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恋する惑星  作者: 夏川慧
10/18

9章 手がかり

28 


 ドナルドによるダメージは大きかった。

 Vは死んだ、と結論づけられた。なにしろブラックホールだ。Vがとりもった「逃亡ルート」に赤信号が灯った。次にどこに行けばいいのか……。ホテルはもはや安全じゃあなかった。くだんの天才迷路設計士は無惨にも殺された。別の「101号室」で、氷柱の上に寿司のネタのようにバラバラにされて載せられていた。どろりとした血が氷を赤黒く染めた。彼の体はかちこちに硬直したが、なぜか顔はシミひとつない笑顔を浮かべていた。

 鹿はしげしげと眺めながら「ドナルド野郎はリキッドの下僕だ」と指摘した。

「下僕?」とウェイヴは聞き返した。

「そうだ、下僕。リキッドは凶悪な下僕をつかって敵を始末する。おれの友達も何人かやられた」

「なんでそんなこと知ってる」

「なにせ、ギョーカイの有名人で未来探偵をやってた鬼才だからね」

「妙なおっさんだとは思っていたけどねえ」とエディットはほおの汗をチェックシャツで拭った。

「大きな損失だよ」

 鹿はため息をついた。

 雨の音が部屋の中にしみ込んだ。外ではしのつく雨が降り、真っ白な雷が暗黒の中であやとりしている。風が電気ギターのフィードバックを鳴らし、窓はドラム式洗濯機を眺めている錯覚を覚えさせた。

 それから、隠し金庫まで破られている。例のフロッピーディスクが盗まれてしまったし、もっと大切なものまで持っていかれた。それについては、ジョジョは何も話さなかった。もちろん、キボウの一員であるから、情報をあらゆるところに行き渡らせることに大賛成なんだけど、なかには共有すると皆を傷つけることになる情報がある。ジョジョはそれを知っていた。

「さっき、わたしは分析してみたんだけどね」とジョジョは部屋にホログラフィーを浮かべた。メルカトール図法の世界地図の上に、立体的なグラフがとても緻密にのせられていて、キボウとゼツボウの二色に色分けされている。

「ゼツボウは地球人の7割をシンパにしているよ。ヤバいね。彼らはメディアをことごとくコントロールしちゃってるからね。時代劇のような善が悪を駆逐するという構図をすりこんでいるし、敵と見なした相手はヒステリックにクソミソをかましているんだ。これらを理性的に判断するには、ちょっとした知性が必要だったり、慣れみたいなのもいるかもしれない。

 1割の完全無関心層はしょうがない。残り二割がキボウのシンパなのはちょっと心強い状況ではあるなあ。おそらくこの二割は裏切らないからねえ。

 ただし、敵さんは強烈な包囲網をしいてくるだろう。彼らはトラディッショナルだから、敵を殲滅するまでやめないだろう。

 しかも、さきほど奪われたフロッピーディスクにはこっちの大事な情報が入っちゃってるから、このポイントからの攻撃も熾烈になりそうだなあ」

 逃げ道がいる。鹿にアイデアがあった。死人に直接きくことだ。「死人と会話できる」呪術師が五反田にいる。そいつは十二億円という法外な報酬をとった。

 鹿の資産はラチられた時に全部奪われた。スイスの隠し財産もやられた。

 カネをなんとか用意しなくてはならない。

 彼には秘策があった。

 秘技「マジックハンド」。 

 時空を越える魔法の手で人の金をこそーっと奪うワザである。この太陽系のなかで、鹿だけがこの特殊技能を持っていた(太陽系の外には数人いた)。

 渋谷鹿は生まれながらに、マジックハンドをものにしたわけじゃない。努力によって手に入れたのだ。齢十六のときに近所にあった「甲賀流忍者屋敷」で、服部半蔵師匠(自称、本名・及川昌、当時四十七歳)から、週に一回忍術の手ほどきをうけた。もちろん鹿は驚異的な吸収力をしめし、半蔵師匠は鹿を気に入り「おまえは猿飛佐助の生まれ変わりにちがいない!伊賀に生まれなくて助かったぞ!わっはっは」と激賞した。

 鹿は俊英そのもの。四十七回のレッスンで、本物の服部半蔵に匹敵する実力を得た。七十三回のレッスンで彗星のごとくひらめいた。七十六回でひらめきは大樹になった。マジックハンドを自分のものにしたのだ。

 マジックハンドには四十九の条件が課せられている。例えば、体脂肪率は十%以下であり、睡眠障害を抱えておらず、ツベルクリン、天然痘の予防注射を受けているのが望ましい。怒りっぽい性格はだめで、IQは120以上なくてはならず、スターウォーズと仮面ライダーとセーラームーンは全シリーズを観ていて、いつでも重箱の隅をつつくクイズに答えられないといけない。

 マジックハンドは相撲を越える儀式を必要とするのも、好事家の間ではよくしられている。ベースラインがびょんびょんはねる、陽気な南洋音楽に合わせて、軽やかなフットステップを駆使し、からだとビートをひとつにする情熱的な踊りで、空・土・森・水のカミサマに、ふしだらな敬意を示さなくちゃいけない。その動作は平均して三十五分かかり、ラグビー二試合分の疲労感を覚える。

 鹿は何度かミスって、怖いおじさんたちを怒らした事がある。例えば、二〇〇七年十月十四日の国際石油カルテルを崩壊させた「伝説の10・14マジックハンド」では、儀式中いくつかのモーションで重大な「不品行」があったと、マジックハンド評議会からいちゃもんがついた。

 評議会は「おれさまえらいぞ病」にかかった老人のたまり場だった。鹿は評議会を解散させる機会をうかがったが、一度木に絡み付いたツタははがすのが難しい。神宮球場のツタみたいに、風情があればいいんだけど。


 とにかく渋谷鹿は儀式の最後のヤマを迎えた。服を脱いで、生まれたままの姿になった。彼の体はおおむね鹿であり、そめた金色の毛が体を覆い、特に猥褻な感じはなかった。そのまますっと座禅を組んだ。静かに壁を見つめながら、宇宙のあり方に考えをめぐらし、自分と宇宙の距離を計っている。彼の表情は、モンゴルの大平原の大らかさに満ちた。

 彼は自分の拳で、体を強く打ちつけた。ぱあん、ぱあんという音がホテルの部屋に響いた。彼ははげしく汗を書かいて、毛は濃霧に見舞われた森の木々のように水滴でいっぱいになった。その雫が一撃ごとにしぶき上がった。

 やがて、からだはトランス状態に入り、じりじりと地面から離れた。

「ああ、浮いた、浮いた!」

 誰かが、うわずった声をあげた(誰だったんだ?)。まるで透明な魔法のじゅうたんに乗っているみたいだ。みんな北海道雪祭りのオブジェになったようにかたまり、じっとみた。目の前の光景を信じられなかった。

 鹿はほがらかな笑顔を見せた。吹き抜けの二階の高さに達した。頭上にクリスタルシャンデリアの鋭利な切っ先が迫っていた。彼はソ連の体操選手のように、ぴたーと静止した。

「マジッーーク、ハーーーンド!」

 陳腐なかけ声。いろんな声を多重録音で重ね合わせた感じ。テープエコーの潤沢なこだま。鹿の手が七色に光り、光はうにうにとうごめいた。彼の手は目の前にある空間を「ぱかっと開けて」すっと別次元に入った。

 手が到達したのは、自動車会社の内部留保だった。彼はこそっと一兆円相当の資産をタックスヘイブンにあるペーパーカンパニー数社に移しかえた。誰かさんの名前で登記されていたが、実際には完璧に鹿のものだった。音もなく、痕跡もなく、密やかに、その腕を別次元から、親しい次元へとするするすると戻した。

「マジッーーク、ハーーーンド、オーーーフ」

 こう叫ぶのも、マジックハンド教書が義務づけている。エディットがスマホをしゃかしゃかやって資産が入ったことを確認した。うなるような資産が間違いなく、鹿の会社に転がり込んだ。

「驚いたな。まったく。目の前でみたけど、まだ信用ならないな」。ウェイヴも感嘆の声を漏らした。「あんな役立たずそうだった鹿がここまでやるなんて」。

 鹿は誇らしげに叫んだ。「やった! やっぱりおれは天才だ。たった数分で一兆円も稼いだ。もうこれで当分働かなくていいぞ。遊び放題じゃないか!なにをしようかな。水着の美女と流しそうめんとかやりたいと思ってたんだよなあ。あの嫌いな、いじわるなおっさんに、ゴルゴ13を差し向けてやろうかな。わっはっはっはっはっは!」


29


 呪術師マホン、ジンバブエ出身の陽気な男は、十二億円相当のビッドコインの送金を確かめた。彼の「スピリチュアルフォン」はそのときもいとも簡単に、霊界にいるVにつながった。

「やあ、もしもし、君はVさんですね。ハイパー・マンダラ・パートナーズのパートナー、Vさんで間違いないですね。残念ですね。大変でしょう、あの世は」

 彼は目を閉じて神妙にうなずいた。「うんうん。わかるよ。苦労が絶えないだろう。そうだよね。わたしも、あの世というやつを、のぞきみたことがあるんだ。もちろん、超能力をつかってね。意識をそっちにぽーんと飛ばしたんだ。もし一定の時間そこにいるとだよ、生きている人は抜け出せなくなるからね。あぶないんだ」

 彼は浅草で買った木魚を強打しておがんだ。「そうか、それで、どんなかんじなの? いまのあの世は」

 彼は聞いた。

「うんうんうん、楽園。いいじゃないか。でも一筋縄ではいかない、楽園。なるほど、やっかいだな。それで、うん、『完璧な、計算で、造られた、楽園で、ひとつだけ嘘じゃない、愛してる、どうして、コンピューター、こんなに、くるしいの?』。っておい、これ『パヒューム(女性三人組ユニット)』の唄じゃないか。『コンピューターシティ』じゃないか。いい唄だよな。そうだよな。

 んん、なんだって、まあそうせっつくなって、なんだよ、ええ、酒がほしいだって。あの世には酒がないんだから、しょうがないだろう。んん、なんだって、いやだ、酒がないなんて死にそうだ、だって。まあまあ、落ち着いて、君はもう死んでいるんだ。二回死ぬのは至難の技だ、007くらいだよ、できるのは。

 あの世には大好物の寿司もないってか。ぜいたくなやつだな、君は。死んだくせに。いいか、そばでも喰ってなさい。そばでも。んっ? そっちにはそばもないのか。ないものづくしじゃないか、それは地獄じゃないか」

 マホンは黒いハンカチでしきりに汗を拭った。「それから、なんだって? もごもごいって分かりづらいよ。君はよっぱらっているんじゃないかなあ。なあに。妻と子どもに会いたい、だって。妻と子どもだって?驚いたよ。君が結婚して、子どももいたなんて。どんな女なの?君みたいな酔っぱらいと一緒になろうって女は?

 えっ、奥さんも酔っぱらいなの。酔っぱらい夫婦なのね。子どもはどうなの。うん、うんうん、やっぱり酔っぱらいなんだ。でも、おれよりがぜんしっかりしている。だって、みんな母親似だからね。ふうん子どもは何人いるの? 7人、なるほど、七人の侍になれる、うん、その通りだ」

 御一行がマホンをにらんだ。「どうやら本題に入らないといけないようだ。どうも、ユーモアがないよなあ……なあ、ウェイヴたちキボウ一行はどこに行けばいいのかな。これから何を目指せばいいのかな。彼らは君を失い迷子になったんだ」

 彼は聞き手になる。

「そこで待っていれば物知りのオウムが来る、んだってよ。Vもその先は知らないそうだ。自分のところに情報を全部集めておけば、おれの脳みそがハックされたときには、パーティは一貫のおわりなるからな、だと」


30


「そのオウムというのが、あちきのことさ」

 シャンデリアに乗ったオウムが突然そう言った。彼はいつの間にか部屋に侵入していた。彼もまた迷路をいとも簡単に越えてきたみたいだ。彼の言葉はオウム臭さがなく流暢なんで助かる。でも、自己紹介は長くてうんざり。

「こんにちは。ただいま紹介に預かりました〈協力者〉の伊勢屋勘九郎でござんす。オウムちゃあオウムだが、伊勢屋って名乗っているでやんす。やあ、こんにちは、この世界のキボウ、ウェイヴくん、あちきは伝書鳩ならぬ『伝言オウム』。キミに協力できることを心から楽しみにしています」

 彼はそこからため口になった。

「あちきは世界で初めての伝言オウムでありやんす。あちきは『ポスト・エドワード・スノーデン時代の新しい機密伝達方法』として、注目される希代のスーパースターなのさ。顧客にはグローバル企業のCEO、世界的投資家、高級専門職とグローバルエリートがずらりといる。あちきは最高のなかの最高。グローバル資本主義の本当の成功者なんだねエ。

 なぜ、ここまであちきが成功したか。毎日毎日うんざりするほど聞かれてるんだ。なぜなら、あちきは伝書鳩に対して大きな優位を築いた。なにしろ、しゃべっちゃうんだぜ。向こうは『ふるっふう、ふるっふう』、こっちは日英中が話せまんがな。ねえ、超便利でしょ。書く手間もはぶける。読む手間もはぶける。紙という痕跡も残らない」

 彼は懐から青と赤のカラフルなカプセルを取り出した。「この錠剤『ワスレール』で特定のことだけ忘れることができる。秘密は最後は姿形もなくなるのさ。しかもあちきは生まれながらのエンターテイナーだ。冗談もいける。皮肉だって言える。嘘だって真顔でつける。酒だっていけるクチだ。『昭和かれすすき』と『川の流れのように』、『時の流れに身をまかせ』をうたわせたら、右に出る者はいないし、クソなゴルフだって付き合うし、アメリカンフットボールのルールだって理解している。女性が相手だったら、ベッドの上でタイガーになれる。情事の翌朝は、ベーコンとソーセージ、ほうれんそうをからませたスクランブルエッグに、アールグレイ、新鮮な牛乳、季節の野菜のサラダ、三種の果物ヨーグルトでもてなすのさ。どうだい、ショッピングモールみたいになんでもござれなのさ。(以下中略)。

 伝書鳩はライフルで撃ち落とすことができる。なんともろい情報伝達手段だ。それにくらべてだよ、キミ、あちきはそうは問屋がおろさないんだ。だって、からだをサイボーグ化したからね。フェニックス構造といって、どこかを破壊されても、他の部分が失われた機能をすぐ満たし、やられたところも、ものすごい速度で復元することができる。いっちゃえば不死身です。不老不死。『ターミネーター2』のあいつ。あんな感じ。または『不死身のコプラン』。この映画はマニアックすぎるか。わはは。この手術には、三十二億ドルかかった。まだ少〜し、負債があるのさ。しかも、不偏不党を掲げているわけでさあ、誰かに操られるのとか、本当にイヤなんだなあ。

 まあいい。要するにあちきは、アナログ情報伝達のスーパースターなん。しかも、だ。インターネットはある国が完全に監視している。いくつかのカイシャがめっちゃハバをきかせていて、それが裏口から流れちゃう。これを聞いてみてくれ」


――「私には隠す物など何もない」と言うことは「この権利のことなど私にはどうでもよい」と言っているのと同じだ。つまりは「私はこの権利を持っていない、なぜならそれを正当化しなくてはならなくなったからだ」とあなたは言っている。本来、政府によるあなたの権利に対する侵害は、政府が正当化しなくてはならない。


――秘密のプログラムはあってもいい。取り調べを受けている個人全員の名前を米国民が知る必要がないことはわかるだろう。諜報機関のあらゆるプログラムに関して、われわれが技術的詳細を知る必要もない。しかし、政府がどんな力を持っているのか・・・そしてそれがどうわれわれに影響を与え、どう海外との関係に影響を与るのか、大まかな概要は知る必要がある。なぜなら、もし知らなければ、もはや我々は市民ではなく、もはや我々にリーダーはいないからだ。我々は国民であり、我々には指導者がいる。(エドワードスノーデン・『ハフィントン・ポスト』より)


「われわれのあずかり知らぬ所でやばいことが起きてんだよ。国家があなたを監視したがっているんだ。

 だからこうやって口伝えで言い渡すのがさあ、再注目されるんだ。(以下中略)万歳!伝言オウム!」

 彼はフォーブスの「世界で最も影響力のある動物」で昨年、夢見がちなカマドウマに次ぐ九十一位にランキングした。

 彼が伝言オウムビジネスを起業するまでの過程をことこまかに再現したドキュメンタリも制作された(評判は鳴かず飛ばずだったけど)。彼はちょっとした時代の寵児になっていた。

「でもな。金をいっぱい持ってひけらかしても、『それで何?』なんだよな。皆がチヤホヤしてくれる。でも、やっぱり『それで何?』なんだよ。だから、ウェイヴ、あちきは君に協力するよ。カネを稼ぐのにうんざりしているんだ。何もないんだ。なぜ人間は、統治の方法を少しずつ前進させ(二回の世界大戦があったけども)、技術を発達させた末に、今のような世界を造り出してしまったのか。もっとうまくやれる。だからロケットの方向を変えていくのさ。われわれが草の根のレベルでね。テクノロジーと知性で自由になった人々がだよ。それがキボウの考え方だろう。だから僕たちは協働するんだ。『こんな世界は退屈でしょうがない』ってね」

 オウムはシャンデリアから床に着地した。

「さてさてさて、冒険を続けろとのお達しだ。レモンというバーがある。そこで『ホーク・ビール』の売り子、アキのなかに次の行き先が隠されているんだ。ウェイヴ、お前、ちょっと行ってこい。プーマを着た鹿が行っても変なだけさ」

「なんだとこの野郎! だまって聞いてりゃあ調子乗りやがって!」

 鹿とオウムがけんかした。


31


 アキは二十代前半の健康的でセクシーな女。ビール会社のロゴをあしらったオレンジ色の短いワンピースを着ている。ふっくらとした太ももは手羽先ほどぷりぷりしている。ふくらはぎも二の腕もそうだ。彼女の健康的なエネルギーはとどまるところをしらない。

 海に数日間行っていたらしくよく焼けていた。化粧は大雑把すぎて工夫の余地がありそうだった。大きな胸がテーブルの上にどっしりと載った。男好きする顔を、ぱっと大きな目と大きな口が彩った。

 客はウェイヴ一人だけ。ビールをたくさん買うかわりに、彼女が一緒に飲んでくれることになった。彼女は南国の丁字煙草をたくさん吸いながら、クジラのようにビールを成敗した。

 とにもかくにも、彼女の話を聞かないと。でもそれはめちゃくちゃに混乱していた。「彼女のなかに、たいせつな情報がある」のだから。彼女はとりとめもなくたくさん話した。ウェイヴはそれを丁寧に聞いた。そういうのが彼は嫌いじゃなかった。

 アキは仕事のシリアスさもだんだん失って、飲んで、食べて、しゃべった。ウェイヴは、リサイクルショップの回収係のようだった。その断片たちを集めていった。組み合わせれば、何か新しい風景に出会えるのかもしれなかった。

 彼はずっと彼女の話を聞いた。彼はどうして人から話を聞くのがここまで愉しいのだろうか、と考えた。自分の天分なのだろうか。人の話は、音楽と照らし合わすとあまりにも不完全だ。

 その不完全さが好きだ。ビールを売っている女の中にこそ、本当の面白みがあるんじゃないか。権力が左右できない個人の暮らし、内面。内面も人にオープンにされる部分と閉ざされる部分がある。特に閉ざされた部分は蜜のようにおいしいのだ。でも、ウェイヴはそのデリケートさもわかっていた。他人に口外してはいけない。

 人間の世の中はいろんな人の思い込みでできている。思い込みが偶然重なり合うところが、コモンセンスになる。共同幻想だ。それから権力がおしつけている幻想もある。

 でも、思い込みたちから誰がエラい、エラくないを取っ払えば、思い込みたちはそれぞれ価値が等しいといえるわけじゃない。だから、アキの思い込みだって、しっかりと見つめる必要があるし、それはひとつの宇宙なんだ。先入観をかぶせなければ、一人の中にため込まれた情報はものすごくたのし〜いものなんだ。

 たぶん、テレビとか、新聞とか、教科書とか、マニュアルとか、「上から下に押し付ける情報」がなければ、一人一人の思い込みはよりセクシーになってくる。

 ドナルドの言うように、人間の愚かしさは必然なのだろう。愚かしさはいろんな惨劇を生み出した。でも「愉しい愚かしさ」もあるのではないか。無害で、わくわくさせてくれる愚かしさもあるはずだ。ぼくはそう思う。

 それから、付け加えると、政治とか経済とかの話をすると、頭が痛くなることばかりなんだよな。日本人と中国人が政治について語り合ったら、もう目も当てられない自体になるかもしれない。


 とにかく。

 彼らは都合四時間、酒をあびるほど飲んだ。タクシーにしばらく乗って郊外の街まで出た。十階建てのコンパクトなマンションが彼女の巣。ハローキティとケロケロケロッピーとリラックマが待っていた。モスグリーンのソファの上に二人はしなだれかかった。彼女のからだから香水や化粧品のにおいがあふれる。女のにおい。むっとしていてどんな濃厚な牛乳よりも濃い、そういう何か。男が求めないではいられないエッセンス。

 彼女のからだはすごい弾力があった。海の前の丘の上に広がり、電車が腹の上をかする小さな街で生まれた、って彼女は言ってた。その海でいつも遊んでいた、って。触っているとそれがわかるみたいだ。

 壁には羊の剥製のポスターが飾ってあった。彼女はそれをしながら話した。

「ドリーというクローン羊がイギリス・エディンバラ王立博物館に展示されているのを撮ったものなのよ。ドリーは一九九六年に誕生し、二〇〇三年にヒツジ肺腺腫により安楽死したわ」。彼女の口調はそのときだけ、図書館の司書のようだ。「ドリーの存在はわたしにこんなことを投げかける。もし人間が複製可能なら、わたしたちがわたしたちであることの理由がさらに薄れていくんじゃないかしらって」。

 彼女は氷の微笑をうかべた。

「こういう妄想を抱いているの。このマンションのすべての部屋に私のクローンが十五人住んでいて、あなたのクローン十五人とそれぞれ交わっているの。私たちとシンクロナイズするように。そうしてたぶん微差がありながらも、同じような感情を抱くのよ、お互いに。そう考えるとわたしたちとクローンたちの違いってなんなのかなって思うの」

「さあね、どっちも似たようなもんだ」

「人間を遺伝子という情報が集まったものと考えると、死んだらどうなるの。情報は消えるの? どこかに受け継がれていくの。どこか違う所にいくの? あなたの前に立っているわたしもまた情報の集まりなのかしら。姿形とは幻のようなもので、情報のようなものなのかしら。魂というものは存在するのかしら」

「さあね、魂とは、ぼくたちが自分たちの生を理解するためにでっちあげられた物語にすぎない。ぼくたちの情報はたぶん、子どもに受け継がれていく。記憶とかは消えてなくなるんだ。ぼくたちは大きな川の一滴の雫に過ぎない」

 彼女は微笑した。

「そうかもしれない。でも、そんなことはどうでもいいのよ」

 彼女は再び激しく求めた。何もかもがあらかじめ決められていたかのように結びついていく。決定論的だ。あらゆるカオスを越えて、ひとつの果実に辿り着いた。それは素晴らしいものだった。

 スプリングマットレスは優秀で、彼らのアクロバティックな行為を、設備的な面から完全に保証した。ベッドはグローバルで均質的な大量生産が、まあまあ、ニーズにあったものを安価に与えられることを証明した。安心なセックスである。だから似たような製品がわっと世界に広がる。

 二人の相性はとてもよかった。彼女は素晴らしいエネルギーを秘めていた。ウェイヴだってそうだ。彼女の快活さとウェイヴの尖った精神がうまくあわさった。大きな障害はなかった。二人が過ごしたのは無我夢中の時間であり、あらゆる制約から解放された、滋養豊かな時間であり、ここではないどこかへの一時的な旅行だった。

「自分のなかに何かが入り、彼女の方にも自分の中の何かが入り、交換している」と彼は感じた。性交は最高の情報の交換だと思った。多くの情報を秘めて、マグロみたいに世界を回遊しているわれわれ。それらは言葉やまなざし、耳やなにかで、情報を交換できる。

 ことが終わるとあまりにも安らかな眠りにウェイヴは落ちた。


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