

 そうか、なんとなくわかったよ、とウェイヴは言った。「それでも、ミユキ、君にあえてうれしい。二度と会えないと思った。君がヤツらにそんな苦しい目に会わされていたなんて、ぼくは哀しいよ。ああ、どうしようもなく哀しい」

 ウェイヴは涙を流した。

「わたしはやっぱりあなたが好きだってわかった。あなたはこの国の若者を覆っている失望、あきらめというものから、完全に自由だからね。あなたは未来を見ている。未来を基点にして、現在を考えている。その未来に到達するためには、どうやったら、いいかって考えている。それは、すごい才能よ。過去ばかりを見ている、老人が支配するこの国をあなたは変えることができるかもしれない。人を服従させ、支配する妄想に駆られた世界を、もっと楽しい方向に変えることができるかもしれない。だから、絶対諦めないで」

 彼らはいつの間にか星降る夜の下にいた。無数の星が黒いベールに白い絵の具を垂らしていた。足下は海だった。塩水が彼らの足をくすぐった。何かの拍子に星がぼろぼろとこぼれ落ちた。

 彼女の白い服は星たちの光を浴びて不思議な光を宿した。彼女は服を水の上に落とした。星たちが照らした彼女の裸体。少女の裸体。それはどんな想像をも超越していた。美しかった。彼女はどうどうと自分のありのままの姿をさらしていた。

 二人は愛し合った。



 ウェイヴは深い泥の中に沈んでいった。そこには快楽たちがしみ込んでいた。二度とそこからでなくていいとウェイヴは思った。長い旅を続けて来た気がした。そしてここが旅の終わりなんだ、と彼は思った。それは星降る海にあったんだ、と思った。

 

37


 高次の場所――。 

 エディットもそこに含まれていた。エディットのそれとウェイヴのそれは別物だった。でも、どこか見えない所で二つはつながっているかもしれない。

「エディットの世界」はいままでにないことが実現している世界だった。最小限の貨幣だけがあり、支配の原理が解体され、中央集権的なものは終わりを告げて、博愛主義のもとに皆が自分の持ち物を分け合い、贈り合う社会だった。人はカネにしがみつくことを忘れ、暴力が重大な過ちだと知り、世の中の人がさまざまであることを認め合うのだ。

 まさしくエディットがのぞんでいた社会だった。彼は海辺のあばら屋でそこそこの生活を送っていた。彼が愛する、ゆるやかな孤独を楽しんだ。彼には友達がたくさんいたが、考えを研ぎすませる必要があるときは、あばら屋とビーチで彼は一人になった。

 彼が手巻きのガンジャ煙草を吸いながら、もっと世界を楽しくするアイデアを練っているとき、一人の男がやってきた。白いダブルスーツを着たVだった。

 よう、と彼は言って冷蔵庫から氷を取り出して、ポケットに突っ込んだスコッチを飲み始めた。

 エディットはたどたどしい口調で聞いた。

「あんた、死んだんじゃなかったのか?」 

 彼は神秘的な笑みを浮かべてかぶりを振った。

「死んだと言えば死んだ。だが、完璧に死ぬことは誰にだってできないさ」

「まだゼロじゃないんだな」

「そういうこった。もしかしたらまたイチに戻ったりしてね。はっはっは」

「これだから、このオヤジは」

 Vはスコッチを傾けた。ゲフッとげっぷをした。

「実はね、君に未来探偵の職を譲りに来たんだ。未来探偵ってのは数が、組合でぎちぎちに限られている。一度なったヤツは真面目に働くから、なかなか、ペーペーが入って来れない。だが、エディットくん!」

 Vはエディットのガンジャを取り上げて、ぐわーと吸った。

「君はいいと思っていた。謎にたいして、探求しようという強い意欲がある。そのためには命だってはれちゃう感じだ。だから君に私の未来探偵の枠をあげる。将来ある若者に道を譲るのさ」

 未来探偵への指名はそれで終わった。Vはスコッチをおかわりしてあっという間に飲み干して「じゃあね」と言って満面の笑みをうかべた。彼は出て行った。

 エディットはドアを開けて周りを見回したけど、Vの姿は見当たらなかった。

 

38

 

 こうしてエディットは未来探偵になった。未来を観測し、行動を起こすことが義務になった。でも、そんなこと昔からやっていたことだから、特に窮屈でもないし、むしろツールが増えてうれしい、と彼は思った。

 そのイオンで千円均一で売っていそうな、たるんでて冴えないチェックシャツとチノパンに身を包んだ、ミステリアスなオタク少年には、知られざるポテンシャルが隠されていて、その一端があらわになった。

 彼はダイヴという特殊能力に気づいた。朝起きたらサンタクロース様のプレゼントが靴下の中にしのばされているみたいに。彼は目をつぶりそれを探ると、すぐさま使い方を理解した。

 ダイヴとは物事の深い事実が隠されている場所へと沈んでいくことだ。あるいは直線的に錯綜する無数の可能性を調べることだ。「沈没船めがけて、まっすぐに素潜りする感じ」とギョーカイでは説明されている。

 これを使いこなすには深い集中力が必要だ。エディットにはそれがあった。ダイヴをしている間は、一分が一日のように長く感じられる。それだけ時間の密度を濃くする行為なのだ。

 それはまるでナイト・ダイヴィングのようだ。暗くて何も見えない海水にライトを当てながら、自分が所属していた日常から自分を完璧に切り離す。別の場所へと行く。違う自分、別の自分がいることを知る。自分とその新しい自分が話し合うのだ。するとその新しい自分の成分から、宇宙の無限の広がりの手がかりを掴むことになる。「自分」という自分を規定するものから、フリーになるのだ。とてつもなく凝縮されて、濃密になった時間の中で、パラレルにさまざまな思考と夢がうごめいた。そして彼は沈没船のなかにある宝箱に到達したのだ。

 宝箱の中身はこう言っている。

「ここは現実じゃない。『高次の場所』である」

 でも、それだけじゃよく分からなかった。高次の場所は逃げ出すべき場所か、それとも留まるべきとこか。現実のなかでは、ゼツボウに追いつめられている。高次の場所にいる方が安全かもしれない。

 エディットは悩んだ。悩むのは全然悪いことじゃない。ドグマに入らなきゃいいんだ。散歩したり、人に悩みを打ち明けたり、セックスしたりしていれば、答えに辿り着くはずだ。エディットは芋けんぴを食っているうちにゴールに辿り着いた。彼は落ち着いていることに慣れているんだ。

 新しい秘技をひねりだしたのだ。

 「探索」というもんだ。

 探索は思考の「広がり」を滑っていく類いである。ダイヴとの違いはダイヴは縦に深く入っていく。探索は文字通りいろんな所を行ったり来たりする。ネット型になって情報を製造していくのだ。

 自分の中にある広がり。そこは宇宙につながっていて、やがて外の宇宙へと到達する。そこから向こうは無限だった。無限の中で目を凝らして、彼はあっちこっちに歩哨を走らせて、アテもなく砂漠を歩きまわった。月が奇麗で、一晩たつごとにそれはかけて、また満ちてくる。彼は自分の中に完璧な静けさを感じるようになりました。それはひんやりつめたい。その奥にぬくい場所もある。ただただ静かだった。

 彼はやがて砂漠の向こうに都市を見つけた。古くなった商館をカフェバーにリノベーションした店があった。そこの一番奥の席に輝く宝石があった。

 アープという若い女だった。

「あなたは、エディットね。誰か生き残っているの?」

「探索の結果、生き残っている形跡をみつけた」

「じゃあ、まだチャンスはあるわね」

 彼女の歳はその見た目からはわからなかった。深い霧の向こうにいるミステリアスな美しさが、彼女の年齢の痕跡を完璧に拭っていた。透き通るほど白い肌にすっと伸びる細い足、セクシーで美しく凛として知的なオーラを漂わせた。その街に住む独身者と冒険主義的な既婚者のすべてが彼女と寄り添うことを夢見た。

Vと名前を知られていない女の子どもだった。それは同時に、百科事典の美人の欄に載せるにはもってこいの美しさでもある。誰が見ても「ああ美しい」とため息をつくことになる。

 アープは、わたしは亡きVの娘だ、と話した。エディットは目をむいた。それから周囲を見ました。あの海辺のあばら屋に訪れたVが、ここでもどこかで自分を見ている気がしたからだ。それは悪い感覚じゃなかった。

 Vの妻は生まれながらの冒険家で、いつだってどこにいるのか分からなかった。Vと似たようなことをやっているらしい。アープも父に似て、また微に入り細を穿つようなところがない豪快な性格で、もちろん酒を愛した。

「あなたは未来探偵になったんでしょう?」

「そうだね。あなたのお父さんから襲名、かな、受け継いだんだ」

「素晴らしいことね。私はあなたに会って、まだ二分足らずだけど、あなたに資質を見いだすことができるわ」

 彼女は赤い革のバッグから、ファイルを取り出した。そこにはエディットのことがズラーと書かれている。彼女はそれを読んで、エディットのしょうゆ顔と交互に眺めていた。エディットは自分がミロのヴィーナスにでもなった気がした。

「私はあなたが『ここ』がどんなところだか、理解しているようね。わたしのこともたぶんわかっている。わたしもここでは微妙な存在なのよ」

 彼女はカプチーノを一口含んだ。ウェイターがエディットのブラックコーヒーを持って来た。テーブルは古びたがっしりとした木の造り。

 エディットは言った。

「ねえ、あなたが知っていることを、もっと教えてくれないかな。そうすれば、ぼくの物の見方が変化していって、もっと洗練されたものになるはずだ」

 この提案は了承された。

 そして例にもれず、二人は細かい路地のなかにある白い石造りの家の中で、交わることになった。エディットが持っていたガンジャを吸いながらそれは行われた。

「これが、最も優れた情報の交換方法なのよ。あなたはいま新しい自分になったといっても過言じゃないわ。世界をいつまでも愛する心があるならば」

「その通りのようだね。ぼくはいま、高次の場所について、立体的な物の見方を手に入れたんだ」

 ふたりは布団の上で裸だった。ふとんは二つをつなげて一つにしている。

「それから君のこともわかったよ。君は何が一番大事か知ろうとしている。それはこの社会が信じているものとは違う。君にはマインドセット(先入観)がないんだ。とても素晴らしい。もっと楽しい価値であふれたもののことを考えている」

「そうね。だから、あなたに協力するじゃないの?グローバルキャピタリズム、インターネット、国家、近代っていう枠組み、これらの多くがうまく働いていないのが、わたしたちの暮らしている世界よね。そういううまくいかないものを見ていると、どうしても新しいものをつくりたくなるのよ」

「そうだね。同感だ」

「うん、じゃあ、そのために、パーティを高次の場所から取り出して、現実を歪曲しにいきましょう。誰だって歪曲していいのよ、現実ってのはね」

 彼女は金庫から羊皮紙を取り出した。彼女の父親が持っていたのとうり二つの羊皮紙である。


39 


 彼女は進むべき道を知っていた。羊皮紙に書かれたことを実行する。羊皮紙はあの「キカイ」をつくることを求めた。渋谷二中のテクノロジー部室でつくられたもの。やはりキカイの製造は最後の詰めで壁にぶつかった。頭を抱えてもんどりうった。設計図は余りにおおざっぱで役立たずだ。最後の部分を彼らは想像力でうめようとした。でも、その想像力も風呂の栓を抜いたように、下水へと吸い込まれていった。

 万事休す。

 しかし、あの宇宙服が時空を越えてやってきた。彼はこなれた端役のような余裕を漂わせてフリスビーを投げつけた。キカイは生をうけた。キカイが生み出した不思議な泡の中から、ウェイヴ、鹿が出てきた。

 キカイはどかーんと爆発した。

 砂漠の中の都市もまるごと爆発した。

 彼らがいたのは新宿の雑踏のなかだ。いまのくだらない新宿じゃなかった。警察が壊した新宿じゃなかった。森山大道の写真の中に存在する、昔の人々の生き様がべったりとくっついた街。見渡す限り無数の看板がしげりにごったネオンの光がくだけた。ブレードランナーのあの街みたいだ、とウェイヴは思った。

 行き先を知らぬ群衆が四人を興味津々とみつめた。渋谷鹿の名は新宿でも鳴り響く。「あれって渋谷鹿じゃねえ、あのプーマ間違いねえよ。新宿を征服しに来たのかな」。 中国南部、台湾、香港、日本、韓国などのインターナショナルなマフィア連中が抵抗した。「新宿なんていらん。おれには大きな指名があるんよ」と鹿は答えた。茶番のような一悶着の後、アープは四人繁華街の底のようなバーに誘った。暗い照明とフリージャズ。相撲取りから落伍した用心棒が卓球台で賭け卓球を楽しんだ。

 アープは話した。夏の日の草原を抜ける緩い風のような微笑とともに。「父がブラックホールに飲み込まれたってきいたわ。わたしが父の役割をバトンタッチすることになったの。よろしくね。わたしは父の使命と能力をそのまま引き継いでいる。これからはわたしが水先案内人になるわ」

 ウェイヴは笑顔をうかべた。

「そうだ、彼に導かれるままに、ここまで来たと言っても過言じゃないぜ。世界がゼツボウに制覇されて、おれたちは『高次の場所』なる難しいところにいたわけだ。ぼくはあそこは大好きで、現実になんか戻ってきたくもなかったけどね」

 相撲取りの打った卓球の球の弾道が蛇のようにゆがんだ。

「でも、アープ、君はわれわれを現実に引き戻した。感謝してるぜ。問題は解決された。毎回、あの世にいるVにスピリチュアルな電話をするわけにはいかないから。それに君は酒を飲まないから、やりやすいね」

 アープの微笑が二九%深くなった。

「連絡をうけたときはびっくりした。あんな人だけど、父だから、やっぱり悲しいわ。でも父はわたしの記憶の中に生きている。ずっと生き続けていくのよ、これから」

 電話を受けたとき、彼女はシカゴのトータスのアルバムを聞きながら、インドにバックパック旅行にでも行こうかしらと荷造りしていた。すると「仕事仲間」のウェイヴの父から電話をもらった。彼の電話はある界隈で有名だ。「君が次のVだね、おめでとう。お父さんもあの世で酒だけ飲んでりゃいいから楽しいはずさ。オッケー」

 彼女はまったく世間のことに興味のない可憐な少女ではあったが(常に自分に興味があった)、状況をよく知ることとなり、Vが果たすべき役目を自分が引き継ぐことにちゅうちょがなかった。

「父さんから電話がきたのか」

「そうよ。ヤクルトスワローズがなんたらかんたらって言ってたわ。どうかしている。人の父が死んだっていうのに」

「もうしわけない、父はヤクルトのことになるとわれを忘れるんだ」

 ウェイヴは髪の毛をぐしゃぐしゃとかいた。

「そうね、高津っていう選手がいるんでしょ。彼について七分つかったわ。父については、あいつはブラックホールに吸い込まれた、宇宙のもくずだ、の一言だけなのよ、サイアク」

「ああ、ほんとうにごめんなさい。父はたぶん頭のねじがぬけたんだ。脳みそは全部とろけたんだ」

 彼女は父とウェイブの父の交遊をまざまざと思い出した。それは偉大な者同士による多量のエネルギーを生み出すアクロバティックかつクレイジーな恊働だ。「それを今度はわたしとウェイヴとしていかなくてはいけない」

 彼女は神妙に三年前のできごとを説明した。

 とても大事なできごとである。



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