黒船襲来
鹿屋という土地は少し特別な場所である。鹿屋は第二次世界大戦中、大日本帝国海軍航空隊の特攻部隊の最前線基地であった。無論、海上自衛隊が鹿屋基地を継承してからは、その面影はほとんど無い。
ただ、この鹿屋基地を海上自衛隊が継承したという事は、国防戦略上重要な場所である事を意味していた。鹿児島は本州最南端に位置する事からも、分かるように日本本土防衛の為の重要地域である。
実際に明治期健軍の大日本帝国海軍には薩摩(鹿児島)出身の人間が大勢幹部になっていて、「陸軍の長州、海軍の薩摩」と、言われたくらいである。鹿屋基地には、海上艦艇は無く、港もないが、ここに海上自衛隊の哨戒機部隊がいるというのは、重要な事であった。
九州には佐世保という基幹の港がある。海上戦力のほぼ全てを集中させている以上、周辺地域には補助的な機能を持たせれば、より有効的かつ効率的な部隊運用が出来ると言う戦略が、きちんとあった。
かの有名な日本海軍の英雄である東郷平八郎も、この鹿児島の出身である。日本の海軍史において、最大のターニングポイントとなった日本海海戦は、東郷平八郎無しでは成り立たなかった。今でこそ日本の海上自衛力は世界トップクラスだが、そこに至る迄の道程は決して平坦なものではなかった。栄光と挫折をきちんと経験しており、そこには多大なる先人の犠牲が存在する。
日本が近代海軍の重要性を知ったのは、米国海軍の提督ペリー率いる"黒船"が現れた時である。海洋覇権国家米国の圧力に屈した江戸幕府は、250年続いた泰平の世を終らせられたわけであるが、1853年の東インド艦隊の4隻の軍艦(黒船)の来襲こそ、近代日本の原体験と言えるインパクトのある出来事であった。
巨大な技術の塊と、外圧によって開国させられたと言うのは、日本人にはノーガードからのクロスカウンターパンチだった。海外からやって来た外圧に対して、日本も海軍力で対抗し国土防衛をすると言うのが、以降太平洋戦争までの日本海軍の基本的な戦略となって行った。
一方、米国にとっても、このペリー提督率いる黒船による日本開国は、その後の世界における米国の地位を決定付ける画期的な出来事であった。




