10章 邂逅
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ウェイヴは雪原のまっただ中で目を覚ました。脱いだ服は着ていた。でも、雪原にはまったくふさわしくないほど、薄手だった。からっと晴れ上がっているが、四方八方ずっと、コピーしたような雪原が続いている。どこに進むべきか、とどまるべきかも分からなかった。足下に羅針盤らしきものがあった。東西南北は記されていない。ただ赤くなった針の先端に「GO」と書かれていた。彼は冷たい精神により疑うことを知っていた。それから考えたが、材料がどうも不十分だった。そのうちにある一方の空が黒々とした雲に覆われ始めた。「GO」はその逆を指している。だから、従ってみた。一歩一歩踏み出すたびにぎゅっ、ぎゅっととなった。
小さな山があり、洞穴があった。
洞穴の入り口に、公衆電話があった。緑色のボタンが摩耗し、釣り銭受けにガムが仕掛けられ、小銭の二枚に一枚は読み取られない、懐かしいヤツだ。電話は何かを知っているように鳴った。
「よう、ウェイヴ? どうだ調子は? 私だ、父さんだ。ヤクルトスワローズは……」
「父さん? ヤクルトはどうでもいいよ。ぼくは雪原に置いてけぼりにされたみたいだ。何が起きてるのか、よく分からないんだ。どうもまずいことになったかもしれないよ。教えて、父さん。どうすればいいんだ」
「落ち着け。ウェイヴ。そのためにおれは電話をしたんだ。ウェイヴ。ポジティブにとらえて問題ない状況だから安心しなさい。まっすぐ、進むんだ。いいか、真っすぐ進むんだ。リオネル・メッシは足をかけられても、ユニフォームを引っ張られても、後ろからぶつかられても、倒れないで、ゴールに向かってドリブルする。だからゴールが決められる。そうだろ。だから、おまえもそうしろ。ウェイヴ」
「ここはどこなの、父さん?」
「危なくないところだ。比較的安全な所だ」
「わからないよ、父さん」
「わかんなくていいんだよ、ウェイヴ。そもそもだよ。すべてが分かるわけなんてないんだ。科学はいろんなことを明らかにしている。でも、すべてを解明できることにはならないと思うよ。でもそれでいいんだ」
「ごまかさないでよ、父さん、こうやって電話をしているじゃないか。つまり、父さんもこの雪原に、ぼくがいることに少なからず関わっているはずじゃないか」
「うううむむむむむ〜。賢くなったなウェイヴ」
「いつまでもガキのまんまじゃいられないんだよ、父さん」
「その調子だ、ウェイヴ。Vを失ったいま、おまえはもっとがんばんなくちゃいけなくなったんだ。とにかく、いまの状況に集中しろ。分かる必要はないんだ。駆け抜けることが求められているんだ、わかったな!」
ガチャ、ツーツー。
どうしようもなく不安だった。不安という感情の芽は、不確実性だ。彼はながらく不確実性を意識しない都会生活を送っていた。確かではないことはこの世にあふれているのに。
ウェイヴは傍らに不自然に置かれたランタンを掴んだ。細長い道の奥深くには、焚き木で照らされた広い空間があり、得体の知れぬ男がたたずんでいた。男は時代遅れの肩幅が小さくとられているツーボタン・ジャケットと、カートコバーン的なセカンドハンドなリーバイスのずたぼろジーンズを履いていた。くしゃくしゃの煙草を吸い、寝不足のような、惚けた顔をしていて、心ここに在らず感がひどい。
でも、容貌自体は切れ味鋭いたぐいだ。サーベルのように尖った鼻。断崖絶壁のほお骨。細い目のなかにある瞳は曹操のように獰猛で、あまのじゃくな性格の持ち主であると物語っていそうだ。白鳥一万羽になぜか含まれてしまう黒い白鳥だ。余りにも疑い深く、それでいてものすごい楽天家で、どんなことに関しても朝令暮改かもしれなかった。ひとつ気になるのは、彼の傍らに置かれている、ケネディ大統領が誇った三人組が着ていたような宇宙服だ。脱皮の後のからのように、くしゃっと洞穴の壁にへたりこんだ。その表面はざらざらとしていて茶色くにごっていて、使用感がありありとある。
「やあ、ウェイヴくん」
彼は煙草を放り投げて、新しいのを焚き木でつけて吸った。煙はすべて鼻から放出された。
「ぼくは〈協力者〉だよ。きみとぼくとの出会いは世界が歪んでいることの証明だ。つまりこういうこと」
――せかいはぐるぐるまわっている
それでいてきみょうにゆがんでいる――
「そしてもうひとつ。『ばらばらのものたちが、つながりあいたがる』。それがこの世の中のあり方だ。面白いだろう」
ええ、とウェイヴはうなずいた。
「面白いですね。『ばらばらのものたちが、つながりあいたがる』。でも、あなたが何について話しているのかは、ようく分からないんですね」
「そのうち分かる。それをあたり前だと思う時がくる。それが『わかる』ということだ」「そうですか。にいさん、ぼくはどうすればいいのですか。ぼくは次の行き先を探しているうちに、なぜかこんなところに迷いこんでしまった。ここは本当に深い所だ。たぶん、ぼくが住んでいた所とは、もう本当にかけ離れた場所なんでしょう」
「おい、ウェイヴくん、それは間違いだ。確かにここは変な所だけど、きみが普通だととらえていた所もまたクレイジーなのさ。きみは思い込みにとらわれている」
彼は煙草をきりかえた。吸い込む量が半端なかった。
「ようし、いま、必要なものだけをきみに上げることにしよう。きみは北に移動して、あるものを複製することになるのさ。そのためには『非公式な配達業者』との恊働が大切になるんだ。これだけだ。分かったな」
鼻から多量の煙が出た。それが男の顔を隠した。やがて映像がまどろんでいく。