九、年末の祭礼と長兄のお嫁さん
長兄は鈍感ではありますが、ちゃんと個人的に向けられた思慕かどうかを判断できるだけの目はあります。
その年の大晦日。
舞台は深い夕闇に包まれて、空は深い紫色から濃紺へと衣替えを終えようとしていた。空には参星と昴宿が見え、天狼星が今まさに昇ろうとしている。次第に深くなる闇の中で、舞台だけが暖かな篝火に照らされていた。常春の名も高い海邑とて、夜ともなれば急激に気温は下がる。吐く息はまだ白くなってはいないが、巫女達の衣は寒さに適しているとは言いかねた。
闇の中からほのぼのとした温かい光が生まれた。銀細工の冠と簪を付けた頭を心持ち下に向け、目を伏せて現れたのは紅玉だった。白い巫女見習の衣は麻である。白玉の下で修業を始めて数ヶ月。今年の暮れから舞に参加するようにと長老の指示を受けたのは僅か一ヶ月前だった。
凛然とした面持ちは微かに化粧をしているようだった。唇に薄く重ねた紅は血のように赤く、幼い横顔には表情が全くない。人外のもののようにさえ見える神秘をいつ身につけたか、近寄り難い空気をまとっている。
しゃん。しゃん。しゃん。
紅玉の衣の袖に縫い付けられた鈴が、規則的な音を立てている。静けさの中に風を起こすような深く重い空気の中で、紅玉だけが全てのものから自由であるかのように見えた。
空気が揺れる。
両手の中指に結びつけられた帯は紅玉の身の丈よりも長い。左足を一旦蹴り上げ、足を替えて今度は思い切り体を反る。鈴の音は一度も乱れぬまま、紅玉の舞にリズムを刻み続ける。右足をゆったりと押し出し、体重のない者のように軽やかに翔ぶ姿は、仙界の舞姫のようだった。
風が起る。
そこへ音もなく現れたのは白玉である。衣裳の形は紅玉とほぼ同じだが、こちらは白絹である。黒髪に挿した簪は月の光を集めたような透明感を持った白色で、軽い鈴のような、控えめで柔らかい音をたてている。
神楽が始まった。ほっそりした二の腕が楽に合わせて動き、薄い白絹の帯は、巫女の動きに合わせて悩ましげに揺れ、彼女が飛び回転する度に熱い溜息と歓声とが人々の唇から漏れる。白玉は海一族歴代の巫女でも指折りの舞手であろう。軽やかな動きは、幽玄でいて不思議な程の存在感があった。触れたら消えてしまいそうな淡い朧月夜を眺めるのに、少し似ていた。
しゃらん。しゃらん。
一度脇に退いた紅玉が小さな鈴を鳴らして白玉の舞を飾る。その鈴の音に引かれるように白玉の形のいい紅唇から妙なる歌声が響く。去る年を惜しみ来る年を言祝ぐ、新年の為の歌である。強く、弱く。高く、低く。鈴のような美声がその場を包み込む。天上の楽のように。
巫女舞を見守る一群の最後尾。紫玉は碧玉の隣で一緒にそれを見ていた。
「大哥。勿体無いと?」
からかうような紫玉の声音に、碧玉は些か憮然とする。
「おうよ。佳い女だからな。……お前の次に」
驚いたように振り返った紫玉に、微笑みかける。
「待たせて、悪かった」
「大哥…」
言葉を失った紫玉の瞳に映った碧玉は、まっすぐ彼女を見つめていた。
「こんなだらしのない男だが、一緒に生きてくれるか? 卑怯で臆病で弱虫、更にはそれを隠そうともしない厚顔無恥な男だ。お前が愛想を尽かしても仕方ないと思っている。おまけに、他の女に長いこと懸想していて、その過去を忘れることも隠すことも出来そうにない。それでも。お前が許してくれるなら、共に生きていきたい。……虫のいい男だな、俺は」
微笑もうとしてうまく果たせず、それでも碧玉を見つめる瞳は、静かな炎を秘めていた。
「卑怯でも、臆病でも。大哥が大哥である限り、私が私である限り。お連れ下さい。……その過去も傷も過ちも、強さも弱さも。何もかも全てが今の大哥を作り上げました。言わば御身の一部です。それを愛しく思いこそすれ、憎むことなど出来よう筈がありませぬ。それらに敵うと信じる程、私は思い上がってもおりませぬ。……私は夢の中ではなく、現実を共に歩く女として、あなたのお傍に居たいのです。それを、お許し下さいますか?」
目を逸らし、深く吐息をつく。
「過ぎた女だ、俺にお前は」
それから紫玉の方をちらり、と見て穏やかに微笑んだ。その碧玉の顔が少しずつ近づいてきた。神楽も歓声も、もう紫玉には聞こえなかった。
舞台から少し離れたところで、新年を祝う花火が上がり、子供達の歓声が響いていた。
新しい年は、多事多端になりそうだった。
碧玉と紫玉との婚礼は、春に執り行われることになった。年明けて二十歳、成人と同時に挙式である。その後に武官として赴任することが決まっていた。紫玉の妹黛玉は決定当初、少し拗ねて暫くの間碧玉に近寄らずにいたが、白玉に何事か耳打ちされて以来、碧玉に対して少しずつ甘えるようになった。紫玉と同じ焦茶色の髪と碧みがかった瞳の少女は、次第に碧玉がお気に入りになったようである。挙式前かつ任官前で何かと忙しい碧玉はいつも構ってやれないので、年の近い青玉が遊び相手をつとめる。鮑黒玉は二人の婚礼を我が事のように喜び、藺水玉とともに衣装作りに勤しんでいた。赤と金の派手な頭が並んで何かをやっている姿は、悪戯を企んでいるようにも見えた。白玉と巫女見習の紅玉は、婚礼に伴う儀式の為の準備に奔走する毎日だった。
そんな慌しい日々の中、久しぶりに海姓兄弟が全員集合した。
「大哥、お嫁さん決まって良かったねぇ」
「本当に。大哥のところに来てくれるなんて、紫玉大姐は良い人だね」
言いたい放題言っているのは、黄玉と翠玉である。青玉は笑い転げていた。
「おまえらな…」
碧玉は苦りきってそっぽを向いた。
「あら、碧玉大哥って人気があるのよ」
そう言ったのは紅玉である。
「へえ?」
「浮気も隠し事もしなさそうだし、何だかんだ言っても優しいもの。紫玉大姐はスゴイねってみんな言ってるわ」
「……それって俺が単細胞で扱い易いのを、上手く紫玉が釣り上げたって意味か?」
「そうとも言うかも知れないわね」
引き取って言葉を継いだのは白玉だった。お代わりのお茶を注ぐ和やかな微笑みは普段通りである。
「さて、お菓子が焼けたわ。紫玉大姐を呼びに行ってくれる?」
少年二人が椅子から立ち上がると、最年少の黄玉も椅子から飛び降りた。三人を見送りつつ、言葉を繋ぐ。
「でも、多分紅玉にみんなが言ったのは、違う意味でしょう」
「?」
「碧玉大哥ほどの頑固者を篭絡出来る人というのは、なかなかいないってことよ」
そう微笑んで片目を閉じて見せた。碧玉は少し照れて頭を掻き、紅玉は瞳を輝かせて手を叩く。
「素敵ね!!」
やがて紫玉が黄玉達に手を引かれてやってくるのが見え、白玉達三人は笑顔で迎えた。
この海邑の所在地として想定して書いたのは、雲南省のあたりでした。
緯度は低いですが、標高は高く、年間の寒暖差は然程でもないかわりに一日の気温差がそれなりにある土地です。
日本で大晦日の夜に外を外套類なしでうろつくのは無理ですね。はい。