8月26日 金曜日
夏、からりと晴れた青空は、人の気持ちを高ぶらせ、開放的にさせがちだ。僕が今まで勤めていた職場の社長も、どうやら例に漏れず、開放的になり過ぎてしまったらしい。社内のいざこざ、決算報告、外回りやら挨拶やら、それに愛人の存在、加えて全社員の人生。そんな一切合財を投げ出して、社長はどこかへ行ってしまった。流石、夏。人を解放的な気持ちにさせる能力に関しては右に並ぶものはおらず、まさに独走状態。これでもかと言うほどに人を解放的にさせてしまう。それに巻き込まれた、僕達社員の気持ちすら。
そんなこんなで時は過ぎ、8月ももうすぐ終わりを向かえようとしている。愛してやまない秋が、ついにやってくるのだ。そうして僕は、今日も、職業安定所へと通う。
手元の雇用保険受給資格者証を見る。
”青柳健二 22歳 無職”
無慈悲に綴られるプロフィールを見るたびに言い表せないむなしさが胸を突く。自分で言うのもなんだが、僕は真面目で勤勉な青年だと思う。学生の頃、生徒会に在籍していなかったことは無いし、空手部に入り自己鍛錬も惜しまなかった。高校時代、最後の大会では地区大会準優勝の成績も収めた。週に2度のランニングも欠かさない。至って真面目で、人の道を踏み外すようなこともせず、それでいて自分の選択に間違いなど無いものだと思っていた。
あの夏の暑い日、通勤した先の職場が無くなっていた朝までは。僕は就職先を間違えてしまった。思い返すとおかしなところもちらほらあった。事前に対処できなかった僕の責任なのだ。そもそも、ソファで社長と二人並んで腰を掛け、雑談するだけの適当な面接な時点で気付くべきだったのだ。採用通知に浮かれて他の企業をまわらなかった僕がいけないのだ。強いて言うなら人を無責任に解放的にする夏がいけないのだ。ゆるすまじ、夏。
しかし今は秋。僕がこよなく愛す季節。運動の秋、食欲の秋、読書の秋。あげればキリが無い。山々に生い茂る木々は紅く色気づく。暑すぎるわけでなく、寒すぎるわけでもない丁度良い気温。秋晴れの素晴らしさたるや、言語不要である。時間を持て余す今の僕は、隙あらば空を見上げる。時間という概念がこの世になかったなら、僕は空を見上げて一生を終えるだろう。
と言ってしまうと、少なからず過言になるが。
少ない貯金と失業保険によって何とか日々を過ごす僕だが、勿論このままでいいと思っているわけでは断じて無い。有り余る活力を今すぐなにかにぶつけたい。社会の為、身を粉にして働きたい。しかし、職場選びをおろそかにして、同じ轍を踏みたくは無い。もうあの絶望感を味わいたくない。慎重にならざるを得ないのだ。慎重に、冷静に、日々更新される求人を隅から隅まで見る。企業に僕が選ばれるのではなく、僕が企業を選ぶのだ。学生時代の就職活動全盛期に、それをわかっていればと悔やむ日もあるが過去のことはしょうがない。糧にするほか無い。雇用保険の受給期間もまだある。焦らずに行こうと思う。
目ぼしい求人は今日も無かった。最早慣れたもので、落ち込んだりはしないが、自然とため息が漏れる。僕は職業安定所を後にした。
今日も市立図書館にいこうと考えた。僕は読書が好きだ。本は素晴らしい。読むたびに知性が蓄えられる感じがする。筆者の半生を、数時間足らずで理解することができる。そして何より、今は秋。読書の秋。図書館に行かない選択肢が、無職の僕には無かった。
図書館に向かう道すがら、ある人と出会った。
「おっ、アオケンじゃん。久しぶり~」
「これはどうも、先輩。お久しぶりです」
前の職場の先輩だ。僕より二つか三つ年上の女性。金髪で、ショートボブが似合う小柄な人だ。
よく世話をしてもらって、僕の失敗を何度か被ってくれたこともある。社会人成り立ての僕を、一人前、と呼ぶにはおこがましいが半人前以上にしてくれた人だ。仕事もこの人から教わった、”いろはのい”から”いろはのは”まで。いつも気だるそうにしているが、やるときはやる。尊敬に値する先輩だった。事実、今も尊敬している。
「なんだよ~連絡くらい寄越せよな~? 元気してんのか~?」
あっけらかんとそういう先輩に、この人は変わらないなあと少し懐かしく思えた。最後にあったのはほんの2ヶ月程前なのだけど。
「なかなか気持ちの整理がつかなくて……すみません。まぁなんとか、元気にしてます」
そういえば先輩は新しい仕事に就いているのだろうか?先輩ほど有能な人材なら引く手数多だろうから、心配するのもおこがましい。現に、何度かヘッドハンティングされそうになってた現場を見たこともある。先輩は愛想笑いで断っていたようだけど。
「そうかそうか~。アオケン、これから時間ある? 茶でもしばこうぜ~」
アオケンというのは僕のあだ名、らしい。そのあだ名を使う人は先輩のみ、命名したのも先輩だ。そして先輩は時折おかしな言葉を使う。茶でもしばこうというのは、どうやら喫茶店でコーヒーでも飲もうぜという意味らしい。出会って間もない頃は意味がわからなかったが、今ではなんとなく、ニュアンスでわかるようになっていた。
「いいですよ、特にすることもないですし。お供させていただきます」
「よ~し、んじゃ決まり~。最近この辺に美味いコーヒー出す店見つけたんだよ~」
僕の住むこの町は、田舎でも都会でもなく、駅前は多少賑わっているものの少し足を伸ばせば見事なまでの田園風景が広がる。田舎と都会の境界線上で、右往左往しているどっちつかずな、どこにでもある町。
周りを囲む山々を見渡せば、何をするために建てたのかわからない建物もあれば、奥まった街角に、客が出入りしているところを見たことも無いような、それでもなぜか潰れないお食事処もある。きっとどこにでもある普通の土地だ。ここに住もうと決め、生まれ故郷を離れ一人暮らしを始めたのは、今から遡ること1年と5ヶ月程前。無事就職を決め、未来に輝かしい何かを見出しつつあったうら若き時代の僕は、これから起こる社会の波に揉まれに揉まれ、ぼろぼろにされた挙句、ぽいっと無職という名の大海原へ投げ出されるとは、思っても見なかった。
駅前通りを先輩と二人歩く。先輩は行きかう人々や、立ち並ぶ店々を鼻歌交じりで眺めていた。僕も釣られて陽気な気分になる。
「先輩、あの後どうしてたんですか?」
「ん~? 適当にやってたよ、適当に~」
「適当にって……その適当が知りたいんですよ僕は」
いい加減な返答をする先輩に、ため息が出そうになる。
「アオケ~ン、そういう積もる話は店についてからでいいだろ~? 歩きながらそんな話~」
それもそうだ、と納得する。これからコーヒーを飲みつつ話をするわけだし、流石先輩だと思う。
「お前は結論を出すために急ぎすぎる所があるから、まずはそこを直せ。直せなくても意識はしろ」と先輩に何度も注意されていた現役のころを思い出し、それすら忘れていた自分に少し落ち込んだ。
「めんどうくさいし~」
そう付け足す先輩のさりげない優しさも、今の僕には心に沁みる。
「ここだよ、ここ~」
どうやら着いたらしい。外観は至って普通。普通といっても良い感じにモダンな雰囲気を醸しつつお洒落なジャズなんて流れていそうな、そういう外見だ。喫茶店としてはありがちば外観。なんというか、一見さんお断りな感じがして僕はあまり好きじゃない。一人でここに入る勇気は無い。しかし今日は先輩もいるし、もしかしたら常連になれるかもしれない。行きつけの喫茶店というのに少し憧れていたのだ。
小綺麗な制服に身を包んだ店員に促され、席に着く。店内の雰囲気もほど良く、静かに流れるクラシック音楽。客も若干名居て、本を読んでいたり、タバコを吹かしていたり、ノートPCを広げてにらめっこしていたり、各々が好きなように過ごしているようだ。先輩はブレンドコーヒー二つと言い放ち、かしこまりましたと店員がそれに答えた。
「いいですね、なんというか雰囲気が」
「だろ~? いいとこみつけたんだよ~」
先輩はどこか誇らしげに、それでいてうれしそうに言った。
「それでアオケン、いまなにしてんの?」
「あー、いまですか。求職活動中です」
「ほ~ん? どこかいいとこあったか~?」
「いやぁないですねえ……失敗したくないんで慎重に探してます」
「失敗したくないか! あっはっは、そりゃそうだ」
「いやいや、笑いごとじゃないですよ! 本当に……。先輩はなにしてるんですか?」
「ん~? おっ、きたきた」
店員がコーヒーを二つトレイに乗せてやってきた。持ち運ぶ姿も様になっている。よく出来た店員さんである。
「こちらブレンドコーヒーになります」
トン……トン……とやさしくそれをテーブルに置き、「それではごゆっくり」とだけ言い残して、店の奥に去っていった。
「ほら、飲んでみ~? うまいぞ~?」
正直、コーヒーの味なんてわからないんだけれど、大丈夫なのだろうか。家で飲むインスタントのコーヒーも、コンビニで買って飲むコーヒーも、ファミレスで飲むコーヒーも、僕にはそこまでの違いを感じない。
先輩に言われるがまま、カップを手に取り口をつけ、一口啜る。
刹那、衝撃。
「お、おいしい……!」
「だろぉ~?」
なんだこれは……!? 今まで飲んでいたものは……泥水だったのか!? ぐんとくる口内に広がる苦味、少し後に僅かな酸味、それでいて飲み終わった後にくる甘味のような……。
僕の貧相な語彙では表現できない味のハーモニーが、まるで上質なクラシックを聞いているような……そう、まさに店内に流れているBGMと同様、調和されている。
「お~いアオケン? 大丈夫か?」
先輩に声をかけられ、はっとする。変な次元にトリップしてしまいそうになっていた。危ない危ない。本当に美味しいコーヒーというのはこれほどまでなのか。
「驚きました……。コーヒーってこんなに美味しいものなんですね……」
先輩はただにこっとだけ笑ってみせて、コーヒーを啜った。
「それで先輩、いまお仕事なさってるんですか?」
「仕事~? まぁぼちぼちね~。一応貯蓄はあるし、フリーランスみたいな感じだな~」
フリーランス。先輩程の地力があればそれでもやっていけるんだろう。僕には到底無理だ。コネも実力も無い。そもそも、そんな不安定な生活、僕にはできないだろう。不安で押しつぶされるに違いない。
「それでおまえ、最近なにしてんの~? 」
「ですから、職業安定所に……」
「いやわかってるけど、一日中いるわけじゃないだろ~? 暇な時間の方が多いんじゃない?」
「あぁ、そういうことですか。時間は確かにいっぱいありますけど、図書館行ったりなんだかんだするとあっという間です」
「図書館? ていうと市立の?」
「はい、そうです」
先輩はふーんと呟くと、ガラス越しに歩く通行人を見始めた。僕達が座る窓際の席では、ガラスを一枚はさんで、なにかに追われているかのようにせっせと歩く人々がいる。この人たちが社会の歯車をまわしているんだろうなと考えると、今の自分は何をしているのかと躁鬱な気分になった。
「そっか~暇じゃないのか~」
先輩が口を開いた。少し残念そうな、それでいて、どこか意地悪そうな表情を浮かべながら。
「何もしてないんだったら、私の手伝いとかして欲しかったけどな~」
「手伝いですか?」
「そうそう~、割と忙しいときもあってな~? 一人だと回らないときがあるんだよ~。アオケンにだったら頼めるかなって思ったけど、忙しいならしょうがないか~」
始め、悪くない話に思えた。尊敬する先輩とまた一緒に働くことができる。しかし、いまここで妥協すると、再就職に支障がでるように思えた。とてもありがたい話ではあるのだが。
「魅力的な話ではあるんですが……すみません。次はちゃんとしている所に行きたいんです。ここで就職活動をないがしろにするわけには……」
「そうだよな~」
先輩は残念そうに、ケラケラと笑った。
「ですが先輩、もし本当に僕の力が必要になったら、いつでも呼んでください。僕でよければ、馳せ損じます」
あまり頻繁だと困りますけど……、と小さく付け加えた。
「お~そっか~! それは嬉しいな~。そんじゃどんどん呼ぶからそんときは頼りにしてるぜぇ~」
「ですからあまり頻繁だと困りますって!」
先輩が今度はおどけたように笑いながら、冗談冗談と言った。その後、僕が最近読んでる本の話だったり、先輩のよくわからない話だったり、他愛も無い会話を1時間ほど続けた。先輩は前と何も変わっていなかった。僕はそれが存外嬉しかった。
「よ~し、んじゃそろそろ帰るか~。まだ仕事残ってるしな〜」
長居してしまった。コーヒー1杯でここまで長居されると、流石に店員さんも良い顔しないだろうと思ったが、特に気にしていない様子だった。再度、できた店員だなと関心した。
「そうですねぇ」
「まぁ、なんかあったら連絡してこいよ~。それじゃあまたな~」
そう言い残し、先輩は去っていった。会計もいつの間にか済んでいたらしい。「ごちそうさまです」すら言えなかった。偶然、先輩と出会えて、コーヒーが美味しい店も教えてもらえた。今日はいつもより充実している。起床して、家を出て職業安定所に向かい、帰りに図書館に行き、本を借りるか借りないかして帰宅する。そんな毎日と比べると、とても有意義な1日に感じた。この後、図書館に寄り、興味惹かれる面白そうな本を探し出すことができたら、なんて幸せだろう。
先輩と別れ、行き着けの図書館へと向かう。市立ではあるものの本の種類は多く、館内は無論静かで、読書に集中できる。読書の秋を満喫することができるのだ。一昨日借りた推理小説も、先日読了したのでついでに返すつもりだ。推理小説というものを始めて読んだのだが、中々良かった。本に備えつけられいる貸し出しカードに、貸し出し者の氏名がたくさん連ねられていただけある。
皆この本を読んで、主人公の探偵さながら、推理を楽しんだのだろう。そしてそこに、僕の名前も並べられるのだ。小恥ずかしいが、なにか繋がりのようなものが感じられる。推理小説、なんとなく敷居が高いような気がして食わず嫌いをしていたが、何事も挑戦するものだ。きっとそれは、本に限らずに。
図書館に着く。足を踏み入れた瞬間から、静寂が世界を支配する。誰からとでなく、私語を慎み、なるべく大きな音を立てないよう、慎重に行動する。その空間が僕にはことさら心地良かった。荷物をカウンターに預け、ついでに本を返す。筆記用具などは館内に持ち込んではいけない決まりだ。これは落書き防止の為だ。マナーを守れない不届き者が少なからず存在し、その被害を受けるのは決まって善良な市民なのだ。図書館で勉学に励みたい学生も山ほどいるだろうに……。それが原因か、この図書館を利用する人は余り居ない。居たとしても年配の方や、親子連れが多い。まぁそんなことどうでもいいことだけど。
僕はいつも通り、おもむろに館内をふらふらと歩き回り、本を物色する。
さて、今日は何を読もうかなと思案しながらウロウロしていると、ふと「館員が選んだ秋にお勧めの1冊」というコーナーが目についた。木で出来た本棚に、橙色を基調とした、館員がデザインしたであろう大きなPOP。銀杏の葉をモチーフにした落ち葉を折り紙でつくり、周囲に散りばめ、色鮮やかに飾り付けを施こしている。そこには11冊の本が立てかけられ、帯にはその本を薦めた館員のコメントが添えられている。今の今まで気付かなかった。いつから設置されていたのだろう。秋にオススメとはどういう意味なのだろう。秋に読んでこそ面白い!という本があるのだろうか。興味深い。
その中から適当に1冊を手に取り、ぱらぱらと頁をめくる。どうやら秋を題材としたラブストーリーらしい。僕はその本を手に取り、館内に幾つか備えられているテーブルに向かった。ラブストーリー……というのは今まで読んだことがなかったし、なんとなく趣味に合わないだろうと決めつけ、敬遠していた。
しかし、先日の推理小説の例もある。僕は何事も経験だと自分に言い聞かせ、読んでみることにした。
椅子に腰掛けを深くかけ、ページをめくる。
初対面の少年少女が、悲劇的な運命の元、四苦八苦を共に味わいながら仲を深める、典型的なボーイミーツガール。
今の自分にはピンとこないものの、それでも続きが気になってしまった。随所に秋を感じさせ、確かに今の時期、読むべき本なのだろう。情景が手に取るようにわかりやすく感じる。
今日のところはこの本を借りて帰り、続きは家で読むことに決めた。カウンターに行き手続きを済ませ、荷物を受け取り図書館を後にした。
外に出てみると、すっかり夕焼けである。思った以上に時間が経っていたらしい。道行く人々も忙しなさを忘れ、心なしか穏やかな時間が流れる。この時間帯のゆったりとした雰囲気に、僕は少しほっとする。これが無職の宿命なのだろうか……。
秋焼けに染まる空を見上げ、溜息が自然にもれた。
部屋に帰り、ヤカンに水道水を注いで火にかける。インスタントコーヒーの粉をコップにスプーン2杯入れて、お湯が沸くのを待つ。
今日もいい求人が見つからなかった。理想を高く掲げているので仕方がないのだが、当然、焦りも感じる。早く定職に就かなければいけない。こんな苦労も、なにもかも、あの自分勝手な社長のせいだ。今頃どこで何をしているやら。
そんな、今更どうしようもないことで思案していると、まるで僕の心と連動したかのようにヤカンがピーピーと音を立てた。
お湯をコップに注ぎ、スプーンで軽く1混ぜする。コップを手に、pcデスクに向かう。一口啜り、一息つく。
うん……まずい。
先輩に連れて行ってもらったあの喫茶店のコーヒーを飲んだ後なので、ことさらそう感じてしまう。こんなものを飲むのなら、いっそのこと、エスプレッソマシンなんてものを買ってみようかと考えたが、自分はそこまでコーヒーを愛していたるわけではないことに気づいた。
しかし、あの喫茶店のコーヒーを飲んだ後では嫌でも好きになる。よし、就職が決まったら、自分へのご褒美として良いエスプレッソマシンを買おう。そのためにも、なんとか就職しなくては……。
お粗末な手作り夕食を食べ終え、図書館で借りた本を手に取る。先程読み進めたところから、ページを進める。ヒロインは難病を患っており、主人公はそれを何とかしようと奮闘する。未来になんの不安も抱かない主人公に、少しだけ憤りを感じた。しかし、羨ましく感じたのも事実だった。主人公が病室で、ヒロインに秋の素晴らしさを熱弁する場面があった。共感できる所が多々あった。
これを書いた作者は、きっと秋がたまらなく好きなんだろう。
次第に、ページをめくる手が止まらなくなっていった。流石館員さんがお勧めするだけはあるなと思った。なにが面白いかと問われると、一概にこれとは言えないが。
時刻は深夜0時過ぎ、1度も手を休むことなく読み終わった。ハッピーエンドとはいえないが締め方も良かった。良い本を読んだ。再度読んでみたら、また違った感想になるかもしれない。
ふと奥付に目をやると、そこから1枚の紙が落ちた。貸し出しカード……もしくは栞か?
手を伸ばすと、どうやらどちらでもない。ノート1枚を4つに切り分けたであろう紙切れだ。それが2つに折りたたまれている。不信に感じながらも、手にとって、中を見る。
「秋というきせつに、わたしはふれたことがありません。きっとすばらしくきれいで、せいきにみちあふれているのでしょう。きぎははじらいながら赤らんで、さくもつはみのって、空はきれいなだいだい色にそまっているのでしょう。秋のにおいがするのでしょう。かのじょとわたしのちがいはなんなのでしょうか」
そう綴られていた。字はお世辞にも上手とは言えない。しかし、きっと1字1句丁寧に書いたんだろうと、伝わってくるものがあった。
これはなんだろう……?僕の前に借りた人が思い立って、感想あるいはポエムを書いて挟んだのだろうか?何故、そんなことを?今頃、この紙が無くなっているのに気付き、赤面しながら必死に探しているのかもしれない。もし自分がその立場なら、今後二度と図書館を利用できないかもしれない。恥ずかしさのあまり。
意地が悪いのを承知で、貸し出しカードを見る。これを書いたのは女性なのか男性なのか知りたくなった。それくらいの好奇心は許されて然るべきだ。女性ならまだしも男性だとしたら、余程のロマンチストだ。
貸し出しカードには、名前が1つも書かれていなかった。
この本を読んでいない人が綴った文章とは思えない。この本を薦めた館員さんが……?それなら大恥ものだ。己とこの本のヒロインの違いは一体なんなのかなんて自分勝手な哲学的思想を綴った紙切れが、数多いる図書館利用者に見られる可能性があるわけなのだから。
それでも、なんとなく腑に落ちない。わざわざノートを4等分に破って書き綴るなんて……。それでいて、それを本に挟めておくなんて……。
それから僕は、色々な思考を張り巡らせてみたけれど、納得のいく答えにはついぞ至らなかった。
もやもやとした感情だけが残る。明日、もう1度図書館に行き、館員さんに聞いてみようかとすら考えたが、それもなんだか小恥ずかしいので、この件は保留にしておくことに決めた。ノートの切れ端も、次にこの本を借りた人に僕が書いたと思われてしまったら嫌なので取っておくことにした。貸し出しカードには僕の名前だけ記されるわけだから、それが最良の判断だと思う。
さて、明日も職業安定所に行かなくてはいけない。今日が充実した1日だったことに変わりはない。
久方ぶりに先輩と出会え、雑談を交わすことができたし、おいしいコーヒーを出す喫茶店も教えてもらえた。借りてきた本に、少し恥ずかしいポエムが綴られた切れ端が挟まっていた、ただそれだけ。
それと、単純に眠い。
時計の長針は1時辺りを刺していた。