12: Ceiling painted with lapis lazuli
書庫の前。
重厚な扉は人の背丈の何倍もあろうかというほどの高さで、固く閉ざされている。
シンシアはクラークが鍵を差し込むのを、はやる気持ちで見つめていた。
(ここに入れるなんて…)
ラッセルズにきてから単独で踏み入ることを許されていない部屋はいくつかあるが、その一つがこの書庫であった。
平時は施錠されており、掃除ですら執事長のクラークやその直下にいる限られた者だけが担っていたことから、重要な書物が所蔵されているであろうことは自ずと知れた。
シンシアは別段それらに興味があったわけではなかったが、教師を目指すきっかけになったのが読書だというぐらいには本が好きなので、この秘められた空間に心惹かれるのは無理もない話だった。
今回、期せずして入らせてもらえるとあってシンシアの胸は、いやが上にも高鳴った。
「では…こちらへ」
クラークに促されて扉の奥へ進むと、そこは吹抜けになっていた。天井までの壁一面がびっしりと書物で埋め尽くされており、古いものから新しいものまで整然と並べられている。
「すごい……!」
シンシアの好奇心は、はちきれんばかりに膨らんだ。ここにある全てを読もうと思ったら何年かかるだろう。片手では足りないかもしれない。
息を呑むシンシアにクラークは微笑んだ。
「シンシア嬢は本がお好きですかな」
「はい、とても」
「それはよろしい。カイル様も本がお好きで昔はよくここに篭っていらしたものです」
「カイル様が?」
「ええ。もっとも最近ではそのような暇はないようですが」
「そうだったのですね。カイル様ではないけれど…私も篭りたくなってしまいそうです」
書物の多さに次いでシンシアを惹きつけたのは、この部屋の装飾だった。
見上げた天井は瑠璃で塗りこめられ、金砂や銀砂が川の流れのように散りばめられていたが、驚くべきことにその表面には色とりどりの宝石が嵌め込まれている。高窓のステンドガラスから差し込んだ光もあいまって、それらが星屑のように煌めき、刻一刻と表情を変える様は溜息がでるほどに美しかった。
部屋の中央には磨き抜かれた美しい木目の机と繊細なガラス細工の読書灯が置かれ、傍らには大きな天球儀が添えられている。どれもみな豪奢な造りながらも色調は統一され、静謐な空間を生み出していた。
「こんなに美しいなんて……」
「ここはラッセルズ随一の美しさで、瑠璃の間と呼ばれております」
毎日通い詰めても飽きないだろう。
感嘆を隠せぬシンシアにクラークは微笑んだ。
「日の光の元でも綺麗ですが、夜の灯りのもとで瑠璃天井が浮かび上がる様は格別なのですよ」
「それはまた…素敵でしょうね」
一度でいいから見てみたい。だが、残念ながらそんな機会はそうそうなさそうだ。未練がましくならないよう気をつけながら、せめてこの光景だけでもと目に焼き付ける。
クラークは魅入られたように天井を眺めるシンシアに、さもありなんと頷いた。
「ラッセルズは奥深い。私もここに長く勤めておりますが、この書庫ひとつとっても未だに新しい発見がある。おお、そうだ。まだ見られていない部屋もあるのでは?興味があるならカイル様に許可を頂けばよろしい。運が良ければ案内して下さるかもしれませんぞ」
クラークが良いことを思い付いた、とでもいうように手を打った。
「えっ!そんな、とんでもございません!ここに来られただけでも十分ありがたいことですので」
突然の申し出に慌てて遠慮する。カイルに案内してもらうなんて畏れ多すぎる。
「おや、そうですかな?もし直接頼むのが憚られるのなら私から申し上げることもできますぞ」
「ええっ」
(話がとんでもない方向に…)
そもそも忙しいカイルを労うための薬膳を用意しようとしているのに、当人に手間を取らせることになったら本末転倒である。
「そんなに遠慮なさらずともよろしいのですぞ。カイル様は先週大きな仕事が一段落したところなので今なら時間もあるでしょうし」
そうなのか。いや違う、そうではなかった。
うっかり絆されそうになるが踏みとどまる。
「あの、お気遣いは大変ありがたいのですが……」
目を白黒させるシンシアにクラークは苦笑しながら安心させるように告げた。
「ああ、そう心配されなくてもよろしい。なにも今日明日の話ではないですからな。また興味が湧いたときに私に仰ってくだされば、いつでもお口添えいたしますぞ」
「は、はい。ありがとうございます」
ひとまず回避できたようで胸を撫で下ろすが、好々爺然としたクラークの意外な推しの強さが垣間見えて冷や汗をかく。
「ところで、シンシア譲。ここをお気に召されたようですが、いかがですかな?」
「え?」
クラークの目がキラリと光ったような気がするのは錯覚だろうか……先ほど瑠璃天井を目に焼き付けすぎたせいかもしれない。
シンシアは目を瞬かせた。
「あの、ええ…それはもう」
正直に答えたが、そもそも、お気に召すもなにも一介の女中に何か物申す余地などあろうはずがない。
何故そんな当たり前のことを聞くのだろうか。
何やら不穏な気配が漂い、変な汗が滲み出る。
「それはよかった。では、私からひとつお願いをしてもよろしいか?」
来た…!
一山超えてまた一山。そんな言葉がよぎる。
だがそれも束の間、「お願い」の一言に思わずシンシアの耳がピクリと反応する。ここにきてようやく本来の役に立ちたい精神がむくりと頭を持ち上げた。
「はい、もちろんです」
今度こそ淀みなく頷いた。クラークもクラークだが、シンシアもシンシアで、どこか通ずるものがありそうな二人である。
色良い返事にクラークもまた満足げに頷く。
「それは結構。実は、この書庫の担当がこのほど長期の休みをとりたいと申しておりましてな。その代わりを探しているのです」
「担当ですか」
「そのとおり、書庫番ですな。主に掃除と書籍の整理整頓、それに少々数はあるもののランプの点灯といった程度なので、それほど重労働ではないはず。とりあえず三月ほど引き受けてはもらえませんかな」
否やはないだろう。
「それでしたらぜひ」
「おお、有難い。では早速、担当のエインズワースに引き継ぎするよう伝えます。そういえば今夜、夜半の明かり点検をしたいとか申しておりましたぞ」
(夜半?)
「………あっ」
思わずクラークを見やると悪戯が成功したような目でこちらをみていた。
そうだ。
よく考えたら手伝いを引き受けるということは、平時は入ることすら許されぬこの空間に、公然と三ヶ月も出入りできるということだ。
しかもどうやら夜半の点検とやらのおかげで、早速今夜にもクラークの言う夜の「格別な景色」までみられるではないか。
「ありがとうございます!クラーク様」
感激して礼を言うシンシアにクラークは惚けた顔で言った。
「はて、なんのことでしょうな。礼を言わねばならないのはこちらの方ですのに。ではよろしく頼みますぞ」
「はい!」
クラークは目を細めた。
「さて、お探しの文献は東方のものでしたな」
「あ、はい。東方の薬膳について書いたものを探しています」
「薬膳?これはまた異なものを…ブロディがそのように?」
「実は……」
いきさつを話すとクラークは破顔した。
「なるほど!これは恐れ入りましたぞ、シンシア嬢。ブロディのやる気を引き出すとは」
「そんな、やる気だなんて」
「いやいや。私らのような年寄りや彼のように一定の地位を得たものは人様から意見を言われることがめっきり減るものですからブロディも新鮮だったことでしょう」
「そうなのですか」
「左様。この屋敷は私も含めてそのような者が多いですからな。この際どんどん刺激してやればよろしい」
「刺激…」
唖然とするシンシアにクラークは「楽しみにしておりますぞ」と告げながら手元の懐中時計を見た。
「おお、もう3時か。さあ、東方の文献でしたな。それなら、あの奥の棚をご覧なさい。それと、この後に残った仕事はありますかな?」
「いえ、今日はひととおり終えました」
「ならば今日は好きなだけここを見ておゆきなされ。ただし遅くとも午後5時には鍵を締めて執事室へご返却願いたい。私は所要あって今から出かけるのでエインズワースを待機させます。引き継ぎのことも伝えておきますからその時に彼からきいてもらえますかな」
「承知いたしました。色々とありがとうございます」
「ああ、そうだ。ブロディに貸す本が見つかったら持ち出して構いませんが、彼が見終えた後は元の棚にご返却願えますかな。棚の端に小さな数字が彫ってあるので記録しておくとよろしいですぞ」
「承知しました」
クラークは「ではこれを」と鍵を手渡し、書庫を出て行った。
「は……」
扉が閉まったあと、シンシアは息をついた。
知らず肩に力が入っていたようだ。
改めてじっくり部屋を見渡すと、独りになったせいか先ほどより広く感じる。
一瞬空気が冷えたような気がしてぶるりと身を震わせるとクラークが示した奥の棚へと向かった。