願いの結末
黒い靄が完全に消えると同時に、魔法陣から光が消え失せた。
何事もなかったのように、元の樹林に戻る。
それどころか、今まで漂っていた澱んだ気配が消えている。
重苦しい特殊な呪縛が。
――それが意味することは……。
ありったけの勇気を搔き集め、唇を噛みしめてぎこちなく振り返る。
息を呑んだ。
どれだけ私を恨んでいても、すべて受け入れる覚悟だった。
けれどそこにあったのは、やっと解放されたような、穏やかな表情で――まるで微笑んですらいるような。
もう軽薄な笑顔も斜に構えた皮肉も、二度と見られない。あんなに鬱陶しいと思っていたふざけた口説き文句も、もう、二度と……。
「――トロイっ……っ。ああっ、ああああああ!!!」
こらえきれず、慟哭した。自らの血だまりの中でもう動かなくなったトロイを抱きしめる。
「トロイ、ごめんっ、ごめんっ!!」
それ以外の言葉が出ない。
私は誰よりトロイを理解してたのに、理解していると、伝えることをしなかった。
共感する人間が傍にいるだけで、苦しみから救われることはあるのに。
でも、もう遅い。今度こそ何もかもが。――私は間に合わなかった。
息を引き取る瞬間すら、触れるほど傍にいた私にも顔を背けられたままで……まともに看取られもせずに、一人で逝かせてしまった。
――あんたと、出会わなければよかった……。
最期の一言が胸に突き刺さる。どんな思いで、それを言ったのか。
「グラディス!」
遠くから声がした。いや、距離はきっと近いんだろう。
最初に聞こえたのはキアランの声。それから、家族と、他の人の声も。
あれほど待ちわびた救助隊の足音が近付いてくる。
左手の赤い石が、役目を終えたように光を消した。私の紫の石を呼び寄せてくれていたらしい。
でも、今は喜びも湧きあがらない。ひどく現実感がない気がする。
みんな、私たちを取り囲むようにして、想定外の現状に足を止めた。一目見れば分かる、後味の悪い結末に。
後悔が次々と押し寄せる。
ああ、あともう少し――もう少しでいいから、時間を引き延ばせていたら。
語り合うより、救助が来るまでただ逃げ続けていればよかった? 心を動かすよりも、まずは力尽くでの捕縛を優先させるべきだった?
私はまた失敗したのか……。
「――そ、そんな……」
ここまでジェロームに背負われて連れてこられたアンセルが、よろよろと近付き、それきり言葉を失った。
私はトロイを抱きしめたまま、顔を上げられない。上げられないのに、こんな時ばかり、周囲の光景が頭の中でクリアに見える。
今頃、何の意味もないのに。
アンセルの呆然とした顔が、胸をえぐる。寄り添うジェロームと、硬く目を閉じて立ち尽くすルーファス。
「ああ、よかった、追い付きました!」
突然ユーカの声がした。
小屋で留守番を命じられてたらしい。
ただでさえ魔術が使えない場所では、戦力にならない。その上、敵対したとはいえ、相手は丸二年間世話になってきたトロイともなれば、無理もない判断だ。魔物相手なら危険はない特殊体質だし、むしろ安全といえる。
でも結局待っていられず、一足遅れて転移で跳んできてしまった。
「なんでだか、急に魔術が使えるようになったんで……え……?」
役立つ気満々でやって来て、ここの状況に気付き、絶句する。
「え、ちょっと、トロイさんっ……怪我っ、足がっ……早く治療しないと……っ!!」
助けを求めて周囲を見回す。誰も視線を返さなかった。
「……もう、手遅れだ」
「――っ!!?」
マックスの返事だけが、重く耳に届く。
息苦しい沈黙の中、トロイを中心に再び魔法陣が広がった。
「っ!!」
直後には、私はトロイから引きはがされ、トリスタンに抱えられていた。
ユーカ以外が、反射的に戦闘態勢を整える。
けれど敵が現れることはなく、光の中、トロイの体は引き込まれるように消えていった。
「トロイっ!!」
アンセルの悲痛な声が響き渡った。
そして今度こそ、何事もなかったかのように、通常の樹林の姿へと戻った。
「――トロイは、一体、どこへ……」
呆然と呟くアンセル。
「グラディス……?」
私は無言で、トリスタンの腕からもがいて降りた。
改めて見た私の姿に、周りが息を呑むのが分かる。
血と涙でボロボロの顔に、乱れた髪。トロイの血を全身に浴び、所々破れたドレス。
視線を受けながら、助けに来てくれたみんなを、初めて一通り見回した。
トリスタン、ジュリアス叔父様、マックス、クエンティン、ジェローム、ルーファス、ユーカ、キアラン。
強力な魔物との戦闘なんて大仕事の直後だったのに、私のために、こんなに早く駆け付けてくれた。結果はこうなってしまったとしても、あるのは感謝だけだ。
みんな、何があったのか分からずに戸惑っている。私しか、伝えられない。
そして、アンセルの前に立つ。
我が子を失った教え子に、分かることだけでも伝えてやらないといけない。疲れ果てた体に鞭打って、気力を奮い起こす。まだすべきことが残っている。
今は、呆然としてる場合じゃない。
「多分、グレイスに引き戻された。トロイは、グレイスの生贄だから……」
あの二人は繋がっている。トロイは今度こそ、グレイスにとって正しい使い方をされたんだろう。もう利用価値がなくなったから。
だから、多分今頃は……。
「いけ、にえ……?」
唖然とした呟きに、こらえきれない涙がまた流れ始めた。
息子は今頃魔物に食べられてるだろうなんて、どう伝えればいい?
でも、私の言葉と態度で、正しく伝わったようだった。
「――それでは、トロイの遺体すら、もう……」
それ以上の言葉が続かず、俯いて悲しみをこらえていた。
「ごめん……私はまた、失敗した」
今は、取り繕う気にもならない。ただ、衝動のままに言葉が口をついて出た。
「なぜ、君が謝る。あいつの親として、私こそ君を危険にさらしたことを謝罪しなければ……」
悲痛な表情で、それでも私に謝ろうとするアンセルを止めた。
首を横に振る。
私がいなかったら、こんな結果にならなかったんじゃないか――その思いが、どうしても拭えない。きっとそれは事実だから。
「トロイの心を、救ってやれなかった……ごめん……アンセル、ジェローム、ルーファス……私は、取り返しのつかない結果を……」
「違います!」
謝る私に、ルーファスが歩み寄って両肩に手をかけた。
「あなたのせいじゃありません! 何があったのだとしてもっ……それは全てトロイがっ、自分で選んで、進んだ結果なんですっ。あなただって、全知の神じゃないっ。何もかもの責任なんて負えるわけがない! ――どうか、ご自身を責めないで、ください……っ」
苦しそうな声を振り絞って、何とかなだめようとしてくれる。責められない方が、余計に辛い。
アンセルが目を見開いて、食い入るように私を見た。
その後ろで、ジェロームが口元に手を当てて愕然とする。
「――ま、まさかっ……」
信じられないといった様子で、トリスタンやクエンティンに視線を向ける。
――グラディス。
不意に、呼ぶ声が聞こえた。随分久し振りに聞く声だ。
「――カッサンドラ?」
答えた瞬間、私は一人で転移していた。




