十、長兄の婚礼
婚礼にまとう衣装は、日本では白ですが、中国では伝統的に赤です。
白は人を送る色。そして赤は喜びの色である。
婚礼の夜は朧月夜で、花の香があたり一面に満ちていた。篝火に煌々と照らされた真新しい花嫁衣装は、赤である。
鮑黒玉と藺水玉とが薄い綾絹を丹念に縫い上げた婚礼衣装は、紫玉の焦茶色の髪と温かみのある肌の色に良く映えて、碧玉は微かに目を細めた。結い上げた髪には、紫玉の名と瞳に似合う、紫水晶の簪。しゃらしゃらと柔らかく澄んだ音を立てて紫玉の歩みにリズムを与えている。上気した頬はほんのりと鮮やかな色を秘めて、引き結んだ薄い唇の赤を誘っているかに見えた。
体の線を強調した服に紫玉は羞恥の念を憶えたが、黒玉と水玉は譲らなかった。紫玉が困ったことは、唯一の味方と思っていた黛玉さえその衣装に賛成したことである。それは長身の紫玉の、細く引き締まった体の線をこの上もなく優美に見せていたが、紫玉は少し気後れしていた。
ふと、衣装についた不思議な紐に気付いて黒玉に声を掛ける。
「黒玉…。こんなところに紐がついているのだけど…」
「ああ、それは飾り紐よ。そうそう、大哥に衣装は私達からの贈り物ですとお伝えしてね」
「こんなところに? なんか変じゃなくって?」
「そんなことないわよ。とてもいい感じだわ」
自分の頭がうまく動いていないせいかも知れない、と紫玉はそれ以上考えるのを止めた。
「紫玉大姐、なんて素敵……」
夢見るような表情でうっとりと見上げているのは、紫玉の妹・黛玉だった。声に出してはいないが、紅玉も少し遠くからじっと見つめている。
緊張して頭が真っ白になっている紫玉が我に返ったのは、碧玉が隣に来た時である。
「………」
他の誰にも聴き取れぬよう、小さな声で囁く碧玉の瞳は、少年のようにあどけない光をもって煌いていた。その瞬間、紫玉の目から水晶のような一筋の涙がはらはらと零れた。
「大姐?! どこか痛いの?」
黛玉が慌てて問い掛けると、染み入るような笑顔になって、首を横に振ってみせた。
気丈をもって知られた紫玉が人前で涙を見せたのは、その生涯において唯一度。それが最初で最後である。その涙を黛玉は深い感動とともに見つめていた。その涙の意味を小さな妹が正確に理解するのは、それから数年後のことである。
婚礼の前途を祝すように、夜空に白い虹がかかっていた。
「白い、虹……」
碧玉はその虹を見て、白玉の方へ向かってニヤリと笑いかけた。そして花嫁の手を取り、祭壇へ向かって歩き出した。一族は既に揃っている。
婚礼の儀式は滞りなく、終った。
その夜、婚儀の後ろに横たわる酒樽を幾つも蹴倒して、碧玉は紫玉のもとへ帰ってきた。果敢に碧玉に挑んだ愚か者は十数人を越えていただろう。自分が一杯飲む間に碧玉には三杯ずつ注いでいた者もいる。それを全て正面撃破しつつも、碧玉の足取りは軽く、確かだった。
新婚らしく飾りつけられた寝台の上に、紫玉は所在なげに座っていたが、碧玉の姿に気づくと、緊張しつつも艶やかな笑顔で出迎えた。多分先程までこちらには花嫁の友人達がいたのだろう。華やかな香が満ちていた。
「碧玉大哥……」
「もう、俺は大哥じゃない」
腕を組んで壁に寄り掛り、新妻を見つめる碧玉を前に。一瞬言い淀み、消え入りそうな声が薄い口唇から吐息のように零れた。
「…主」
「そうだ。お前の夫だ。生涯かけて、お前を愛する男だ」
「はい……」
屈んで、潤んだ目を伏せている妻の目蓋に優しく口付ける。
「怖いか?」
「…はい、少し」
「正直だ。同感だな。…俺とて怖い。共に怖がるとしよう」
瞬間、軽く目を見張った紫玉の頬に不意打ちの口付けを与え、その耳朶に囁きかける。
碧玉は初めて触れた。幻ではなく、生身で己に向かってくる女を。結い上げた髪から簪と歩揺(耳飾り)を取り、首につけた飾りを静かに外す。焦茶色の髪を解き放つと、結い上げていたせいで軽く波を描くそれはたゆたうように散った。
その時、碧玉は衣装の細い紐に気づいた。「黒玉大姐がね、紐を見たら引っ張ってみてねって大哥に伝えてって」と黄玉が言っていたことを思い出す。
「紫玉、紐が……」
「はい?」
碧玉が軽く紐を引いた。その瞬間、婚礼衣装が破れたと紫玉は錯覚した。碧玉は息を呑む。一瞬にして一糸まとわぬ身となった紫玉はうろたえて視線を外し、慌てて細い腕で体を隠そうとする。
その腕を紫玉に不安を抱かせぬように掴み、手のひらに口付ける。
「……衣装を作っていたのは黒玉と水玉だったな。なるほど、黒玉の仕業か。些か悪戯が過ぎるが、いいものを見せて貰ったことだし、今宵は俺達の祝いということで許してやろうよ。それとも俺が花嫁の衣装も上手く脱がせられない甲斐性なしだと思って、労ってくれたか?」
碧玉はニヤリと笑い、気にする風もなかったが、紫玉は羞恥のあまり動けなくなっていた。
細腰のあたりに蟠るように落ちた赤い衣はそのままに、碧玉はまるで体の芯に火が点ったかのように鮮やかな朱を浮かべた肌に見入る。内から滲み出てくるような赤さだ…と、寝台との間に手を差し入れて静かに抱き上げ、そっと寝台に横たえる。
「あ……」
力を失った細い足の先から、赤い衣装が秘めやかな衣擦れの音を立てて寝台から床に滑り落ちた。碧玉が頬に手を添えて顔を覗き込むと、羞恥の海に漂ったままに紫玉は、その手に自分の両手を重ね、少し緊張した様子を見せながら豊かに微笑む。
初めて唇を合わせた瞬間、そこに些かの違和感もない事に、碧玉は驚異の念を憶えていた。軽く啄むような口付けが次第に深くなると、紫玉の呼吸も少しずつあらくなり、熱い吐息が漏れた。
滑らかなその腕がいつのまにか碧玉の力強い肩に掛かる。哀願するような切ない眼差しが碧玉の心を捉えた。密やかな感動を憶えながら、紫玉の唇を割り、舌を差し入れ絡ませる。
「ん……」
夢の中にいるような紫玉の表情を確認しつつ、更に深く更に静かにその肌に与えられる柔らかな愛撫は、武骨な指からは到底信じられぬ程の優しさがあった。少し冷えた白く粟立つ肌に、そっと指を這わせ口付ける。その耳に、項に。肩に、胸に新しい朱を散らせると、しなやかな腰に逞しい腕が触れた。怖がらせぬよう注意して、する、と膝を割ると。新妻は、ぎこちないながらも穏やかに彼を迎えいれた。
紫玉はこの夜、海碧玉の妻となった。
赴任先は、海邑から馬で二十日あまりの郷に決まっていた。家財一式とはいうものの、ものをあまり持たない碧玉にはそもそも持参すべきものは殆どない。紫玉がまとめた荷物は多くは自分のものだったが、それとて多い方とは到底言えなかった。
旅立ちの朝、まだ暗いうちに碧玉は寝台に新妻を残して神殿へ向かった。微かな寝息を立てる妻の、寝乱れ髪をそっと撫でて口付ける。
神殿には、白玉が紅玉と共に居た。訪問を予期していたかのようにこちらを見つめ、艶やかに微笑んでいる。
「道中のご無事を、お祈りしております。三年の後、お目にかかりましょう」
「三年……か。何が起こる?」
「それはお答え致しかねます」
軽く溜息をついて諦めたように微笑んだ碧玉を、深い愛情を込めた眼差しで見つめる白玉に、旭日の最初の一閃がかかる。
「判った。…ありがとう」
踵を返す碧玉の後姿に、深々と頭を下げた白玉の瞳は、微かに潤んでいるようだった。
「大姐?」
「さあ、大哥と紫玉大姐が道中ご無事なよう、お祈りしましょう」
「……? はい」
不審を憶えつつも紅玉は白玉に従った。ふと振り返ると、朝日の中館に戻って行く碧玉の影が長く伸びているのが見えた。
その朝、碧玉は新妻・紫玉を伴って任地に赴いた。
海虹の登場人物紹介として書いた作品です。
主人公よりも、彼等に影響を与えた巫女海白玉と、その白玉に叶わぬ恋をしていた海碧玉の若い頃に焦点を当てて書いてみました。本編がとても暗いお話なので、外伝はせめて明るく、とほのぼの風味に仕上げたせいで、白玉の死の前後まで書ききれなかったのは痛恨の極みではありましたが、まあ良宵で多少書けたので許して下さい(笑)
なお、当時の読者様に白玉の恋の相手が碧玉と思われていて、吃驚しました。
なので、一部の方にはちょっと申し訳ないですが、明言しておきます。
海白玉の思い人は、海碧玉ではありません。
ちょっと失敗したなぁと思うのは、成長した海紅玉に、白玉を似せすぎたことかなと思います。
二人の違いは、そのうちどこかでまた書けるといいなと思います。
ただ、過去の設定資料集(電子処理化済み)がきれいさっぱり消失してしまったので、篁文箱に放置してあった資料を見て思い出しながら書いております。本編、ちゃんと書けるか正直不安です(笑)
因みに、しぶに放置してある「綴姫抄」は、この時代から大体百五十年ほど前のお話です。海とその周辺の邑、伽という国の設定はほぼ同じものです。