序章 孤独な宇宙船から愛を込めて
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「ここは……どこだろう」
孤独な男が千年の冷凍保存から目覚めた。見知らぬ天井。無機質なつるつるした空間。ほのかな照明。断続的に聞こえる電子音。それ以外の音はない。とても静かだ。からだが重たい。買い手がつかないまま氷の上で固まった魚のようだ。頭を抱えた。頭の中には混沌がある。空虚さもある。沈黙もある。でも記憶はなかった。記憶はなかった。「おれは……、何者なのだろうか」。彼は頭のなかで話した。もちろん誰も答えなかった。
カプセルから這いずり出て、体が耐えられる限り、ゆっくりと歩き回った。壊れた機械のように体がきしんだ。一歩歩くと、きいいいという音が、体の中の節々を通じて、鼓膜まで達するのだ。
彼は周囲を見回した。真っ白さでできた空間が広がる。この空間は20世紀の人間が未来に託した意味のいくらかは表現できている。蛍光色を放つパネル。丸くくりぬかれた窓の向こうには、無限の真っ黒い広がりが見えた。
「宇宙船に乗っている」
彼は理解した。
*
彼は簡単なつくりのパネルをいじる。眼前にホログラフィー(3D映像)が浮かんだ。それは言う。宇宙船は地球からどんどん離れている、と。それは言う。あなたは千年間眠っていた、と。
それから、千年前の自分が残したらしい、電子手紙がホログラフィーで現れる。
それは言う。
「Qは地球を逃れてきたが、追っ手の攻撃で、宇宙船はコントロールを失ってしまった。地球に帰れないと悟ったQは、千年間眠ることにした。千年経てば、人間が暮らすことのできる新しい惑星に辿り着けるだろう。そこで希望にあふれた新しい世界をつくらなくてはいけない」。
彼は自分が「Q」と直感し、自分をめぐる状況のいくらかを理解した。その電子手紙が信用の置けるシロモノという条件のもとでだが、暫定的な手がかりにはなるだろう。
気分を変えたい、と彼は思った。洗面所で鏡に写った自分の顔を眺めた。千年の眠りに憔悴しきった30代の男、だろう。つんと尖った鼻、小さな鼻孔、大きめな耳たぶ。ほお骨はどんな肉に阻まれることもなく突き出て、くぼんでいる目元には深いくまがあり、寝ぼけているかのような細い目のなかの瞳の光はにぶかった。
その男はとてもひねくれ者に見えた。あらゆることを、権力がほしがる形で実行するのをよしとせず、どんな先入観を持たずに、自分が考えだしたやり方で実行する人間のように見えた。どんな物事に対しても、一般的に言われていることに影響されず、そのゼロから疑ってかかる。そんな感じだ。「このひねくれ者はいまや、完全に自分の直感に従って生きていくことが、できるようになったのだ」。彼は独り言を言った。「この狭い箱の中で孤独という厳しい条件を課せられているけれども。人は自由の刑に処されている。サルトルはそういう。それでも自由はおいしいものだ」。自分が吐き出した言葉に驚いた。自分がそう話したとは思えなかった。彼の生きてきた履歴が垣間見える。記憶はないにもかかわらず、履歴は残っている。声だって誰かがこしらえた偽物のように思えた。
洗面器に水を溜めた。冷氷機からすくった氷をどぼどぼと落とした。彼は顔を突っ込んだ。鋭さが貫き、脳みそに衝撃が走った。自分が細胞からなる有機物であり、呼吸によりからだの機能を更新し続ける、生きる物であることを実感した。肌という境界線を改めて認識した。それは大きな一歩である。「おれは生きている」。
彼は鏡をずっと眺めていた。服を脱いだ。ほくろ、体毛、あざ、筋肉とぜい肉の具合、肋骨の形状、生殖器、足の形状と、それはとても念入りにやられた。
*
ロボットボイスが彼を呼んだ。
「ぼくのことも思い出してね、Q。ぼくはモーグというんだ。人口知能だよ」
Qは目を丸くした。
「モーグ?……申し訳ない。まだ頭がぐらぐらしているんだ。自分がだれかも分からないんだ。君はぼくをQと呼んだね?さっきの手紙にもQと書いてあった」
「そうだよ。Q。君はQという探検家と探偵と楽天家を混ぜて3で割ったような人間だったんだ。詳しくは後でまとめて説明できるだろう」
「そうか、きみは誰だ」
「ぼくは人工知能のモーグだよ。君が好きなシンセサイザーからぼくの名前をつけたんだ。ぼくも天才発明家の名前を頂いてうれしいばかりだ」
確かに彼の声はモーグが鳴らす音のようだ。ハードでクールでエキセントリックな反面、どこかアナログなもろさが美しい。
「君は男なのか?」
「ぼくに性別なんかないよ、Q。ただ、便宜的にぼくは人間の男のふりをしている。人間と話す時のコツだよ。その方がぼくの言うことが、相手の心に染み渡るんだ。自然とね」
「そうか、ぼくと君はどんな関係だったのかな」
「Q、それは大事な質問だよ。ぼくときみは一身一体だった。われわれは常に協働する、切っても切れない関係だった。Q、君がぼくのディープラーニング、まあ学習を助けてくれた。君はぼくを育てた。経験を共有した。あらゆる知へのアクセスを君は開いてくれた。その多大なる貢献のため、ぼくはきみを心から尊敬している。君がぼくを尊敬していることもしっているよ、Q」
そうか、とQは話して、どこまでも続く草原に通り雨が降っているイメージを覚えて、窓の外をちらっと見た。むろん、そこは宇宙で、雨が降っているはずがなかった。なんなんだろう、今のイメージは……。
「Q、われわれは1万キロ以内に生物が多様な惑星を見つけたんだ。そこがわれわれの希望の星になるとわたしは踏んでいるんだ」
Q、これを着用してくれ、とモーグ。あの1969年のアポロ11号による月面着陸のような宇宙服が、天井がクレーンで降りてきた。
*
そこは豊穣の星だった。海、山、森、草原、雪原。トンボのような小型飛行機で球体のまわりを滑空すれば、終わることのない豊かな自然が、生物多様性が、人間には理解しきれない巨大なカオスが、広がっていることがわかった。しかも、生物たちのダンスを壊しかねない、支配的で暴力的な種は存在しないようだった。つまり人間のようなやつらのことである。
Qはそこを希望の地と確信した。宇宙船には十分な冷凍精子と冷凍卵子があり、人間を増やしていくのは簡単だ。この星の一部分を借り受けて暮らしていけば、人間はここで繁栄できるだろう。
*
彼は雪原に置いた宇宙船に戻った。
「なあ、モーグ、ここで再び人間を増やしていく前に、おれは確認したいことが山ほどある。そのうちの一つがぼくの過去だ。いかんせん、記憶がないのは、腹の中から胃がなくなったような感じだ」
「そうだね。人間のアイデンティティというのは、記憶に頼っているところが大きいね。その記憶がないのだから、心が落ち着かないのは当たり前だ。ぼくもそろそろ、過去を教えなくてはいけない頃合いになったと思っていたよ、Q」
彼のエレクトリックな声が、一瞬ひずんで、ぎいいと鳴った。彼にも感情のようなものがあるのか。それとも感情をシミュレートしたものがあるのか。
目の前の空間に、本棚のホログラフィーが浮かんだ。モーグは「忍者」のアバターをつかった。黒装束に身を包んだ軟体動物のような男が、ぐにゃぐにゃの動きで本をたぐった。やがて彼はある「ブック」を見つける。傍目に見てもそのブックは魅力的だった。外見は何の変哲もない本の形をしたホログラフィーなのだが、ものすごい知がそのなかに秘められている……そんな感じがした。「これが、きみが経験したこと。これがきみが宇宙空間に長い間放り出されるようになった、いきさつだよ」。モーグの声は豊かな反響をともなった。声にはわくわくに似たムードが漂う。「さあ、ページをたぐってよ、Q」
Qはページをたぐった。
一ページ目にはこんな要約があった。
キボウとゼツボウという二つの勢力が、宇宙の未来をめぐって争った
ゼツボウは実体なき広がりを根本とし、とても強かった
キボウの救世主の少年は散らばった「力」を集める冒険に出た
その冒険はとても興味深いものとなった
「なるほど、なるほど、これはSF大作じゃないか。キボウとゼツボウねえ」。彼は再びページをたぐった。立体的な映像とインフォグラフィック、付帯的な情報を与える無数の脚注、当時の状況を八十七%再現した音声+映像が目の前に現れた。彼は自分が目の前にしているものに対して、集中することができた。とても静かな気持ちで、冷たいまなざしをそこに向けることができた。
その特異な事例に深い興味を抱くまで時間はかからなかった。彼は最初のうちは”水面”をさまよっていたが、クジラのように深く深くへと潜り始めた。海底を見つめながらゆっくりと一かきごとに深い所へと進んでいった。周囲がどんどん、黒塗りになって、やがて、自分とは関係のない黒い場所に変わっていく。狭められた世界だけに存在が凝縮されていくひとときだ。やがて、水面からあまりにも遠い深海へと落ちていくのだった。
*
この世の中にはあらゆる関係なさそうに見えるものごとがいとも簡単に関係してしまうことがある。世界は人間の思い込みとは異なり、とても複雑で、予測不能なだ。分かりづらいあらゆることは、人間にとっての「予測不能」であり、もし視点を環境に置けば、当たり前のことに過ぎない。そう、人間の先入観というものだ。
だから、われわれはあらゆる思い込みをとりさった状態でものごとをながめないといけない。もちろん、それはとっても難しいんだけど。あらゆるものが、きみの頭の自然な活動をむちゃくちゃに引き裂く、そういう状況から自由にならないといけない。
うまくやることはできる。われわれは人間の世界(社会)をもっと楽しくつくっていくことができる。もっと世界を面白くすることができる。ただ、無駄なものに考えが引っ張られすぎて、気づかないだけだ。
この物語は、奇想天外な二足歩行の鹿が捕縛を解かれるところから始まる。ハンバーガー屋とフライドチキン屋のマスコットがハードな信念にとりつかれるところを通過する。父からは頻繁に要領の得ない電話がかかってくる。ショッピングモールを創造的に作り替えた女性が現れる。そして、ストーリーは奇妙なるカブトムシがトイレに現れる所で最終版を迎える。その間、いたるところで、あらゆる瞬間に、世にも奇妙なものごとがあふれている。
これはそういう物語である。