17: You can count on me.
「昨夜のことなら気にせずともよい」
シンシアは朝一番にカイルの執務室を訪ねていた。
朝食の前から既に分厚く積まれた書類に取り掛かっていたカイルは、シンシアが詫びるなり手元にペンを置くと、キッパリと告げた。
「そなたはよくやった」
「い、いえ…っ!私は、何も…何一つできておりません……」
まともに話をするのは、ダークシャに来た時以来だ。
シンシアは色んな緊張で固くなりながらも声を振り絞るが、結局、尻すぼみになってしまう。
「そう卑下するものではない。そなたは魔力詰まりを起こして倒れる寸前だったのだぞ」
(魔力詰まり……)
初めて耳にする言葉だが、文字通りの疾患であろうことは想像に難くない。
「魔力が出口を失い、体内に詰まる一過性の病だ。その状態で術式を繰り出し続けたら十中八九、失神する」
そういえばあの時ひどい頭痛に見舞われていたが、あれが症状だったのだろうか。寒さのせいだと思っていたが。
(それで、とめてくださったのね…)
シンシアは無意識のうちに、あのときカイルに握られた手をなぞった。カイルの視線がその動きを辿る。
「応急だった」
「え……」
「あれ以上続けさせたら危ない。止めるには魔力孔を通す必要があった」
(魔力孔……?)
穴のようなものだろうか。
思わず手の平を眺めたシンシアに、カイルはくすりと微笑んだ。
「見た目にはわからぬ。感覚的なものだからな。あのとき、魔力が私の手から通ったのがわかったなら、それが証だ」
ーーそれならば、痛いほど感じた
今朝しまいこんだ感覚が蘇り、顔に熱が集まる。
「……痛くはなかったか?」
窺うようにみつめられて、空気が濃くなっていくのを感じる。
「痛くは…なかったです」
「そうか。衝撃はあっただろうが、よく耐えたな」
労われて、思わず首を振る。
「いいえ…!助けて頂いて…ありがとうございました」
カイルと視線が合った瞬間、まるで包み込まれるような感覚を覚えて、束の間何も考えられず互いに見つめあう。
先に視線を逸らせたのはカイルだった。
それまでの空気を変えるように一つ手を叩く。
「だが、そなたには一つ言わねばならぬことがある」
今しがた垣間見た感情は既に消えており、いつもの鋭い目がシンシアを捉えた。自然とシンシアも背筋が伸びる。
「はい」
「オルコット。そなた、今後あのような無理はするでないぞ。根気や忍耐は長所だが、体を壊しては元も子もなかろう」
「申し訳ありません」
「謝らずとも良い。そなたを責めるつもりはないのだ。ただ、そなたを気に掛ける者がいるということに気づいてほしい」
それは思わぬ言葉で、シンシアの胸を突いた。
「そなたに何かあっては故郷の両親が悲しむだろう。メリルやクラークも同じ想いだ。もちろん私も当主として、そなたらを誰一人欠けることなく守りたい」
「カイル様……」
「そなたは一人ではないのだ」
「はい…!」
「わかってくれればよい。それで、体調はもうよいのか?」
「はい、おかげさまで……」
「そうか。ならば、もう始めてもよいな」
「……?」
カイルは顎に指をおいて少し考える仕草をとった。
(何か、なさるおつもりなのかしら…)
「ネイサンが既に発ったことは聞き及んでおろう」
「はい」
ここに来る前にクラークからは昨夜の事の顛末とネイサンが今夜を待たずに発ったこと、シンシアへの詫びを言付かったことを聞いていた。
「では、書庫番の指導を私が請け負ったことはきいているか?」
「え」
それはきいていない。まさかそんな大事なことを言い忘れるなんてクラークにしては有り得ないミスではないか。
いや、もしかすると新手の悪戯だろうか。クラークがよく見せる惚けた顔が脳裏にチラつき、あながち間違いではなさそうに思えた。
絶句するシンシアを余所にカイルは笑った。
「その様子では、聞いておらんのだな。クラークめ、意趣返しのつもりか」
「意趣…」
「クラークは私に任せるのを渋っていたのだ。主人にさせるわけにはいかぬの一点張りでな」
それはそうだろう。
クラークでなくても家臣ならそう言うはずだ。
「それを私が押し切ったので仕返しでもしたつもりだろう。まあ、仕返しと言うほどのものでもないが…まったく、あの爺め」
くつくつと笑うカイルを前にして、シンシアは依然固まっていた。
ーー押し切った?
もはやクラークどころの話ではない。
「カイル様」
「ん?なんだ」
「押し切……あっ、いえ、その……請け負ったというのは、どういうことでしょうか」
「そのままの意味だ。私が、そなたに魔術を教える。なに、書庫の灯程度そう難しくはない」
いや、十分難しい。
現に昨晩、失神寸前までやっても出来なかったではないか。
「解せぬ顔だな……もしや氷灯を教えると思っているのか」
「氷灯……」
「ネイサンが教えようとした、あの青白い炎のことだ。あれは氷灯といって初心者には難しい。そなたには基本となる炎灯を教えるつもりだから安心するがよい。もっとも…そなたが学びたければ氷灯も教えてもよいが」
「い、いえ、そんな難しいものまでは……って、違います!あの!エインズワース様の引き継ぎはクラーク様ではなかったのでしょうか」
まだ言い募るシンシアにカイルは飄々と返した。
「うん?言っていなかったか。確かに引き継ぎはそうだが、クラークには魔力がないので点灯に関しては引き継げぬ。本邸ならば魔力を使える者は多いが、こちらに寄越すとなると少々ややこしい。だが私なら今の時期は時間があるゆえ丁度良い。だから引き受けた」
(引き受けた、って……)
そんなあっさり言われても。
「こ、困ります」
「何故」
「なぜって……はっ!?た、大変失礼致しました、ご無礼を…!」
「よい」
カイルは慌てふためくシンシアを面白そうに眺めながら続けた。
「私では不足か?これでも、魔術院を出た者ゆえ多少なりとも役に立つとは思うのだがな」
多少どころの話ではない。
ここアルトラスカ王国の魔術院は、国内はもとより他国の王族や上位貴族の子女までもがこぞって留学に来たがるような名門中の名門である。その伝統は古く、歴史上の数多の賢者や大魔導師を輩出している。
昨晩のカイルの技は圧巻だったが、さもありなん。
だからこそ、益々畏れ多いというのだ。
「いえ!そんな滅相もございません。ですが…本当によろしいのでしょうか」
「そなたもおかしなことをきく。私がよいと言っているのだから気にするな」
「そうですか…それは恐悦至極にございます」
恐縮至極ともいうが。
こうなったらやるしかないのだろう。
混乱する頭で、なんとかそう結論づける。
もはやシンシアにこれ以上否やを唱える術はなかった。
「堅い…まるで口調がクラークだな。もっと肩の力を抜いてみろ。魔術の心得とは自然に還ることとされているのだぞ」
「自然に還る、ですか」
それまで緊張やら混乱をしていたシンシアだったが、本来の好奇心がむくりと起き上がる。
その目に光が差したのを捉えたカイルは目を細めた。
「そうだ。魔術は自然に存在するあらゆるエネルギーを知覚し、調和させることで力を発現させるのだ」
「知覚……」
「ネイサンから術式を習ったかも知れぬが、それはあくまでも型であって、それ以前にイメージが必要なのだ」
「イメージ」
「そう。イメージと知覚は表裏一体なのだ。まあ詳しいことは、おいおいな」
「はい…しっかりお勤めいたします」
「うむ。術を使えるようになるのは悪い話ではないはずだ。私に任せておけ」
カイルにそう言われると、できるような気がしてくるから不思議だ。この人には敵わないなと、思ってしまう。
「早速、明日から始めるが、そなたにも仕事があろう。手の空く午後か夜半に行うとクラークには言ってある」
「承知いたしました…よろしくお願いいたします」
ようやくそれだけ告げて、カイルの執務室を後にする。
扉を閉めると、しばらく呆然と宙を見つめた。
(やるしかないのよね……)
本当に、出来るのだろうか。
不安はいくらでも込み上げてくる。
だが。
ーー私に任せておけ
力強く言い切ったカイルの言葉を信じたいとも思う。
(もし出来たら……)
新しい自分になれる。
それは不安を超えて、素敵な予感に満ちたものだった。