8: Welcome aboard.
「……暇もなにも、雇うとはまだ言っておらんが?」
勇気を振り絞って告げたシンシアだったが、静かに告げられたカイルの言葉に一気に青褪める。
「し、失礼いたしました…!」
慌てて頭を下げる。そのまま上げられずにいると…
「表を上げよ」
頭上から苦笑混じりの声がきこえ、そろりと視線をもどすとバツが悪そうな目で、しかし微かに口元を綻ばせたカイルがこちらを見ていた。
シンシアは思わぬことに息を呑む。
「苛めすぎたか…」
カイルはそう呟くと、続けた。
「許せ、冗談だ。もとよりそなたに私が殺せるとは思っておらぬ。たとえそうであったとしても、そのときは私が及ばぬだけのことよ」
そういって、くくっと笑う。
いよいよシンシアは目を丸くした。
「な、なんということを仰ります…」
急な展開についていけそうにない。
「いや、その通りなのだ。家臣を信じぬのは己を欺くのと同じこと。此度のことはメリルが珍しく頼み込んできたのだが、それは即ちクラークが許したことにも他ならぬ。我が忠臣らを信じぬわけにはいくまい?だが、2人に見込まれるとはどのような人間か気になったのでな、ちと試させてもらった。すまぬな、そなたには気の毒なことをした」
詫びるカイルに「いいえ!そんな…」と首を振るが、はたと気づく。
ーーということは
固唾を呑むシンシアに、カイルは朗々と告げた。
「よくきたな、ダークシャーへ。シンシア=オルコット」
よく励めと、カイルは笑みを滲ませた目でシンシアに言った。
「は……」
一気に気が抜ける。
「まあ!シンシア?!」
よほど緊張していたのか思わずヘナヘナとへたり込んでしまい、ちょうど茶を運び込んできたメリルが驚いて駆け寄った。
慌てて助け起こされ、ソファーに腰掛ける。
「だがな」
スッと笑いをおさめたカイルが告げた。
「先に言ったことは嘘ではない。ダークシャーとは、そういうところだ」
「は、はい」
「そなたの言葉はこの私が覚えておこう。初心を忘れぬようにな?メリルやクラークを見習うことだ。期待しているぞ」
「はい、ありがとうございます…っ」
何度も頭を下げる。
「もうよい。ほら、茶でも飲め。今日のところはまだ客人だ、遠慮はするな。メリルの茶は格別だぞ」
そう言って、いつの間にか茶の用意に取り掛かっているメリルを見やった。
「それは光栄でございます。しかし坊っちゃま、シンシアに何を仰られたのです?この子は素直なのですから、あまり揶揄われては困りますよ」
言いながらも、その手は流れるような仕草で茶の用意をしている。
「坊っちゃまと申すなというに」
「まあ、これは失礼いたしました。私にとっては今も昔も偉大なるカイル坊っちゃまですので思わず、ほほほ」
ひとしきり笑うと、美しい仕草で茶をカイルに差し出した。
「まったく、そちにはかなわんな」
微笑むメリルと、苦笑しつつ茶を手に取るカイルを交互に見て呆気にとられる。
「さあシンシアも、どうぞ」
おもむろに差し出された紅茶に茫然としながらも礼を言って口をつける。
(あ……)
ミルクが入れられていた。まろやかで優しく、ホッとする味わいだ。カイルのものはストレートだったので思わず見あげると、柔らかな笑みを浮かべたメリルがひとつ頷いた。
ダークシャーの一員となることを歓迎してもらえたように思えて、心まで温かくなる。
カイルが彼女を信頼するのも納得がいく。
こうしたさりげない気配りに一流とはなんたるかを思い知る。
(ここで頑張らなくては)
メリルに感謝し、改めて心に誓う。
カイルの言ったことは正しいのだろう。
シンシアは自分も早くこのような茶をいれてみたくなった。いやそれだけではなく、気配りや優しさをこそもちたいと思う。
そして。
目の前で満足そうに茶を飲むカイルを窺う。
(この方に…)
ーー認められたい
それはごくすんなりとシンシアの心に生まれた想いだった。
認められるというのは少々烏滸がましく感じられたがそれでも、先ほどカイルがかけてくれた「期待している」という言葉に報いたいと思う。
(カイル様が主で良かった…)
この邂逅に感謝する。
ダークシャーは確かに名門なのだろう。しかし主君が悪ければいかに名家といえどもたちどころに没落の憂き目にあう。そんな話はそこら中に転がっている。
カイルのような主君がいるからこそ数多の優秀な人間が集い、ダークシャーを名門たらしめているのだ。
世の中には使用人を奴隷のように扱う主君もいるときく。
さすがにそれは行き過ぎた話だとしても、この王国において身分は絶対的なものであり、貴族がシンシアのような平民を下等に扱ってもなんの咎めもないのが普通なのである。
カイルやメリルと話しているとうっかりそんな常識を忘れそうになるが、冷静に考えればこうして話をすることすら奇跡的なことなのだ。
シンシアは尊いこの時間をひとり噛み締めたのだった。