沖縄転属
最近では航空自衛隊の整備隊員より、遥かに多くフライトしていると知り、少しは任務に気持ちが入る様になっていた雅人であった。
村川敏夫二等海尉27歳は、そんな雅人の同期であり、大親友であった。二人は横須賀で教育を受けた後、厚木航空基地でP-3Cに乗る訓練をしていた。厚木基地は海上自衛隊航空集団の司令部があるところであり、在日米国陸海空軍を統べる司令部もある一大重要拠点であった。
二人はいきなりそんなところで、鬼の様な訓練やしごきを経験した為、他の基地に配属になっても、大丈夫だろうとタカをくくっていた。そんな中、村川二尉は厚木に残る辞令が出た。雅人は、第五航空集団のある那覇基地に転属になる辞令が出た。幹部自衛官(三等陸海空尉以上の隊員)は、転勤が多いとは聞いていたが、早速来たかと言う印象であった。
27歳の若さで一尉をはれるのは、防衛大学校か防衛医科大学校卒業者あるいは、大学院卒業の一般幹部候補生以外では航空学生しかいない。だから、この若さで転勤が多いのは、嬉しい悲鳴と言えるのかも知れない。雅人は、沖縄に配属になる事を嬉しく思っていなかった。
何故なら中国や北朝鮮に程近くスクランブル(緊急発進)が多いのが分かっていたからである。それに沖縄の食事も口に合わなく、好きにはなれない事も追い討ちをかけていた。
着任の挨拶までには、時間があった為、観光とまではいかないが、那覇市周辺をぐるっと見て回った。やはり、TVで見る様な沖縄像と何一つ変わらない。それが沖縄に来たファーストインプレッションであった。
米国兵士も想像以上にそこら中にいる。まだ初春だと言うのに、人々は半袖半ズボンだ。女性も露出度の高い格好をしている。若者とは言え、日本本土ではこの時期としては有り得ない格好であった。何もかも勝手が違う沖縄ではあったが、次の辞令が出るまでは、嫌でも沖縄にいなくてはならない。自分の思う様にならないのは、民間会社も、公務員も同じであった。
自衛官にとっての転勤は、新しい会社に転職する様なものであり、自衛隊と言うところは、その部隊により全くカラーが違う。だから、幹部自衛官とは言え、転勤は緊張するものであり、慣れるのも、一苦労であった。
雅人は初めての転属となり、少し緊張しながらも第五航空集団司令官の美良海道海将補のいる司令室のドアをノックした。