六、祭礼の準備
碧玉の笛は龍笛のような横笛です。
鮑黒玉のお手柄もしくは悪戯の結果、秋の祭礼で碧玉は笛を奏でることになった。海一族の者は誰でも一つ楽器をこなせるが、その中でも碧玉の笛は群を抜いて見事だった。最近は滅多に聴けないこともあり、聴きたがる族人も多い。久しぶりの演奏なので、聴衆の期待は高まっているだろう。祭礼のことを考えると碧玉は些か憂鬱だった。
もともと碧玉が笛を選んだのは、持ち運びが楽で、手入れが楽だからである。どこへ行っても練習出来るという利点もあった。幼い頃は大好きで毎日のように笛を吹いていたことから、叔父の陳叔牙には「笛子豎子」などとありがたくない綽名を頂戴したこともある。夢中になってやっていたからこそ上達したとも言えるが、武挙を受けることに決めてから、笛を取ることは極端に減った。以前は良く白玉の琵琶と合奏したものである。うっかり我を忘れて、深夜まで及んだこともあった。月琴で付き合ってくれていた翠玉が舟を漕ぎ始めなかったら、朝まで続けていたかも知れない。「そういう時は声を掛けろよ」と白玉に言うと、隣の紫玉と顔を見合わせ、二人は少し困ったように微笑んだ。もしかしたら何度も声を掛けてくれていたのに自分が気付かなかっただけかも知れない、と思ったのは少し後になってからである。
練習しようとして愛用の笛を久々に取り出し、唇に当てようとした瞬間、違和感を憶えた。
翠玉は肩幅がないせいか華奢に見られがちで、あまり強そうには見られないが、一族では碧玉と一、二を争う刀の遣い手であり、杖術では並ぶ者がいない達人である。そしてまた天祥の次に読書家と言えた。所謂「文弱の貴公子」ではないが、色白で繊細な顔立ちをしており、ほっそりした指は刀剣など知らずに過ごしてきたかのようであった。白玉のすぐ下の弟であるが、一つ違いということもあり、幼い頃は服を取り替えると見分けがつかない程だった。その翠玉の部屋を碧玉が訪れたのは夕食の後である。
「相変わらず片付いてるな。俺の部屋とはえらい違いだ」
「掃除をすれば綺麗になります。大体大哥は俺と違って部屋に物を置かないんですから、はたきを掛けてちょっと掃き掃除して、あと机の上でも軽く拭けばそれで済むでしょうに」
「それが面倒でな。お前を嫁に貰えば良いんだろうが」
そう言って勝手に寝台の上に寝転ぶ。呆れた顔で翠玉が応える。
「男の嫁になる奇特な趣味は持ち合わせていませんよ。大姐か紅玉にでも申し込んだら如何ですか」
「紅玉には振られた。青玉の嫁になるんだとさ」
「あの子はいつも青玉が一番ですからね。大姐を凌ぐ美女になるだろうに、勿体無い」
「…で、どうだ。見てくれたか?」
寝台から身を起こしてにやりと笑う碧玉の顔を、翠玉は久しぶりに見たような気がした。
「ええ、ばっちりですよ。夏信が言い置いてくれていった通りでした」
そういって翠玉もにやりと笑い返した。
「話は変わるが…祭礼の剣舞に選ばれたそうだな?」
「……どこから聞き込んだんですか?」
何やら不穏な空気を感じ取って碧玉は意外な感に打たれた。
「黒玉だが。何かあったのか?」
小声でその場に居ない黒玉を罵るような呟きを発してから、ゆっくりと肯く。
「不本意ですが。お陰でこちらは棍を取らざるを得なくなりました」
棍とは、全く加工のない、堅い木を丸く削っただけのもので、長さは翠玉の身長の1.4倍程である。
「相手は誰だ? お前が棍を遣うとなると、女か?」
碧玉がからかうような口調で言うと、何やら恨めしそうな顔を向ける。
「その当の黒玉と、水玉です」
答えを聞いた碧玉は、吹き出した。
剣舞は、通常は刀剣をもっての舞のことであるが、秋の祭礼のそれは模範演技で、殆ど試合同然の性格を持っているものである。今回は演技者に怪我がないよう配慮され、打兵器と長兵器による実演となった。
黒玉は女だてらに剣を良く遣うし、水玉も人形のような外見を裏切る程の遣い手である。何より水玉は身軽で器用なので、剣や刀に固執せずいろんな武器を幅広く扱うのが上手かった。
それでも敢えて翠玉が棍を選んだのは、間違っても二人に怪我をさせぬようにとの配慮である。打撲では生命に関わる程の怪我になることは稀である。青痣程度なら数週間もあれば消えるだろうという読みもあった。
「成る程。黒玉はともかく、水玉に怪我は勿体無いな」
祭礼の笛を押し付けられたのを少し根に持っているようである。
「で、二人は何を選んだんだ?」
「黒玉が方天戟、水玉は錘を」
黒玉が武器とする方天戟は、翠玉の身長の1.2倍程の長さの棒の先に、槍のような尖った刃を付け、更にその横に三日月形の月牙と呼ばれる刃を左右対称に付けたものである。今回は万一にも怪我をせぬよう、刃が砥がれていないものを使用することになっている。
水玉が選んだ錘は翠玉の身長とほぼ同じ長さの棒に、錘と呼ばれる球状の打撃部を付けて打撃力を強化した複合棍棒で、錘そのものは大人の頭部より幾分小さい。梃子の原理を利用して、単純な棒で打つよりも多大な衝撃を敵に与えることを狙った武器だが、近年は主に儀仗用の武器として使われることが多かった。
「…この上もなく、二人に似合った選択だな」
碧玉は、軽く笑った。その碧玉が三年程前の祭礼で紫玉を相手に剣舞をつとめていたことを翠玉が思い出したのは、碧玉が自室に戻ってからだった。
入浴を終えて再び部屋に戻った碧玉は、上半身には何もまとわぬまま、寝台に横になった。少し汗が滲んだ均整のとれた体には、適度に筋肉がついているが、まだ少年らしい張り艶がある。虎体狼腰という言葉が似合いそうな体格だった。顔立ちは整っている方と言えるが、翠玉の繊細さと比較すれば幾分粗削りと言えるだろう。とろんとした目は連日の騒ぎで疲れていたものかも知れない。寝台の隣に置いた灯を消すと、程なく規則的な寝息が部屋に木霊した。
息を殺して潜む影があった。碧玉の寝息が暫時一定になったのを見澄まして、寝台の下から影が静かに這い出した。それと同時に、糸を張るような、ぴんという微かな音がした。
影は、碧玉の口の辺りに左手を近づけ、寝息を確認すると、その心臓を目掛けて短剣を振りかざした。
海一族の家宰の家も五つあります。
実は「春夏秋冬」の四つに正月の意味の「賀」を加えて五つという設定があります。
担当は、以下の通りですので、夏信という名は陳家の家宰です。
海=春
陳=夏
藺=秋
虞=冬
鮑=賀