9: Clark Turner
「夜分に失礼致します」
皆が寝静まった頃、クラークは執務室を訪ねていた。
「どうした」
果たしてそこには、夜更けにも関わらず煌々と照らされた明かりの下で書類に目を通すカイルがいた。
「カイル様、今宵はヴィヌなど召されてはいかがでしょう」
そういって老執事は軽く盆を掲げた。
「ん?」
見るとそこには酒瓶とつまみが添えられている。
クラークの言うヴィヌとは西域の限られた醸造所でしか生産が許されていない希少な果実酒で、ダークシャー領の名産である。
「そうだな…このあたりにしておくか」
カイルは手元の書類にサインし終えると肘掛けにもたれかかった。
「では、ご用意いたします」
執務机の傍らまで進んだクラークは、そっと酒瓶をおろした。カイルはその年季が入ったラベルを一瞥する。
「レヴォンヌか」
そこにはヴィヌ銘醸地における最高峰の刻印が微かに見てとれた。
「はい。レム・レリアンをご用意致しました」
ーーレム・レリアン
銘醸地レヴォンヌにおいて最古参の生産者、レリアン家の最高級ラベルでヴィヌの頂点とも称される銘柄である。
「ほう、これはまた豪勢だな。して、何年だ」
クラークがことさら丁寧に扱っていることからもヴィンテージであることが窺える。
「1698年でございます」
「なに?!よく手に入ったな」
「少々伝手がございまして」
クラークは何気なく答えると、栓抜きに取り掛かった。
「この爺め、軽く言ってくれる」
1698年は今から25年前であるため、当然ヴィンテージとして価値が高い。だが、それだけではなかった。
元来その年はヴィヌの当たり年として人気があった。しかしその後数年に渡って原料である果実ヴィヌアの不作が続き、在庫が激減したのである。それゆえ価格は下がらず年々上昇の一途を辿り、近年に至っては入手することが極めて困難となっていた。
ゆえに1698年のヴィヌ、というだけで愛好家には垂涎ものであり、レム・レリアンともなれば言わずもがな、もはや幻の一本といっても過言ではなかった。
「有能な家臣に恵まれたものだ」
「恐れ入ります。さて、お待たせいたしました」
差し出されたグラスには熟成を経た赤茶の液体が注がれている。
じっくりと眺めて手に取れば、芳醇さの中にも微かにスパイシーな気配の感じられる香りが立ち昇る。
興味をそそられ口に含めば、まろやかな口当たりと深みのあるコクがエレガントに広がり、思わず唸る。
「比類なき旨さだな…語彙が足らぬのが口惜しい」
「お気に召されましたなら、幸いでございます」
「これを気に入らぬものがいたら是非お目に掛かりたいものだ。クラーク、そなたも付き合え」
「有り難き幸せでございます。では、お言葉に甘えまして…」
クラークがグラスを用意して注ごうとするとカイルはその手を制し、自ら酌をした。
「礼を言うのはこちらだ。だがな」
あまり無粋なことを言いたくはないのだが、と前置きしたうえで続けた。
「真の用向きはなんだ。何か申したいことがあったのではないか」
このような酒を用意するからにはそれなりの理由があるのだろう、ないという方がおかしい。
カイルの問いかけに、クラークは深く礼をして言った。
「いえ、用向きなどとんでもございません。ただ、愚妻の願いを聞き届けて頂きましたので、その御恩に報いたいのでございます」
「シンシア=オルコットの件か」
「左様でございます」
「あの娘は何者だ。何故そなたらがそこまで入れ込む」
「何故と申すほどのものではございません。すべては人の縁とでも申しましょうか。かつて…あの娘の両親に私共夫婦が世話になったことがあるのです。強いて言うならその時の恩返しといったところです」
「母親と知己であるとは聞いていたが、そなたもだったのか。しかし、人の縁…それだけか?」
「それだけでございます。ですが、私共はそれこそがこの世の妙なるものと思っております。それは、何を置いても大切にしたいものなのです」
「何を置いても?」
「左様です。あの娘は私共にとって人の縁そのものなのです」
「そこまで思えるものなのか…」
「ええ、思うというよりは、この心の臓に生ずるのです」
「心の臓に…?」
「はい。痛みを伴うような、それでいて温かな、えもいわれぬ心地になります」
「……わからんな、それは」
「頭でわかるものとは少々異なるかもしれませんな…」
「縁は私も大切にしたいと思うが、胸が痛むほどの想いは未だ抱いたことがないな」
「坊っちゃまにもいずれそのような時がくるかと思います」
「坊っちゃまはやめよと言うに。この夫婦は揃いも揃って…」
「これはこれは。失礼致しました」
全く動じた様子もなく微笑む老執事にカイルは「全く敵う気がせんな…」と呟いた。
主従の夜は長い。