11章 人類の終わりの始まり
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ウェイヴは目を覚ました。五反田の地べたにひっくり返っていた。地べたの冷たさをほおにどっしり感じた。鳥たちの唄声が聞こえた。太陽が街に上がり始める頃合いじゃないか。その下にある大地の沈黙を想像した。自分はきのうの自分と同じなのか、それとも別人なのか、と彼は考えた。耳の奥に音楽がある。住んだ川の流れのようだ。
太陽が東の空を赤く染めている。ウェイヴは頭を抱えた。あの女は何者だったのか。どうも普通のやつではなさそうだ。どうも、このところ、よくわからないことばかりだ。しかもそれが途絶える様子がない。ヤバいぜ。
ウェイヴはホテルに戻って、かくかくしかじかを皆に伝える。「なるほどね、ヤツらを使うんだ。まったく」。オウムは「非公式な配達業者」にぴんと来た。セルフメイドのスマートフォンで「アンノウウン・ラブズ・ロジスティックス(知られざる愛の物流)」に電話した。
すると「すでに依頼をうけており、ブツを運ぶよう、配達員を手配してある。そいつはすぐさま、そこに辿り着く」との回答を受けた。二分後にはダークスーツ、サングラスのいかめしい男が、いとも簡単に迷路を破って、101号室にやってきた。迷路を解くのは誰にとってもかんたんなことらしい。ますます、ホテルにいたら危ない。
そのダークスーツ氏にはこれといった特徴がなかった。朝の通勤電車で同乗する「一生に一度だけすれ違う誰か」というふうだ。一度目を話せば、二度とその顔を思い出せないだろう。ダークスーツ氏は名乗らなかった。アンノウウン・ラブズ・ロジスティックスの鉄の掟だ。
「依頼を受けました。遂行に全力を尽くしましょう。今から『北』にあなた方を運びます」
ダークスーツ氏の呼吸は静かだ。
ウェイヴはまた網膜の裏にビジョンをみた。ナイトクラブである時間帯に感じられる「冴え渡る感覚」と似ているようだった。
ウェイヴは確信に満ちた声色でこういうのだ。「ビジョンをみたよ。このいったいに津波が押し寄せる。正真正銘の津波だ。確信がある。時間がない。ここにいればおれたちは全滅だよ」
「はっはっは、津波だって? まさか」と鹿が腹を抱えて笑った。「五反田と海はそんなに近くはないぜ。それともあれか、品川らへんも飲み込むような津波がおこるって言うのかな。わっはっは」
ウェイヴはこめかみに指をあて、目を閉じ、ビジョンの記憶をたどった。「いや、ちがう、どこからともなく湧いた水が、五反田だけを飲み込むんだ。五反田だけを、もっと言えば、ホテルギャラクシーを飲み込むんだ。ぼくたちをやっつけるために、津波がおきるのさ」
「ハッハッハ。大丈夫か、ウェイヴ。そんなたわごとを信じるほど、おれっちは甘くはないぜ。ねぼけた老人に羽毛布団を売りつけるのとは分けがちがうんだ」
だが、ダークスーツ氏はウェイヴを支持した。「ウェイヴくんの言う通りだ。状況は差し迫っているんです」
彼はスマホのスクリーンを見つめながらこういう。「渋谷鹿さん、信じられないかもしれないけど、そのまさかのようですね。われわれの人工知能も『このホテルが巨大な天然災害に見舞われる可能性を八九%と評価しています。いずれにせよ、ゼツボウの魔の手は迫っているので、脱出しましょう」
「逃げるってことにゃ、大さんせいだぜ」
その数分後、五反田に突如、高さ十数メートルの“水の壁”が現れ、あらゆる柔軟な運動をキメることで、常軌を逸した残酷さをあらわしたからだ。あらゆるものが波に飲み込まれて消えてちゃった。がれきの山が残され、多くの人間、野良犬、野良猫、ネズミ、かえる、ごきぶりなどがうごかなくなっていた。
彼らの姿は一つもなかった。
「キボウの救世主のウェイヴは、文字通りウェイヴ(波)に飲み込まれ、海の藻くずとなった」とテレビのアナウンサー(彼らほど権力の欲望に無意識に飲み込まれる存在はない)は絶叫した。
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「キボウは滅び、ゼツボウはますます繁栄する」
例の津波を契機として帝国は勝利を宣言した。ビートはロサンゼルスで勝利演説をやった。黒いタートルネックセーター、ジーンズ、ニューバランスのスニーカーという出で立ちでプレゼンをした。もちろん誰かさんを意識している。
「革命的な津波が悪を粉砕した!」
ポケットから取り出したアイフォンをつかって、万里の長城のようなスクリーンに津波の映像を大写しにした。スクリーンのなかでホテルギャラクシーが木っ端微塵になると、権力者の取り巻きたちが叫び声を上げ、拍手喝采をした。
「みなさん、ゼツボウは未来を確かにしました!」
下から上に突き出るライトに照らされ、彼は荘厳さを増している。
「ゼツボウは未来を確かにする!」
この言葉で会場が満たされた。
帝国は世界を覆い尽くした。多くの人々の意見がビートがのぞむ形になった。人々は手放しで彼を礼賛し、すべてを肯定するようになった。それは自分の頭で考えることをやめたということだ。確かに頭を使うのは疲れるし、人から馬鹿にされたりして大変だ。異論があるものたちは黙り込むしかなかった。そういった沈鬱としたムードが世界中を覆い尽くした。
ゼツボウは確かに優秀だった。世界にはこれ以上ないほどの平和が訪れた。平和を乱す者、あるいはその可能性がある者は排除したからだ。
やり方は徹底的だった。全世界対象の適正テストで「不適合」になったものを、片っ端から精神病院、刑務所に選り分けていった。なかには処刑場に直行させられ、動かなくさせられた人々もいた。
白線の外に少しでもはみ出すことを許さない教育が始まった。子どもたちはパワーに服従させられ、毎週のテストで高得点をとることを促された。個性は否定された。わかりやすく言えば、子どもたちはロボットになることを求められた。
そのうえ、強烈な監視社会ができ上がった。人々は無数の監視カメラとそれをと号する巨大なシステムのもとに置かれた。一人一人のステータスも体につけられた「ウォッチ」で見られている。ウォッチが収集したデータを、最適化された人工知能たちが分析し、あらゆる提案を四六時中してくれる。「あなた、今日は風邪薬を飲んで、早めに寝た方がいいわ。風邪をひく可能性が六五%まで高まっているわ」という具合に。その提案に従えさえすれば、人々はリスクを排除し、楽しい生活が遅れると言われた。だから人々は自分で判断することも、思い悩むこともやめた。確かに無数の選択肢にさらされたわれわれの生活は、苦悩の山のようだ。
だけど、ゼツボウは満足いかなかった。彼らの論理は、いつだって最後の〇・一%を征服するまで続けられるのだ。完璧主義と言っていい。
ビートを頂点とした帝国会議のメンバーたちの間には、恐るべき「常識」が生まれていた。
「人間を矯正するよりも、人工知能を載せたロボットを製造する方がかんたんだ」
彼らは秘密裏に人間を代替するロボットの開発を始めた。有能な人間たちを片っ端から集めて。これらが向かう先は、人間のダウンサイジングである。科学者たちはもちろんそれに気づいていた。だが、大きな可能性を目にしたとき、人はパンドラの箱を開けようとする生き物なのだ。