祈り
「――キアラン?」
どうしてここに、と思う間もなく、キアランの出し抜けの行動に目を見開いた。
「グラディス!」
今まで見たこともないくらいの慌て方で、私の名を叫ぶなり、靴も履いたまま湧水に足を踏み入れてきた。
唖然として立ち止まった私を、乱暴なくらいの勢いで後ろから抱き止めた。
「無事で、よかった」
心底ほっとしたように呟く。
身じろぎもできないほど強く抱きしめられながら、突然の出来事について呆気にとられながら、数秒考えこむ。
ふと理由に思い当たった瞬間、思わず噴き出していた。
「ふ、ふふふ、あははははっ、キ、キアラン、私が、早まった真似してると、思ったの?」
滅多に見られないキアランの顔を思い出して、息も切れ切れに問いかける。
服を着たまま湖面を一直線に奥に進む私の姿は、確かに見過ごせない光景に見えたかもしれない。
私の反応を見て、キアランの腕が緩んだ。振り向いて見上げれば、間が悪そうな苦笑が浮かんだ。
「俺の、早とちりか……」
「みたいだね」
拾い上げたハンカチを見せると、ほっとしたように頬を緩めた。
「とにかく上がろう」
キアランが私を抱え上げて、岸へと反転する。
さっきまでの寂しさがいっぺんに吹き飛んで、温かさを感じながら、首に手を回した。
「キアランでも、勘違いなんてするんだね」
「――俺をどう思ってるんだ。うんざりするほどまだまだ未熟だ。空回りばかりしてる。――特に、お前のことでは……」
不本意そうにぼやくキアランから、視線を逸らして訊いた。
「――私は、そんなに死んじゃいそうなくらい、落ち込んでるように見えた?」
その問いに、キアランの足が止まった。前を向いていた目が、私に向いたのが分かる。
「トロイ・ランドールは、昔の教え子だったんだろう?」
「そうなる、はずだった。コーネリアスがあの頃急逝してなかったら」
また自己嫌悪がぶり返してくる。
「こんな時でも笑えるなんて、私は薄情だね」
情けなくなってきてうつむく私の言葉を、キアランは否定する。
「ずっと嘆いてはいられないし、ずっと笑ってもいられない。――教え子でも、友人でもなかったなら、そんなものだろう。背負い過ぎるな。今のお前は16歳のただの学生だ。前世の役割も義務も、死んだ時に終わっている」
言い聞かせるように断言し、また前を向いて歩き出した。
何があったのか、詳しくは訊いてこない。きっと、大方の予想はついてるんだろう。
水から上がると、すぐに魔術で濡れた部分を乾かしてくれる。去年はできなかったことを反省して、乾燥の練習したのかな。なんだかキアランらしい。
「でも、私のせいで、トロイは……私と出会ってなければ、きっと違う結果になってた」
どうしてもこの考えがこびりついて、拭い去ることができない。法的な責任とかの理屈とは、別のこと。
「それは、神のように傲慢な発想だな」
行き場のない心情を吐き出す私を抱きかかえながら、キアランは辛辣な指摘を返してきた。でもその声は、いつも以上に穏やかだ。
思わず顔を上げる。
「たとえ大預言者だって、人の出会いまで制御し司るわけじゃない。生きていれば誰だって、いい出会いも悪い出会いもある。それにどう向き合うかは、全て本人次第なんだ。そんな所にまで責任を背負おうなんて、それこそ勘違いの思い上がりだ」
「普通の人なら、そうかもしれない。だけど私は、最悪の結末を招かない手段を持ってるよ。なのに、わざと避けた。普通の人でもできる行動しか取らなかった。――それでも?」
できるはずのことを意図的にやらなかったのは、やっぱり私の責任なんじゃないの?
言葉に出さない私の胸の中のモヤモヤを、キアランは正確に受け取った。
「自分のせいだと思ってしまうのは、結果を予知して動かなかったことを、悔やんでいるからか? 予言を駆使すれば、トロイの死を招くことはなかったと」
後悔の正体をはっきり形にして、問いかけてくる。
そう、そしてその答えが、私は欲しい。それが私にとって、耳に痛いものだとしても、キアランはきっと何かを示してくれる。そういう絶対の信頼感がある。
優しさや慰めより、真実が欲しい。縋る思いで、続きを待つ。
キアランは考えながら、ゆっくり言葉を紡いだ。
「俺なら、自分の未来の選択を、特別な力を持った誰かに、知らないうちに操られるのは嫌だ。たとえそれが最善の結果に繋がるのだとしても、他人に委ねたくはない。選ぶのは俺自身でありたい」
そうだ。私もそう思った。――でも、結果はこのざまだ。
「お前は、トロイ自身に考えさせて、思いとどまる決断をしてほしかったんだろう? 読んだ未来の結果から逆算された計算ずくの誘導なんて、何の誠意もないし心にも響かない。結果よりも、過程の方が重要なことだってある」
聞きながら、本当に不思議になってくる。
私たちの間にあったことも、トロイの死の真相も、何も知らないはずなのに……どうしてキアランは、こんなに私のことが分かるんだろう。
早まる鼓動を自覚しながら見上げる私の目を、キアランは真っすぐ見返した。
「未来を知りたいとは、誰もが思うことだ。だが、その気になればできるのに、安易に見せかけの楽を選ばなかった。トロイとお前の結果が逆になっていた可能性だって、十分有り得たんだ。命の危険にさらされながらも、本心を伝えたい相手と真正面から真剣に向き合ったお前を、俺は尊敬する」
「~~~~~~~」
喉の奥が熱くなって、何も言えなくなった。
トロイの気持ちは、もう永遠に分からない。
憎悪か、軽蔑か、決別か、それともそれ以外の何かなのか――去り際に落とされた、キスの意味。
でも、キアランの一言で、やっぱり救われている自分がいる。
ああ、結局またこうなっちゃうんだ。
もう開き直ってぎゅっとしがみつき、キアランの肩に顔を埋めた。ハンカチは握りしめてるのに、使う気が起きない。
「まあ、受け入れられるようになるには、時間も必要だろう。無理に割り切る必要はない。今は、ただ忘れずにいればいいんじゃないか」
「――あ……」
そう言われて、やっと思い出した。トロイとの別れ間際に、背中から聞こえた言葉を。
「……そうだ……トロイにも、言われた。『僕を忘れないで』って」
「だったらその遺言を、まずは守ることからだな」
「――遺言……」
そうか。あれは、遺言になるんだ。忘れることなんて、できるわけがないのに。
少し落ち着いた今になって、最後の光景を思い出す。
私は魔物との力比べでよそ見のできない状況だったから、トロイの姿は見ていない。けれど、召喚陣に引き上げていく黒い精神体の霧に紛れて、あの瞬間、小さな白い光を見た。
トロイの魂だと、すぐに理解した。それを目にして、死を確信したのだから。
「トロイの魂がね……召喚陣の向こうに、消えていったんだ」
「彼は、異世界の転生者だったな。元の国に、帰ったということか?」
「――分からない」
分かるのは、私が一生トロイ・ランドールという人間を忘れないでいるということ。
永遠の別れは、やっぱり辛くて苦しい。私の後悔は消えない。トロイがやってきたことも、絶対に許していいことじゃない。
だけど、今はただ、心から祈ろう。
トロイが……蓮という少年が、あれほどまで焦がれた場所に――また帰れることを。
――願わくば、記憶も心もまっさらなままで。




