13: Nathan Ainsworth
誰しも悩みの一つや二つ持っていてもおかしくはない。それが表にでるかどうかは別として。
ダークシャーの副執事長であるネイサン=エインズワースは理知的で、一見悩みなどないように思われる人間だ。
だから今、彼が実は内心の焦りを隠すのに精一杯だと知ったなら誰もが驚くだろう。
ーー早く、一刻も早く帰らねばならない
一昨日、生家であるエインズワース子爵家で、現当主の兄が突然倒れた。
すぐさま駆けつけたネイサンに医者が告げたのは「一命は取り留めたものの重い病を患っている」ということだった。
愕然とするネイサンに追い討ちをかけるかのごとく医者は難しい顔で続けた。
ーー治るかどうかは本人の体力次第で数ヶ月、いやもしかすると数年かかるかもしれない、と。
それは即ち兄が復帰するまでの間、自分が当主代理を務めなければならないことを意味していた。
(何故、こんなことに)
兄は至って健康体だったはずだ。もっとも、半年前に妻を病で亡くして憔悴していたのは確かだ。兄夫婦には子がいなかったが、夫婦仲はすこぶる良かった。それゆえに妻を亡くした後は悲しみを感じる暇もないほど仕事に根をつめる姿が痛ましかった。
それでも気遣う周囲には大丈夫だと言ってきかなかったし、異常なほどの仕事量ではあったが、こなしていたはずだ。
兄は馬鹿ではない。もし異変があったなら、もっと早く自分に相談があってしかるべきだーーー
しかし、事は起こってしまったのだ。
土気色の顔で昏々と眠り続ける兄を眺めながら、ネイサンは取り止めもない考えに終止符を打つべく、自分はもはやラッセルズに戻れる保証はないという最悪の事態を想定して腹を括った。
そして一睡もせぬまま翌朝にはクラークの元へと戻り、全てを伝えて暇を乞うた。次期執事長とまで目された有能な彼だからこそ決断は早く、私欲を断ち切ることに躊躇いはなかった。
だが、クラークは首を縦には振らなかった。
ネイサンを待つ、万が一戻って来られなくなってしまったなら、そのときに後任を指名すれば良いと告げたのだ。
本来なら支障がでないよう空席を作らぬのが慣行とされるなかで、その回答にネイサンは深く頭を下げた。
それが昨日のことだ。
兄の身体の心配、子爵家の将来、自身の身の振り方……全てにおいて先が見えず、その肩にのしかかる重責と疲労は相当なものだ。いかに冷静沈着なネイサンといえど余裕をなくしてもなんらおかしくはない。
だから、自分が兼務している書庫番の引継ぎを買って出てくれた人物ーーそれが新人のシンシアだと告げられたとき、思わず天を仰いだ彼を誰も責めることはできないだろう。
引継ぎの内容自体はいたってシンプルで取るに越したことはない。問題なのは、書庫番自ら魔術で灯りを管理しなければならないことだった。
というのも、魔術は誰でも使えるものではないからだ。
否、正確に言えばその源となる魔力を持ってさえいれば誰にでも使えるはずなのだが、実際には"皆が等しく使う機会を与えられているわけではない"のである。
このアルトラスカ王国において魔術の歴史は古く、その起源は王族のルーツとも結びついた特別なものとされている。そのため魔術は貴族をはじめとした王国に従事する有識者や上級騎士といった特権階級にのみ引き継がれてきた。すなわちこの国において魔術を使うということは、身分や階級を得ていることと同義なのである。
したがってシンシアのような平民はそれを習う機会もなく、仮に豊富な魔力を有していたとしても"使えない"というのが現実なのだ。つまりネイサンは明晩ここを発つまでという残された僅かな時間で何も知らないシンシアに一から魔術を教えねばならない、ということになる。
だが、それだけではない。ダークシャーの書庫には繊細なシャンデリアが吊るされ、さらに芸術品のようなランプも無数に配置されているが、それらに傷一つつけることなく完璧に灯りを灯さねばならないのだ。
それは魔術の質ばかりか、精神性までも要求される高度な芸当である。たとえ魔術が使える人間であろうとも、粗さが目立つようであればたちまちランプは割れてしまう。
到底、新人にこなせるものではないーーーネイサンが天を仰ぐのも当然のことだった。執事長たるクラークが、まさか素人に託すとは。
何故彼女なのか。
確かに僅かな魔力は感じ取れるが、そもそも平民である彼女に自分が魔術を教えてもいいのかといったことなど諸々疑問は尽きない。だが肝心のクラークはシンシアに引き継ぎするよう言い置くなり外出してしまったので、もはやその意図を知るすべはない。
とにかく、時間がない。
できる保証も何もあったものではないが、やってもらわねばならない。幸いにも既に書庫以外の引継ぎは終えているので、つきっきりになれる。シンシアには酷だが、突貫で覚えてもらうよりほかに手立てはないーーネイサンは追い詰められていた。
「もっと指先に集中して。念を込める」
「は、はい」
果たして二人は暮れなずむ書庫で対峙していた。
「こうだ…よく見て」
ネイサンが親指と中指、薬指の三本で糸を手繰り寄せるように、ゆっくりと空中に複雑な紋様を描く。
その瞬間、ボッと指先に青白い炎が生じた。そのまま書庫のランプをいくつか指し示すと、炎が次々と飛び移っていく。
「熱くはないから恐れなくてもいい。さあ」
頷いてシンシアも腕をあげ、机の上の紋様が描かれた紙を見ながら見様見真似で空中に同じ紋様を描く。
だが、指先からは何の変化もおこらない。
「諦めないで。もう一度」
「はい………」
シンシアはじっと自らの指先を睨んだ。
もう何度試したかわからない。だが、小さな火すらおこすことができない。次第に冷え込む空気に指も悴んでくる。
(まさか魔術を使うことになるなんて……)
自分に魔力があることも初めてきいて驚いているぐらいなのに。
とてもではないができるとは思えないーーー
ラッセルズに来て初めて、弱気が鎌首をもたげる。
ソニア村では魔術を使える者が一人もいなかった。
村に魔術を使えるような貴族や特権階級の者がいなかったからなのだが、それでも村人達は不自由なく暮らしてきた。むしろ彼らの中には魔術などなくても創意工夫で物事を成し遂げることに美意識を覚える者も多かった。シンシアはそんな環境で生まれ育ったのだ。
それに本来、魔術というものは幼少期から言葉を覚えるのと同じようにごく自然と馴染んでいくものであって、大人になってから習った場合は使えるようになるまで相当時間がかかるものだ。それをいきなりこの短時間でやれというのだから無理難題も甚だしい。いくらシンシアが前向きな性格だといっても心が折れそうになるのは無理もないことだった。
それでも、見放すことなく教えようとするネイサンの根気には胸を打つものがあった。
(いいえ、だめよ。踏ん張らなくては。エインズワース様に申し訳ないわ)
見れば彼は口を引き結び、何かに耐えるようにきつく目を閉じていた。だがそれはシンシアに苛立つというより何か別のことに追い立てられているようだった。
彼は今日会った時からずっと張り詰めた空気を漂わせている。
それでも諦めという言葉は思い浮かばないようで、なんとしてもやり遂げてもらうという気迫が痛いほど伝わってきた。
(ここまでしていただけるのだもの……)
これまでネイサンとはあまり話したことはなかった。それでも見かけた時はいつも静かで穏やかな雰囲気を漂わせていたはずだ。
確か書庫番である彼は長期の休みを取るとクラークが言っていたように思うが、この彼をこんな風に鬼気迫らせるなど、よほどのことがあったに違いない。
ふと目を開けたネイサンとまともに目が合い、僅かに彼が目を見開いた。その瞳には影がよぎり、目の下の濃い隈が彼の疲労を物語っている。
「あの……」
「……っ、すまない、少し休もう。冷えてきたから、暖かい飲み物でも持ってくる。君はそこで休んでいてくれ」
シンシアに急いでそう告げると、ネイサンはバツが悪そうな顔で足早に書庫から出て行った。
人の気配がなくなると急に寒気が意識され、ブルリと震える。
外を見るといつの間にか陽は落ち、見上げた瑠璃天井も先程ネイサンが灯したいくつかの青白い灯りに照らされて今はどこか寒々しい光を帯びて見える。
(青い灯りも美しいけれど…この天井には緋色の炎の方があうかも……って、私が言えることではないわね)
小さな火すら出せない自分が何を言えるというのか。
だが、暖かな色に煌めく炎に照らされた瑠璃天井はきっと美しいのだろうと思えた。
ふと視界の端を何かがよぎる。
(あれは……雪?)
窓に近づくと、粉雪が舞うのがみえた。
(寒いはずね……でも綺麗だわ……)
シンシアは束の間ぼうっと外を眺めた。
今このひとときだけは焦りや心配から解き放たれたかった。