15: It's about time.
その頃、書庫ではーーーー
シンシアとネイサンが、今なお対峙していた。
いくつか灯された青白い炎が、二人から血色を奪っている。
「………」
シンシアの吐く息は白く、か細い。
身体を摩って寒さを凌ぐが、先程から頭痛も酷くなってきている。随分前にネイサンが温かい飲み物を持ってきてくれたが、それには軽く口をつけた程度で僅かな時間すら惜しむように練習は再開されたのだ。
だがそれからめぼしい成果どころか、何ら進展はなく…もはや万策尽きて二人とも口を開く気力すら残っていなかった。
無理なのではないかーーそんな思いが頭をよぎらなかったわけではないだろう。
しかし二人とも真面目な性格が裏目に出たか、諦めるという選択肢がないわけではないとわかっていても、そこに至ろうとしない。明らかに事態は泥沼化の様相を呈していたが、消耗戦を繰り広げるかのごとく、地獄のような時間が続いていた。
ネイサンが再開しようと重い口を開きかけたそのとき、書庫の扉が力強くノックされ、扉が開いた。
「入るぞ」
廊下の光とともに足を踏み入れたのはカイルだった。
「……っ、カイル様?!」
振り向いたネイサンは、すぐさま敬礼をとった。シンシアも慌ててお辞儀をしようとスカートを軽くつまむ。
「よい。気にするな」
カイルはそういって近寄ると、二人の酷い顔色を一瞥し、寒々しい書庫を見渡した。
「冷えるな…点けるぞ」
そう告げるなり右手を頭上に掲げ、ゆっくりと目の前まで下ろしていく。
すると指先から鮮やかな緋色の炎が現れ、螺旋を描きながらカイルの手に巻きつき始めた。
やがて右腕全体が炎に巻かれると、拳を握り込んで胸に一度引きつけ、流れるような仕草でその腕を書庫の空間全体に向けて大きく薙ぎ払った。
その瞬間、カイルの腕の炎が無数にひしめく大小のランプに一斉に飛び移り、傍の暖炉にも勢いよく火が立ち上った。
まるで書庫が生きていて、主の来訪を待ち望んでいたかのように輝きを放つ。
「!?」
シンシアは、へたり込んだ。
素人目にもわかるほど尋常ではない魔力だが、それが難なく使われたことに言葉を失う。
ネイサンの方を見ると、彼はシンシアが感じる以上にその威力が伝わっているようで、畏怖の念に打たれたように片膝をついて首を垂れていた。
(これが公爵様の……魔力)
書庫は一瞬で暖かな空間へと姿を変えた。
(あ……)
見上げたシンシアの目に、炎に照らし出された瑠璃天井が飛び込んできた。クラークが言っていたのはまさにこの光景なのだろう。
塗りこめられた瑠璃と、それを照らす緋色の炎のコントラストが夜の帳を思わせ、散りばめるように嵌め込まれた大小の宝石が燦然と輝いて幾千の星さながらに降り注いでくるようだ。
ひたすらに美しく、息を飲む。
だが、それ以上にシンシアの目を奪ったのは、そんな瑠璃天井を背景に佇むカイルだった。
その腕から炎は消え失せていたが、放った魔力の余波のせいか、後ろで括られたカイルの豪奢な金髪がゆるやかに靡いている。それはまるで、この世ならざる者が天上から舞い降りた姿を捉えた一枚の絵のようだった。
シンシアが圧倒されて立ち上がれずにいると、それに気づいたカイルが目の前までやってきて手を差し出した。
「驚かせたな」
「す、すみません……」
呆然と手を取ると思いのほか力強く握り返されて、ドキリとする。
その男らしい手つきに、そういえばこの人は武人でもあったのだと思い出す。
そのまま腕を引かれて立ち上がるが。
(……え)
手は繋がれたままで離される気配がない。
振りほどくわけにもいかず戸惑っていると、じわりと仄かな熱が伝わってきて、居た堪れなくなってくる。
こちらの様子を窺うカイルの視線を感じるが、到底そちらを向く余裕などなかった。
「あっ……」
なおもまごついているうちに指先が絡み、解けぬように繋ぎなおされてしまう。
「荒療治だが……許せよ」
告げられた言葉の意味を考える間もなく、突如カイルの掌から熱く強いエネルギーが流れ込む。
(うそ……っ)
衝撃をまともに受けて腕がビリビリと痺れる。
目を閉じて堪えていると、やがて熱い奔流は腕から肩、全身へとすぐに行き渡り、凍えきっていた体がジン、と温まっていく。
(あ、だめ……)
頭がぼうっとなって、徐々に視界が小さくなる。
シンシアは遠のく意識に抗えず、程なくして糸が切れたように倒れこんだ。
カイルはまるでそうなることがわかっていたかのように自然な動きで、崩れ落ちるシンシアの体を抱き止めると暖炉の前のソファに横たえた。
ネイサンは呆けたようにそれを見ていたが、ハッと気づくと部屋を出て、すぐに毛布を手に戻ってきた。
それを受け取ったカイルはシンシアに掛けてやると傍に片膝をつき、その額に手を当てる。するとその手から光が溢れ出し、シンシアの額に吸い込まれていく。
カイルはしばらくそうしていたが、やがてシンシアに血色が戻り始めたのを認めると立ち上がり、ネイサンに向き直った。
「この娘は魔力を持っていたようだが発し方を知らなかったのだろうな。魔力詰まりを起こしていたぞ」
「魔力詰まり、でございますか」
「ああ、知らぬか?魔術を覚えたばかりの者によくあるのだ。魔力の発し方がわからぬまま無理に術を使おうとするので魔力が出口を失って滞ってしまう。症状は頭痛や眩暈として現れるが、酷くなると失神することもある。あのまま続けていたら、おそらくそうなっていたであろうな」
「そんな……」
「初期症状はあっただろうが、本人はそうと知らず堪えていたのだろう。応急で魔力を通して巡らせた。心配せずとも朝には元に戻る」
「そうですか……」
ネイサンはホッとしたように息を吐く。
「ネイサン、私が何を言おうとしているかわかるか」
「……お咎めは覚悟しております」
ネイサンはひっそりと言ったが、言葉どおり腹は括っているようだった。
「殊勝なことだ。ならば聞こう。何に対して咎めがあると思う」
「はい、それは…このような夜半まで引継ぎを続けてオルコットを疲弊させ、その、魔力詰まりなるものまで引き起こしてしまいました。一歩間違えば彼女の命まで危うくさせたかもしれません」
「そうだな。他には?」
「はい。そのように無理をさせたことに気づかず…己がエゴで氷灯にこだわりました。結局、肝心の点灯も引継げず…こうしてカイル様にご迷惑をおかけすることになってしまいました」
「なるほど。以上か?」
「はい…」
「では、私はどのようにそなたを罰したらよいと思う?」
「それは……わかりません」
「そうだな。私もわからん。何故ならそなたはもう十分呵責を感じておろう。状況もよく把握している。そんな人間をこれ以上、咎めてなんとする」
ネイサンは思わずカイルの方を見た。
「ネイサン、そなたの見立ては大凡間違っておらぬ。呵責を感じるならその分オルコットによくしてやれ。だが一つ誤りがあるぞ。私は迷惑などかけられておらぬ。そなたは一度でも役目を放棄しようとしたか?」
「いいえ!そのようなことは決して」
「そうであろう。そなたは自らの役目を全うせんとしたまで。そんな忠臣を誰が咎めるというのだ」
「カイル様……」
「クラークもそなたを見込んで任せていたのだろう。書庫には入ってくれるなと止められたぞ」
「クラーク様が……」
「ああ。私は良き臣下に恵まれたものだ。そなたは役目を全うせんと身を粉にするし、この娘も辛かっただろうがよく耐えた。クラークも部下を庇った。皆の想いが迷惑などとは微塵も思わぬ」
「畏れ多いことでございます…」
「だが苦言ならあるぞ。ネイサン、物には限度があろう。私はダークシャーの大事な一員を失うわけにはいかぬのだ、誰一人としてな」
「申し訳ございません」
「オルコットだけではないぞ。ネイサン、そなたもだ。気づいておらぬだろうが酷い顔色をしている。あれほどの光量を放ったのだ、魔力の消耗も激しかろう。自らの身を顧みぬその士気は買うが…実際に身を壊されては困るのだ」
「は……っ」
「その身は二つとしてないことを肝に銘じよ。決して粗末にするな。事を成し遂げたければ、部下も自分も無理をせぬよう計らわねばならぬ…まあ私はそなたのことを言えた義理ではないがな」
「いえ…そんなことは!」
「いや、そうだ。そなたの兄が倒れる有事に、皆に任せきりにしていた私に元より責があろう。すまぬな、無理をさせた。だが智略に長けたそなたなら今後はうまく計らえるはずだ。私も気をつけるゆえ、そなたもそうしてくれぬか」
「はっ」
頭を下げるネイサンの肩にカイルは手を置いた。
「ダークシャーは、そなたら臣下がいてこそ成り立つ。私はそれを守りたい。しかし情けないが此度のように行き届かぬ事もあるゆえ、各人が自らを大切にしてほしいのだ。ここに仕えるものは忠義に熱く、時に捨て身の気配すらあるからな…己を第一に考えてくれ。だが同じように仲間も大事にしてほしい。誰も、そなた自身ですらも、その身を傷つけることがないようにな。ネイサン、頼めるか」
「…っ……畏まりました」
ネイサンは感じ入ったように深々と礼をした。
「頼んだぞ。いかん、長々と語ってしまった」
カイルは、よし、と軽く手を打った。
「今日はもう休め。引継ぎの件は私がやっておく」
ネイサンはガバリと顔を上げた。
「お待ちください!それは」
「なんだ」
「カイル様にそのようなことをお任せするわけには参りません」
カイルは眉を上げた。困り果てているようではあっても、それに関しては譲れませんといわんばかりだ。
(あの師匠にしてこの弟子ありだな…)
書庫に入る前のクラークもネイサンと同じ顔をしていたような気がする。
主人想いなのか、責任感が強すぎるのか…いや彼らの場合、そのいずれもだろう。
(しかし、そこまで止めるほどのものか?)
書庫の引継ぎなど、唯一難度があるのは灯の点灯ぐらいのものだがカイルにすれば朝飯前のことである。シンシアに教えるのも大した手間ではない。先ほど彼女からは氷灯に耐えうる魔力も感じ取ったし、発し方さえ教えれば問題ないだろう。それぐらいはネイサンもわかっているはずだ。
それでも止めるのは彼等に染み付いた忠義か、はたまた職人気質か。
(さて、どうしたものかな)
主人の命令だと強権を突きつければ彼も従わざるをえない。しかしそれは本意ではない。
じっと沙汰を待つネイサンを前に、カイルはおもむろに口を開いた。
「時にネイサン、潮時という言葉の意味を知っているか」
「……引き際、という事でしょうか」
最後通牒を突きつけられたとでもいうようにネイサンは項垂れた。
(珍しいな)
相当疲れているのか、ネイサンはいつになく内面を露呈している。いつもの彼なら感情を露わにすることなど滅多になく、ましてやカイルの前では殊更振る舞いに気をつけていたはずだ。
悄然としたネイサンを励ますようにカイルは告げた。
「ネイサン、半分当たりだ。確かにその意味でも使われるが、潮時には好機という意味もあるのだ」
「好機……」
「そうだ。漁師は潮を見て、漁に出るのに最も適した時を判断する。それが転じて、物事にちょうどよい時という意味でも使われるのだが…私の言わんとすることがわかるか」
「引き際ではなく、好機だと仰るのですか!?」
今度は詰め寄る勢いでネイサンは尋ねた。
自らの不始末を好機と言われ、納得がいかないとでもいうような顔だ。
「まあ、待て」
情緒不安定になっている。
疲れきって平静ではいられないのだろう。
(そろそろ限界だろうな)
カイルは宥めるように答えた。
「ネイサン、落ち着け。此度の一件はそなたにとって不承の引き際かもしれぬが、私はそのように考えてはおらぬ」
「どういうことでしょうか」
「そもそも漁師が潮時を見るのは何のためだ?魚を獲るためだろう。私はその魚が肝心だと言いたいのだ」
「魚……」
ネイサンは毒気を抜かれたように呟いた。
「そうだ。だがそれはものの例えであって、ここで言う魚とは"目的"のことだ。私の目的はそなたらを含めダークシャーを守ること。それゆえ今が潮時と判断したまでだ。だからそなたを休ませようとしている。では、そなたにとっての目的はなんだ?」
「私にとって……」
「そなたが引継ぎを私に譲らぬのは目的があってのことか?ダークシャーの書庫番であっても氷灯を灯さんとした、その根底にある想いはなんだ。よく考えてみよ」
「私……私は、エインズワースを守らねば……兄の名代を勤めねばなりません」
「そうだ。卿の代わりはそなた以外におらぬ。エインズワースを守りたいというその意志こそがそなたの目的であろう。それに忠実になれ。ダークシャーは意志ある者が集う場なのだ。応援する。だがネイサン、目的と手段を取り違えるでないぞ。兄を支えるのは大事だが、そなた自身も守れよ。身体は労われ、よいな」
「カイル、様……」
とうとうネイサンの目から涙が溢れ出す。
「ネイサン、しっかりしろ。今こそ潮時なのだ。ここは私に任せるがよい。そうだな、それがどうしても解せぬなら、クラークに任せろ。既に承知しているぞ」
「は……っ、は、い……うっ、ううっ」
ネイサンは咽び泣いた。
カイルはネイサンの背中を軽く叩いた。
「悲観している暇はないぞ。そなたが今、優先すべきは自らの心身を整えることだ。そして兄を支え、エインズワースを守り抜け、よいな」
ネイサンは、何度も頷いた。
雪はいつしか降りやんで、夜は静かに更けていく。