正しさまでの距離
正しさまでの距離
「ちょっともうまじむかつくんだけど」
ひとつ下の妹、優花がリビングが仕切ってあるスライドドアをバシンと閉めた。背負っていた指定カバンをどかっと床に置くと、冷蔵庫に直行し、牛乳パックをそのままゴクゴクと飲んだ。直接。口をつけて。飲んだ。
「ちょっと、汚い。ちゃんとコップに注いで飲んでよ」
一歳違いの姉の言うことなんか全然きかない妹は、全部飲めば良いんでしょと言って、ごっごっと喉を鳴らす。
「まったくもう……で? なにがあったの?」
勇ましい中二女子の姿を横目で見つつ、私は問い掛けた。
「もうそれがくそってかんじでまじしんじられないんだよっ」
空になった牛乳パックをシンクの中にガコンと放り投げた。いや、投げつけた。
白い飛沫が飛び散って、辺り一面が水玉ならぬ白玉になる。
私は呆れながらシンクへと行き、蛇口から水を出して牛乳パックに水を流し込んで振った。ねえ、あんたいつもこれやるけど、いつもいつも私が洗ってんだけど?
「ちゃんと日本語で喋って」
そう言うと、まじムカつくとか何とかぶつぶつと言いながら、私が今まで座っていたソファへと、おしりから飛び込んだ。
「ねえ、部活ってさあ、皆んなやりたくて参加してるんだよねえ」
「んー、そうだね」
「全員参加が基本のクラブとは全然、違うじゃん」
「ん、」
「だったらさあ、やる気がないヤツは来るなってことだよ‼︎」
優花はいつも正しいことを言う。姉の私が少しでもブレた意見を言うと、これでもかと言うほど正論でぶった切ってくる。
「やる気なしの子がいるの?」
ママから聞いていて知っているけど、喋りたいだろうから訊いてみる。
「そうなんだよ、藍佳って子なんだけど」
「あんたとダブルスの子じゃん」
「そうそう、全然、球打てんし、打ってもホームランなわけ。すぐに足が痛いとかなんとか言って練習もサボるし、とにかく部活ん中でもいっっちばん、へた」
「ふうん」
「下手でもさあ、別に良いんだよ。練習頑張るとか、そういう姿を見せてくれればさ。やる気のある態度が見られるんだったら、私だって……文句言わないんだけどお」
優花の試合は欠かさず応援に行っているママと、同じ口調で同じ内容。
「そだね」
「真奈はさあ、卓球ん時、どうしてたの? みんなとの温度差」
私は、水で洗った牛乳パックの口を潰して、逆さにして立てかけると、タオルで手を拭いて冷蔵庫を見た。冷蔵庫のドアは、たくさんのプリントがマグネットで留めてあって、取っ手を探すのも大変だ。その中に、私に関するプリントは、優花との共通である給食の献立表だけ。
「んー、だってうちの卓球部はさあ……」
たくさんのプリントを避けながら、取っ手を引っ張って開ける。
「基本、ユルかったからさあ。頑張る人は頑張ってたけど、それなりの人はそれなりだった、かな」
引退してからは、卓球部のプリントは皆無になった。引退したのだから当たり前だけれど、このプリントで埋め尽くされた冷蔵庫を見るだけで、ぽっかりと穴が空いたみたいになった。
冷蔵庫の中から、キャンディチーズを出す。袋を傾けて手のひらに乗せると、優花の方へと二、三個放った。
優花はナイスキャッチしながら、まだまだぶーたれている。
「まあ卓球って、個人競技だもんね。うちらテニスはダブルスが基本だし。まあ、サッチンは別枠のシングルスだけどさ」
「あの子、上手だもんね。小学校からテニスやってるんでしょ」
私もキャンディチーズを口に入れる。チーズは歯にくっついて取れなくなるのが嫌で、私はいつも緑茶で流し込む。でも私、ちゃんとコップに出して飲むっての。
「サッチンに比べればさあ、私なんて中学からだし、そりゃ才能だってあんまないから努力ってか、頑張って練習してるんじゃん。だから、藍佳ももうちょっと努力して欲しいっていうか……」
「でも、彼女、学年で十位以内に入ってるでしょ。頭いいって評判だよ」
「……まあ、ね」
「あんたがテニスを頑張ってるくらい、勉強を頑張ってんだよ」
「…………」
歯の裏にくっついたチーズを舌で器用に絡めとると、私はシンクで手を洗った。そのついでに、さきほど優花が飛ばした牛乳の飛沫を、バシャバシャと水をかけて流す。
「でもまあ確かにダブルスってのは足並みが揃わないとダメだもんね。試合にもなかなか勝てないよね……」
「だってあの子、球取れないもん。もう他校の子にも目をつけられてて、集中攻撃されんの」
「そうなんだ。それはツライね」
「でしょー‼︎ もうペア替えて欲しいわ」
もうっもうっ、とクッションにパンチを食らわせている。
そんな妹の姿を見て、やれやれと思うと、私はスマホと財布を上着のポケットに入れると、玄関へと向かった。
「どっか行くのー?」
遠くに聞こえたので、コンビニー、と答える。クロックスを引っ掛けると、私は玄関を出た。
✳︎✳︎✳︎
妹はいつもそうだ。
正論を振りかざす。それに筋が通っているもんだから、私はカチンときても反論できない。
正しいことを言うから、ママもそうだそうだと同調する。優花とママはべったりの仲良し母娘だ。
(パパがいたら、また違ったのかなあ)
パパが居なくなってからの私の疎外感は半端なく、それはいつでも渦のようになって胸の中で息づいている。それは、かさをどんどんと増していって時々持て余すこともあるが、私は私でそれが爆発しないように自力で抑えている、そういうことなのだ。
ポケットからスマホを出して、暇つぶしにLINEする。けれど、この時間は皆、進学塾に通っているから、返信はない。
(ママは私の受験も捨ててるからなあ。塾にでも行ったら? くらい言えばいいのに)
「無関心」の恐ろしさ。時々、身震いがするほどの。捨てられるとか、そういうことじゃない。もう、捨ててしまっている、のだ。
涙が出そうになる。
そんな歌があったっけな、夕暮れの茜色の空を見上げながら、私はコンビニへの道を歩いた。
✳︎✳︎✳︎
コンビニを出る。買ったソフトクリームを舐めながら、私は帰り道をぶらぶらと歩いた。夕日はとっくに沈んでしまい、私ってばコンビニでどんだけ時間を潰したんだよ、ヒマか、と独りツッコミしながら歩いていると、少し先にある進学塾の前に、数人の中学生らしき集団がわいわいと話をしているのが目に入ってきた。
あ、と思った。
優花の話にもあったし、ママの話でも知っている藍佳ちゃんがいる。
この進学塾は、週三回授業があって月謝も高いが、とにかく講師が優秀で、ここに入っていれば自動的に成績もランクアップ、と聞いたことがある。
やっぱり藍佳ちゃんは勉強を頑張っているんだ、そう思うと、家に帰ってから優花にこのことを話したいという衝動に駆られた。
「あ、優花のお姉さん、こんばんはっ」
明るい笑顔で、と言いたいところだが、それを少しだけ曇らせて、藍佳ちゃんは私に声を掛けてきた。緊張が滲み出ていて、意を決した挨拶だということが明白だ。頬が引きつっているようにも見えるのだから、それは間違いない。
(……ああ、優花とあんまうまくいってないんだろうな)
私は、少し苦笑した。
辺りは薄暗いが、塾の中の明かりは煌々とついていて、それが彼女のそんな表情を際立たせていた。
「こんばんは、藍佳ちゃん。塾? 頑張ってるね」
私が言うと、藍佳ちゃんはちらっと塾の看板を見遣ってから、へらっと笑った。
「あー、私、ここじゃないんです……こっちで、教えてもらってて」
隣のビルの、階段を指す。見上げると、二階の窓に明かりがついている。それは看板や有名校◯名合格などのポスターなどがついていない、ただの窓だ。
「え、ここも塾なの?」
呆気に取られて、私がその二階の窓を見ていると、藍佳ちゃんは前髪を直しながら、ええまあ、と言う。
「大学生の人が、ボランティアで教えてくれるんです。タダだから……」
私はその言葉に驚いて、声を上げた。
「えっ‼︎ タダ⁉︎」
その時、二階の窓がガラッと開いて、「藍佳、始めるぞー」と声がした。姿は見えないが、若い男の声だ。
「だ、大丈夫なの、それ?」
私がその男の声で心配になり、小声で藍佳ちゃんに訊いた。
「あ、それは大丈夫です。一応、行政がやってくれてるんで。女の先生もいるし。お金がない家向けに、そういうのやってくれてて。うち、母子なんで」
「うちもそうだよ」
慌てて言ったら、知ってます、と言う。
「優花にはいつも迷惑かけてて、ほんとごめんなさい。でももう、テニス辞めようかなって思ってるから」
「え、」
突然のことで、驚いてしまった。
「ど、どうして、辞めちゃうの?」
すると、藍佳ちゃんは悲しそうな顔をして、重そうなトートバッグをよいしょと肩にかけ直した。
「私、テニス全然ヘタで。それなのにダブルスなんて、優花にもずっと悪いなって思ってて。それに、足が……」
優花の言葉を思い出して、私は訊いた。
「もしかして、ケガしてるの?」
「…………」
「それならそう言わないと。それにケガ、ちゃんと治してからじゃないとダメだよ」
藍佳ちゃんは、苦しそうな顔をしていた。そして、ビルの二階の窓を見上げる。私もつられて見上げると、窓はもう閉まっていた。
「……シューズが、」
今度は、下を見る。自分の足元を、じっと見つめる。
「テニスで使うシューズのサイズが合ってなくて……」
私もまた、つられて彼女の足元を見る。
「ちょっと小さくって……指先が痛いんです」
「えっ、と……」
意味が分からなかった。何を言いたいのかも、分からなかった。
その様子を察したのか、藍佳ちゃんが苦笑しながら、付け加えた。
「ママが若い頃、テニスをやってた時に履いていたもので。私がテニス入ろっかなって言ったら、ママが喜んで押入れから出してきてくれたものだから……断れなくなっちゃって」
「藍佳ちゃん、」
「ママったら、亡くなったパパのラケットも出してきて。古いから、ガットが伸び切っていて……ごめんなさい。こんな状態で始めたから、そりゃいつまで経っても足引っ張るだけですよね」
「…………」
「恥ずかしいんですけど、新しいシューズもラケットも買えないから。優花には今まで迷惑掛けてごめんねって言っておいてください」
ぺこっと頭を下げると、ビルの階段を駆け上がっていった。
私はもう一度、二階を見上げた。窓は閉まっていて、けれどそこで藍佳ちゃんは勉強を頑張っていて。
私の胸はぐるぐると、何かと何かを混ぜたようなマーブル模様となり、途中から食べるのを止めたソフトクリームは、どろどろに溶けていた。
ソフトクリームを。
舐める気にはなれなかった。
帰り道、口の中はずっと甘ったるかった。
✳︎✳︎✳︎
「さっき藍佳ちゃんに会ったよ」
今日はいつもより玉ねぎの皮が剥きにくく悪戦苦闘だったチャーハンを、優花があっという間にぱくぱく食べているのを見て、私は言った。まだ胸にあるマーブル模様は、徐々に苦味のようなものを加えていったようだ。
「ふうん」
関心なさげな表情でチャーハンをパクつきながら、スマホを人差し指で操作しているのを見て、私の胸がざわりと騒いだ。
その指の。手のひらの付け根には、いつも豆ができていて、少しだけ盛り上がって硬くなっているのを知っている。知っているけど。
「もう辞めるって。テニス」
優花は、顔を跳ね上げて、私を見た。その拍子に口からチャーハンの一部が零れ落ちた。
「え、そうなの? 聞いてないんだけど……でもまあ、良かったあ。これでペア替えてもらえるわ」
私は、笑った。
「沙知ちゃんとペアになれば」
「だめだめ、サッチンはうま過ぎて、私とじゃレベルが釣り合わないもん」
今度はカチンときた。きてしまったのだ。
「……でもさあ、あんたと藍佳ちゃんだって、そういうことでしょ」
「え、どーゆーこと?」
私は最後のチャーハンをレンゲで掬い上げると、「レベルが違うだけって……」
「だーかーらあ、レベルどうこうじゃなくて、やる気があるのかないのかってこと。ちょっとでも努力でもしてくれたなら、それで納得できるのにって言ってんの‼︎ 真奈ってば私の話、ちゃんと聞いてた?」
優花は空になったチャーハンの皿に、レンゲを投げた。ガチャンと乾いた音が、さっきまではマーブル模様だった私の胸に響いて鳴った。
「藍佳ちゃんのシューズ、お母さんのだからサイズ合わなくて、足が痛いんだって。あと、ラケットもお父さんのもので古いから、ガットが……」
「そんなこと、知ってるってば‼︎ 藍佳ってば、言い訳みたいに何度も言ってたもん」
「……言い訳しちゃだめなの」
「やる事やってから言ってよって感じ」
優花は立ち上がって、ソファに座った。その拍子に、ソファのカバーがぐちゃりと歪んで、するする、と落ちていく。その様子をスローモーションのように見ていた。
「そんなこと言うんだったら、さっさと新しいの買えばいいんだよ」
ぷつりと何かが切れた。マーブル模様だった胸の中は、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、途端に泥水のように濁っていった。堰き止めていた壁は決壊し、汚れた水が溢れ出すのを、為すすべもなく見ているだけ。
私は立ち上がり、妹に向かって、言葉を投げつけた。
「あんた、いったい何様のつもりなのっっ」
優花の身体がびくっと揺れた。驚きの顔を向けてくる。
「あんたの言うことはいつもいつも正しい。だけど、正しいことを言う人が一番偉いの? そうじゃないでしょ?」
「別に偉ぶってるわけじゃ、」
その時、リビングの仕切りドアがそろりと開いた。
仕事帰りのママが何事かという顔で覗いている。視界に入ったけれど、もう止められなかった。
「やる事やってから言えっていうんだったら、この皿も自分で洗えよっっ」
私はテーブルを手のひらでバシンと叩いた。優花の食べたチャーハン皿と、私の食べたチャーハン皿とが、ガシャンと鳴った。
「毎日、ごはん作ってんのも私っ‼︎ 後片付けしてんのも私っ‼︎ そんでついでに言うと、あんたが座ってるそのソファのカバー、ぐちゃぐちゃにすんのはあんただけど、いっつも直してんのは私︎だからっっ‼」
優花が睨みつけてくる。
分かっている。
これはもう。
シューズもラケットも買ってもらえない藍佳ちゃんを弁護してるんでも何でもない。
同じ母子家庭なのに、藍佳ちゃんはお父さんを病気で失い、うちはママとの離婚で、パパを失った。
同じ母子家庭なのに、藍佳ちゃんは新しいラケットを買ってもらえず、そして私は意外と高価な卓球ラケットを二年半のうちに三回も買い換えた。
何が違ってどこが違うのか、まるで分からなかった。
けれど、藍佳ちゃんのママだって朝早くから働いていて、そしてうちのママだって、こうして夜遅くまで仕事をしている。
藍佳ちゃんも何かを我慢しているし、そして私だって何かを我慢しているんだ。
(ああ、これじゃあ……)
私の「正論」はただの不満に成り下がってしまった。
けれど、止められなかった。
「あんたはいいよね。シューズだってラケットだって買ってもらえて、新しいリュックだって買ってもらってて。そんだけしてもらって練習するのって、普通、当たり前じゃない?」
私は手探りで、次の言葉と、テーブルの上に置いてあるはずのスマホを探した。
「そんであんたは練習で忙しくて、家のこと私に全部押しつけて、そんで藍佳ちゃんのことをうだうだ言う権利、あると思うの?」
指先で探り当てたスマホをぐっと握る。
「あんたが言うことは正しいよ。でも、それが全部、正しいわけじゃないっっっ‼︎」
腹からの声を上げて、私はリビングから出た。ママと肩がぶつかったけれど、構わず靴を履いて、外へと飛び出した。背中で、バタンっと閉まるドア。真奈、とママの声が聞こえた気がしたが、気のせいかもしれない。ママはいつも優花の味方だから。
私はもうすっかり夜となった空を見上げながら、早足でコンビニへ向かう道を歩いた。
月は出ていたが、ぼやっとそこに浮かんでいるだけだった。
✳︎✳︎✳︎
家を飛び出してから、もちろん行くあてもなく、けれど向かっていたのは、あの藍佳ちゃんが教えてもらっているという塾の入っているビルだった。
ビルの前まできて二階を見上げると、やはりまだ電気が点いていて、なんとなくほっとする。少しだけうろうろとしてみたけれど、思い切って二階に続く階段に足を掛けた。そっと足音を立てずに、階段を上っていく。
二階の踊り場で足を止めた。
ガラス張りのドア。中が丸見えだ。あはは、などと笑い声のひとつも聞こえてはこない。覗いてみると、机がコの字型に並べてあり、並んで子どもたちが座る中、藍佳ちゃんもそこに混ざっていた。子どもたちの手元を覗き込むようにして、赤ペンを持った若い男性と女性の姿が見える。
藍佳ちゃんが言っていた大学生の先生なのだろう。
その内の女性が、私が覗いているのに気づき、こちらに歩いてくる。
「勉強しにきたの?」
胸には、「さと」と名札がある。
「あ、いえ」
私がもじもじしていると、さとさんは「誰か、友達待ってるの?」と、訊く。それに促されるように、私は「藍佳ちゃんを、」と言った。
さとさんは、オッケーと言うと、振り返って「藍佳〜」と呼んだ。
すると、机に向かっていた藍佳ちゃんが、顔を上げてこちらを見た。
「あ、あれ、優花のお姉さん」
ハテナ顔を浮かべながら、こちらへと近づいてくる。
何の用事? と訊かれるのが怖く、思わず「私も勉強させてもらってもいい?」と先に口に出した。
藍佳ちゃんは、たぶん大丈夫ですと言って、さとさんに確認してくれる。スマホしか持っていない今の状態を見れば、勉強をしに来たとは到底思えないだろうに、藍佳ちゃんは私の言葉を信じて、手招きをしてくれた。
藍佳ちゃんの隣の席に座ると、藍佳ちゃんが顔を近づけてきて、囁いた。
「もしかして、心配で見にきてくれたんですか?」
まさか妹と喧嘩して家を飛び出してきた、とは言えず、曖昧に顎を打った。
「ありがとうございます」
にこっと笑った顔は、さっき塾の前で会った引きつった顔とは違って見えた。
想像と違って、コの字に座った子どもたちは、みな真剣に机に向かっている。しんとした教室に、カリカリとノートに鉛筆を走らせる音だけが響いた。
時折、二人の先生の勉強を教える声が交互に、もしくは重なって聞こえてくる。
ああ、ここは純粋に学びたい子がやってくるのだ。優花が言うところの、「やる気」のある子が。
私は藍佳ちゃんの口添えでもらった数学のプリントを、藍佳ちゃんに借りたシャーペンで解き始めた。貸してもらったシャーペンの頭には、キャラクターのマスコットが揺れている。それは薄くはげてしまっていて、古めかしかった。
私は数学のプリントを、がむしゃらに解いていった。
✳︎✳︎✳︎
「ありがとうございました」
添削してもらったプリントをもらい塾を離れる時、またおいでと二人の先生は言ってくれた。藍佳ちゃんは、またね、と言って遠慮がちに小さく手を振ってくれた。
それから、私は着信履歴でいっぱいのスマホを握ると、ママの携帯に電話をした。家に帰ると、チャーハン皿は私の分まで洗ってあり、そしてあろうことか風呂まで洗ってあり、浴槽を洗うスポンジが棚に斜めに突っ込んであって、私はそれを直してから風呂に入った。
二日経って、藍佳ちゃんはテニス部を辞めた。
優花は引き止めたらしいが、やはりシューズやラケットの問題は解決せず、お母さんには勉強に集中したいからと言って、納得してもらったらしい。
それは「嘘」でも、「真実」でもあって。
あの時。塾で一緒になって勉強したあの日。
ぼやっとした月明かりの下で、藍佳ちゃんはお金のかからない公立の高校に行きたいんです、と言った。
藍佳ちゃんの家の近くには、確かに公立高校が一つあるのだが、勉強をかなり頑張らないとそうそう入れない高いレベルの高校だ。他の公立高校があるにはあるのだが、交通費がかかる電車通学になってしまうので、考えていないのだろう。
あれから優花には、ごめんと言えていない。
けれど、飲み終えた牛乳パックはいつからか洗って逆さまにしてあって。風呂掃除はあの時の一回きりだったけれど、その後は私が洗っているから問題はない。
そして私は、藍佳ちゃんが通っているあの私塾で、勉強を教えてもらえることになった。
「隣の進学塾でも良いのよ」
ママがそう言ってくれたけれど、優花が新しいペアの子とお揃いのユニフォームを買いたがっていることを知っているから、私は首を横に振った。
「ねえちょっと真奈あ。きいてよもう‼︎ マキの彼氏ったら最低なんだよ。他に好きな人ができたからって、二股かけることないじゃんねえ」
マキとは、優花の親友だ。
「それはヒドイね」
「でしょー‼︎ 好きならマキと別れて、そっちと付き合えばいいんだよ。マジムカつくわけわかんねえ」
優花はぷんぷん怒りながら、ずれたソファのカバーをピンと張って直している。
私はその様子を苦笑いで見つつ、いつあの時のことを謝ろうかと考えながら、玉ねぎの皮を剥がしていった。