いくつかの未来
一度は水没の危機にさらされた闘技場から、30センチほどまで水位を下げたところで、ユーカの作り出した転移魔法陣は光を消した。
全部じゃないけど十分だ!
魔力の大半を使い果たしたユーカが、集中を切らしたのと同時にぐらりと脱力した。
傍に付き添っていた私は、すぐに抱き留める。
「お疲れ様、ユーカ。ありがとう。よくやり切ったね。この歓声が聞こえる?」
「……え?」
完全に術に没頭していたユーカは、そこで初めて自分を取り巻く熱狂の渦に初めて気付いたみたい。
闘技場の観客席の目が全て、自分に向いていることに。そして感謝と褒め称える声に。
「グラ、ディス……?」
「あんたがみんなを助けたんだよ。ここにいる誰にもできないことを、あんたがやってくれた。素直に称賛を受けていいよ。この声は全部、ユーカのもの」
戸惑って視線をさまよわせるユーカの耳元に囁いた。大きく見開いた黒い瞳が、私に戻る。
「今まで、よく頑張ったね。ユーカが、立ち止まらずにやってきた結果だよ」
その目に、見る間に涙が滲んで零れ落ちた。
「うう、う……グラディスっ……ありがとう……」
感極まって言葉が続かず、ユーカは私の胸に顔をうずめ、力強く抱きついた。
「ふふふ。ユーカはお礼を言われる立場だよ」
落ち着かせるように背中をなでながら、ユーカを傍の座席に座らせる。
「少し休もう。あとは、他の人たちに任せて」
ユーカの肩を抱いたまま、一緒に腰を下ろして顔を上げた。人垣に埋もれて、観衆の注目が遮られたところで、エリアスに目配せする。
まだ、終わってないんだよな。
さっきから、水の中には三つの魔法陣が重なるように見えてた。
一つ目は、水を送り込んできた敵側の転移陣。
二つ目は、それを転送したユーカの転移陣。
そして三つ目。すぐ傍で、預言者の一団が祝詞を唱え続けているおかげで、何とかここまで抑えられていた陣が、ついにその抑止力を突破して、光を放ち始めた。
今度こそ、召喚陣だ。
本当は、水没の大混乱の中で召喚の予定だったんだろうね。預言者チームの妨害がなかったら、水と魔物の挟み撃ちになってたとこだ。水中で呼び出そうとしたんだから、水関係の魔物かな? だったら水位30センチまで下がった現状、こっちが大分有利になったはず。隙間からどんどん漏れて減ってるし。
とにかくこれでやっと、やる気満々の騎士の皆さんの出番がやってきたわけだ。見回せば、一般人が避難していく中、さすがの気構えで、すでに光の中心を見据えている。
それより退避中の人たちの表情がキラキラ輝いてるのには困ったもんだ。きっと外に出たら自慢合戦が始まる。スゴイ現場に居合わせたと。こっちはこれからが本番なのにね。誘導員が、野次馬根性で残ろうとしてる奴をぶん殴ってる。いいぞ、もっとやれ。
水面から最初に飛び出したのは、蛇の頭だった。それもカバの頭くらいデカイやつが、一つじゃなくて、うじゃうじゃうねうね増えてく。水蛇の大群か? と思ったら、根元で恐竜みたいな巨体に全部くっついてた。
最終的に全貌を現したのは、闘技場いっぱいを占拠する超大型魔物だった。
首、多すぎ!! 50~60本? ――首の単位なんて分からんけど、それくらいヨユーである。よく絡まないな。脳味噌も同じ数あるのかな。阿修羅像とかも昔思ったけど、脳の処理どうなってんだろ。これで一頭とか、生物としてオカシイ。
確かヒュドラだったかな? なんかゲームで見たヤツに似てる。あれは火属性だった。まあ現実で属性もないだろうけど、これは水の中で力を発揮するタイプらしい。ヒレっぽいの付いてるし。
ホントに洪水の最高潮でコレが出てたら、えらいことだったよ。
それぞれの首が、鞭みたいにしなって伸び縮みしながら、早速捕食にかかる。召喚したての魔物は、大体腹ペコか気が立ってるみたい。ほぼいきなり人間を襲いだす。
人間への攻撃が遠慮なく始まったけど、すでに迎撃態勢は万全。公爵よりランクは落ちるとはいえ、一線級の騎士、魔導師で取り囲んで、着実に対処し始めた。
私はユーカと並んで座って、それを観戦中。戦闘に入った状況じゃ、下手に動くよりVIPでまとまって護られてた方が安全。
何故なら、前列にユーカがいるからね。非戦闘職のお偉いさんとか、役割を終えた預言者グループも、みんなひと塊になった。
ユーカは体質的に、魔物から同族と認識される。魔力はほとんど使っちゃったけど、自前の黒い瘴気で特殊な結界を張ってくれてて、魔物の意識がこの一角にだけまったく向かない。じっとしてさえいれば、襲われる心配はないだろう。
ヒュドラの傾向を見ていると、やっぱりほぼゲームのイメージ通りの『ヒュドラ』。薄紫に色づいた毒霧は魔術師が対処しつつ、騎士が首を斬り落とす流れ作業な感じができあがってる。
でもまだ手に入れたばかりの肉体と、元々の精神体が、完全に馴染み切ってないのかな。切り落とされた頭部は、黒い靄に戻って空に掻き消える。そして頭を失った首は速やかに再生。一昨日見た、グレイスと同じパターンだ。
あまりダメージを与えられてるようには見えないけど、かすかにサイズダウンしている。ここに縫い付けたまま、数の暴力で根気強く削り続けていけば、なんとかなりそうだな。
アレ、単体より、頭ごとに体が別だった方が、絶対収拾付かなくなって厄介だった。首の根っこが紐づいちゃってるせいで、本体の足止めが容易だ。
それより、さっきから気になることがある。
一仕事終えて、放心状態で私に寄りかかってるユーカ。
どうもさっきから、ヒュドラの傷口から漏れ出る黒い靄の残滓を、その身に取り込んでいる。消耗したせいで、無意識に体が回復を求めてるみたい。
ユーカの力の源は、異世界を突き抜ける間に、魔物の本体である精神体を吸収したことだと、私は思っている。ユーカ本人にもそう説明している。
今それに近いことを再現してるってのは、その感覚を呼吸のように体で覚えてると考えてよさそうだ。
グレイスが人間の体を持った魔物とするなら、ユーカは魔物の力を持った人間。まあ、ただの言葉遊びだね。結局どっちも同じ定義のもの。心の在り方が、正反対なだけで。それが一番重要なんだけどね。
ともかくユーカのおかげで、油断しなければこっちは何とかなりそう。
そうすると問題はネル湖の方だ。さっきから、途轍もなく嫌な気配が伝わってくる。
こっちの危険度がひとまず落ち着いたのを確認した上で、向こうの様子に意識を向けてみた。
最近、能力が更に上がったのか、妙に向こうの存在を感知しやすくなった気がする。一昨日も突然グレイスの出現を予見したし。
ユーカにがっつり触れてる今なら、もっとイケるはず。
「――えっ!!?」
気を抜いていたわけでもないのに、突然背筋が凍り付いた。
脳裏を駆け抜けたいくつかの未来のビジョン。
その中に、絶対にあってはならないものが見えた。




