転生者一人
うつらうつらと、目が覚める。
疲れすぎて、自然に意識が落ちていたらしい。体が重い。
寝返りを打って、違和感に気が付いた。
固い地面に横たわっていたはずなのに、柔らかくてあったかい。
上半身を起こして見ると、長い芝のような植物がびっしりと体の下に広がっていた。弾力があって、ベッドみたいな柔らかい寝心地だ。
体中にあった細かい傷跡もすっかりなくなっている。
禊を拒否した私を気遣って、カッサンドラがサービスしてくれたらしい。
怪我はなくなっても、体中の痛みは、寝る前よりひどくなってる。疲労を差し引いても、体力と回復力が前より衰えているのが実感できる。聖域で休んだだけ、これでも随分マシなんだろう。
まあ、自分で選んだことだから仕方ない。
無気力なまま、のそのそと起き上がった。
見上げると、かすかにのぞく木漏れ日が、赤みを帯びている。3~4時間くらい、意識がなかったらしい。もう夕方だ。
これから帰るのかと思うと、さすがに億劫になる。かといって、のんびりしてたらすぐに夜だ。せめて近くの別荘には戻らないと。
ああ、でも何もする気が起きないなあ。一晩くらいここで野宿でもいいか。確実な安全は保障されてるし、ほどよいベッドもある。
とりあえず湧水まで行き、水を掬って喉を潤した。
澄んだ水面に映る自分の姿に、まだ心臓が凍り付く思いがする。
――汗と涙と血で、ひどい顔。
体中、乾いた血がこびりついてパリパリする。この血のほとんどが、いっそ自分のものだったらよかったのに……。
体の中身の浄化は後回しにしても、さすがにこのままでいるわけにはいかないか。
身にまとっている物をだらだらと全部取り去って、湧水に足先から沈めていく。
頭の先まで沈んで、澄み渡る聖水に身を浸した。
いつもなら一番リラックスできる場所だけど、しばらく浮上できそうにないな。
どんなに悪党に成長したとしても、思い出すのは子供の頃のトロイの姿。
これは、望み通りの結末でもあったんだろう。分かってはいる。
自業自得と笑いながら、どこか穏やかに安堵していたトロイ。やっと終われるとでも言うように。
それでも、命と心のどちらを救うべきだったのか、いくら考えても分からない。
『人生長いのに、そんなんでこの先持つの?』――そんな一言を、トロイに言ったことがあった。長い人生なんて、ハナから考えてもいなかった相手に。
いっそ、未来なんて何も見えなかったらよかったのに。本気でやれば、見えたかもしれない。だからこそ、後悔が押し寄せる。
あえて見なかったことを。
トロイが召喚した時の記憶を繰り返し思い出し、確信していることがある。
あの瞬間、トロイの気配がはっきりと変わった。魔物から、本来の人間寄りに。
召喚が失敗した理由――トロイはガス欠なんて自嘲したけど、その説明は正確じゃない。
いくら頭に血が上ってたからって、一流の魔導師が、そこを見誤るはずがない。
原因は一つ。
術の発動の最中、グレイスに接続を切られた。
だから、見込んでいた量の魔力が使えなかった。
それが自業自得と笑った本当の意味。
冷静さを失って、グレイスへの警戒を忘れた。共犯者ではあっても、仲間ではない。始めから信頼なんてないどころか、ゴールに近付くほどに、不確かになる関係。
私に関わる今日の一連の行動を一人で強行しようとしたのも、そのせい。そして懸念通り、結局足をすくわれた。
グレイスにとっては、トロイの利用価値がなくなった。もう、協力させる必要がなくなって、切り捨てられた。助けにすら来なかった。むしろ、積極的な妨害かもしれない。
確か、トロイは言ってた。
――十六年前と同じ出来事が、起ころうとしてるんだろうね……と。
グレイスは、最初から狙ってやったんだ。自分が肉体を得た工程を、再現しようとした。
トロイはもう用済みだから。
成否はどっちでもよかったのかもしれない。
自分と同レベルの仲間ができるか、当初の予定通り今度こそ自分の生贄として丸ごと取り込むか。
元々、最終的にはそうする計画で、トロイの肉体を幼い頃から長期的に都合のいいよう作り替えていた可能性だってある。トロイばかりが執拗に狙われていたのも、弱っていたからというより、本体にするのにより適した状態に仕上がっていたから?
結果的に、候補の魔物はトロイの肉体を乗っ取れず撤退した。そして次善の予定通り、トロイはグレイスのものになった。――そういうことだと思う。
それらの行動はつまり、グレイスの目的がほぼ達成したことの証明でもある。
さっきカッサンドラが言った通りに。
「タイムリミットは、次の春……」
異世界から、魔物の一斉進行が始まるという。なんだか、ひどく現実離れしていてイメージができない。
その頃、私はどうしているんだろう。どんな役割を果たすことになるんだろう。
今のままの、ただのグラディス・ラングレーでいられるんだろうか。
今はたまらなく、平和な学園生活が恋しい。
一人になりたかったのに、やっぱり急に寂しくなってきた。
冷えた体を、引きずるように水面から上げる。
タオルがない。髪を絞ってから、ドレスの隠しポケットを探る。
御守り代わりに持ち歩いている、クリスとロレインとお揃いのハンカチ。
確か前回、ここで不安になった時も、これを手にして心を奮い立たせた。
「ゴールが見えたのは、悪いことじゃない。お姉ちゃん、もうひと頑張りするから」
自分に言い聞かせる。
ハンカチで顔と体を拭き、ボロボロの汚れた衣服をまた身にまとう。さすがに穴だらけのタイツはもう無理だった。
ドレスの前面が、トロイの血で真っ赤に染まっていた。
今はこれを着て帰るしかないけど、あとでランドール家に届けよう。
この国は、魔物に食い散らかされて死ぬ人もそれなりにいて、その場合、埋葬にはわずかでも残った部分を使う。血肉がこびりついた遺留品はもちろん、時には血の染みた土や草木を搔き集めることもある。
トロイの体は、地面に流れ出た血すら含めて、グレイスに持っていかれてしまったから、これだけが、唯一遺された彼の一部になる。
着てたドレスを脱いでそのまま人に贈るのもどうかと思うけど、たった一つ遺されたものだけでも、家族の元に返してあげたい。
正確に言えばドレス以外にも血を吸ったものがあることはあるんだけど、さすがにタイツと下着はねえ……。いくら私でもそこまでは勘弁してほしい。
あくまでも深刻な話だけに、渡された方だって反応に困るわ。息子の棺に女の下着一式って。
タイツ以外の全部を身に付け終わってから、足元を見てはっとする。
「あれ?」
後で洗おうと思って地面に置いておいたハンカチがなくなってた。ちょっと焦って、辺りを見回す。
「あっ!」
少し先の水面を漂っていた。着替えの途中で、うっかり蹴り落してたのかもしれない。注意力が散漫すぎる。
「――ああ……ホントに、何やってんだ……」
本当に今日は、やることなすこと全部ダメだ。
こんな些細なことでも、自己嫌悪でまた気分が落ちる。やっぱり今はメンタルが最悪だ。
ともかく双子からのプレゼントをなくすわけにはいかない。少しずつ流れて行ってるけど、まだ膝の高さくらいのとこだ。靴だけ脱いで、スカートを膝上までまくり上げてから、慌てて中に飛び込んだ。
できるだけ裾を濡らさないように気を付けながら、ザブザブと追いかけて、なんとか掴み取ったその瞬間――。
「グラディス!!」
いるはずのない人の声に、振り返る。
息を切らせたキアランが、そこにいた。
なんとかシリアスの底を乗り切りました。
おふざけ・ワルノリができず、モチベーションが下がってきつかったです。午後のパレードを聞いて気を取り直し、頑張りました。
やっとハイテンショングラディスに戻れます。多分。




