3: Meryl Turner
「いらっしゃい、よく来てくれたわね。私がメリル=ターナーよ」
優しげな、でもどこか凛とした人。おぼろげだった記憶の中のその人がくっきりとした輪郭で現れたとき、思わず郷愁がこみ上げてシンシアは自分のことながら驚いた。
「あなたが小さい頃に会ったことがあるのだけれど、覚えているかしら?あんなに可愛らしかったお嬢さんが、こんなにも綺麗になって」
「ええ…覚えています、メリル様。この度は色々とお心遣いありがとうございました」
深々と礼をする。
「まあ!そんな硬い挨拶はいいのよ。私のことはメリルと呼んでね。ほら濡れてしまうわ、これで拭いて」
礼を言いつつ差し出された布巾で軽く服を拭う。
朝早くに家を発ってから相当な時間が過ぎたのだろう。屋敷についた頃には昼もとっくに過ぎ、雨は本降りとなっていた。
「さあ、暖炉の近くに座って。疲れたでしょう?暖まったらあなたのお部屋に案内するわ。今日はカイル様はこちらにはいらっしゃらないはずだから、ゆっくりできるのよ」
そういってパチンとウインクをよこす。見た感じは品のいい老婦人だが、お茶目なところもあるようだ。
「あの、このお屋敷は…?」
なんとなく察しはつくが、ここはどうやら本邸ではなさそうだ。噂できいたダークシャーの本邸は王都ロスアニアにあったはず。馬車に揺られながら迂闊にも眠りほうけてしまい道中を辿れなかったが、辺り一面には田園があるばかりだ。
もっとも、貴族の屋敷は郊外ほど広く美しくなるという。
この屋敷も例に漏れず、十分に立派な建物ではあるのだが。
「あら、ごめんなさい。説明が遅れてしまったわね。ここはダークシャーの私邸の一つ、ラッセルズ。カイル様の生家であって、お気に入りの場所なのよ」
なるほど、ここは私邸の"一つ"であったのだ。他に幾つあるのかわからないが、さすがダークシャー公爵家である。
血筋は勿論の事、西域の豊かな荘園をいくつも抱えていることで財政に至っても盤石な貴族であるということは領民でなくとも広く知られた常識だが、こうして目の当たりにすると改めてその力を思い知る。
「シンシアと呼ばせてもらうわね。あなたには今日からこのラッセルズでお勤めをしていただくわ。カイル様は普段本邸にいらっしゃるのだけれど、週末はこちらで休まれることが多いから、忙しいのはその時ぐらいね。ああ、大丈夫よ。慣れてきたらちゃんとこなせるようになるわ」
ほほほとメリルは朗らかに笑う。
そうだったのだ。
今さらではあるが、ダークシャーほどの大貴族ならば、奉公先は本邸ではなく私邸の女中ということも十分にあり得たのである。
(私ったら…)
てっきり本邸を想像していたが、シンシアのような平民に本邸の女中が務まるとは到底思えない。一気に気が抜ける。
(でもよかった…というべきかしら)
少なくとも大都会の喧騒には巻き込まれずにすむ。
普通の娘ならば華やかな都会の本邸とは違うこの私邸をみて肩を落とすのかもしれないが、シンシアは逆にホッとした。
ここの空気は馴染む。のどかな田園風景も見慣れたものだ。
それでも、手入れが行き届いた様子の庭や屋敷の周りの森に至るまで整然として、まるで絵画のように美しいが。
「あの、こちらには他にどなたがいらっしゃるのですか?」
「それは、おいおい紹介していくわ。まずはそうね、もうすぐ帰ってくるのが執事長のクラークよ。私の主人でもあるの」
そういって微笑むメリルからは終始穏やかな空気が漂い、シンシアはすっかりこの老婦人を気に入ってしまった。
「本邸には、それはもうたくさんの人が控えているけれど、こちらは控えめかしら。少数精鋭といったところよ。まあそれでも100人近くいるわね。もっと雇ってもいいのでしょうけど、カイル様がそうなさらないの。でもそのかわり先代からお仕えしてきた信頼できる人達ばかりだから安心してね」
生家だけあって、ダークシャー公の幼少期から知っている者が多いのかもしれない。おそらくこのメリルもそうであるのだろう。普通なら閣下と呼ぶだろうに、名前で呼んでいるところからして、かなり近しいように思える。
「あの、そんな大切なところに私のような者が伺ってもよろしいのでしょうか…?」
気になっていたことを口にする。どうもこのご婦人は胸襟を開かせるのに長けている。
「まあ、そんなこと気にしなくてもいいのよ。先日訳あって女中の一人に暇を出してしまったから困っていたの。あなたのような若い方に来てもらえると助かるわ。でも誰でもいいわけではなくて、あのミネルバのお嬢さんだから私もカイル様に掛け合ったのよ?」
「そうでしたか。母に感謝しなくてはいけませんね」
「そうね。私達それは仲良しで、よく遊びにでかけたものなのよ。話せば長くなるからそれはいつかまた、ね。あら?馬車がついたようね。クラークが帰ってきたんだわ、ちょっと待っていてね」
そう言ってメリルはドアの向こうに消えた。
程なくして廊下の方で扉を開ける音がしたと同時に屋敷内が賑やかになった。何か慌ただしく話す声と、コツコツという足音が近づいてくる。
執事のクラークだろうか。
やがてしっかりとしたノックの音がした。
「失礼」
ドアが開くと同時にシンシアも思わず立ち上がる。
顔をのぞかせたのは、しなやかに引き締まった体格の持ち主だった。
(クラーク様では…ない?)
怜悧な眼差しが、ひたとシンシアを捕らえる。
「……そなたがシンシア=オルコットか」
「は、はい」
ただならぬ緊張感に、思わず後ずさりそうになる。
「カイル様、外套を…」
後ろからメリルの声が聞こえ、ハッとする。
(この方が)
カイル=アーヴァイン=ダークシャー。
現公爵、その人であった。