天才
今、私の目の前で信じられないことが起こった。
その光景をしばし唖然と、見開いた目に焼き付ける。
教室で、切り替え休み時間中の出来事。
多分日直なんだろう。次の授業の資料や教材を、前が見えないほどに両手いっぱいに抱えた女の子が、横開きのドアを足でスライドさせて入ってきた。
それはいい。お行儀は悪いけど、私も一周目ではよくやった。かつて体育大時代、荷物と飲み物で両手が塞がってた私は、次の講義が始まるまで時間を潰してようと、教室の扉を足で勢いよく開けた。そしたらなんと、まだ前の講義の真っ最中。教授と100人近い学生に一斉に大注目された恥ずかしい思い出もあるくらいだ。あの時空気を読んで扉を閉めてくれた通りがかりの人、ありがとう。
それはともかく、私の度肝を抜いた出来事は、その次。
その女の子は、何もない場所で自分の足に引っかかって派手にすっ転び、教材類を盛大に宙にバラ撒き、傍にいたクラスメイトの男子3人を巻き込んでその上にダイブした。
ちなみに教材類は、宙にあるうちにマックスとヴァイオラが手早く回収していた。いや、彼女を助けてやれと。キアランが席を外してて残念だったね。
この驚きを誰と分かち合おうか。それは決まっている。
視線を向けると、同じタイミングでユーカと目が合った。
「『ドジっ娘』ですよ! 『ドジっ娘』っ!! 10点満点あげたいくらい見事な出来映えの『ズッコケ』でしたよ!? しかも男子3人も『道連れ』とか、どんだけ『真性』ですか!?」
だよなっ!!?
キラキラと目を輝かせたユーカが、私の言いたいことを全部言ってくれた。所々日本語が混じるのは、せめてもの気遣いか、それとも該当する単語がないからか?
「しかも『ラッキースケベ』です! リアルで初めて見ました!!」
顔、胸、下半身と、それぞれが見事に男子3人に乗っかってる。
ユーカが興奮してキャーキャー言ってる。はしゃぐのも無理はない。っていうか、私も内心大はしゃぎだぞ。
実に貴重なものを見せてもらった!!
そもそも私の周りにはいないタイプだもんな。仲間は騎士が多いし、そんなラッキースケベを巻き起こすようなどんくさい奴、命がいくらあっても足りないって。非戦闘職だって、ユーカみたいな運動神経抜群とか、ノアみたいな要領いいタイプとかだし。
だから目の前の出来事は、もの凄く新鮮だった。
ちなみに我がスパルタ学園では、この程度のことで心配して駆け寄ってあげるような軟弱教育はしていない。それぐらい自分で対処しろという方針だからね。ユーカもすっかり染まったな。けっこうなことだ。なんだかんだで人並外れた苦労人だもん。図太くもなるよね。
あれは確かベルタという子。平民からの入園だから姓はないはず。赤い巻き毛にそばかすが特徴で、見た目だけならそのまま某有名ミュージカルの舞台に立てそうな子だ。
彼女はのそのそと、細身の体を起こして立ち上がる。
「ケガはないか?」
ちょうど教室に戻ってきたキアランが、役立たずの野次馬な私たちの代わりに声をかけると、ベルタは無表情で頷いた。
「大丈夫です。みなさんごめんなさい」
何事もなかったように、マックスとヴァイオラから教材を受け取り、平然と準備に戻る。取り残された男子3名が、尻もちをついたまま呆気に取られている。
面白い子だなあ。
30年の教師生活でも、10年に一人くらい見たかな、ああいう子。一芸だけぶっちぎりで秀でて、それ以外はお粗末で興味もなく、眼中に入れたくても入らないという変人の天才だ。ちなみにトリスタンもその一人。
この子の場合は、数学。その一点のみが突き抜けていたおかげで、庶民ながら、とんでもない競争率を勝ち残って入園を果たした子。
ただ、それ以外が全然ダメ。あまりに注意散漫で、優秀な人材だらけのこの学園ではちょっと浮いちゃって、孤立気味なところがある。
本人も喜怒哀楽の表現が平坦なタイプだから、余計、取っ付きにくく見えて敬遠されるんだよな。私も仲間内以外からは遠巻きにされがちだから、ある意味お仲間だ。その理由は正反対だけど。
私から見ると、不器用が過ぎるだけの普通の子なのに。あ~あ、仕事しながら落ち込んでるじゃん。無表情だから分かりにくいんだよな。まあ、頭撫でて慰めるなんてしないけどさ。
学園を上位の成績で卒業できれば、更に上の大学に進めて、自分の特性に合った研究職とかに就くこともできる。バルフォア学園は、庶民には夢に手を届かせ得る途轍もない大チャンス。ただし自己主張できない大人し目の性格には、相当きつい環境だ。こんな調子で、3年間乗り切れるのかね?
なんて思ってたら、早速その日の午後の選択授業への移動中、トラブルに遭遇した。
次の授業は、仲間が誰もいない。一人で廊下を歩いてる最中、なんか嫌な予感を感じた。普段通らない通路に向けて、わざわざ遠回りをしてみる。
人気のない階段下の奥で、明らかに因縁を付けられているベルタに遭遇した。貴族の少女3人に囲い込まれて、無表情で固まっている。それをいいことに、少女たちはストレス発散とばかりに言いたい放題だ。
学園は建前では立場は全員対等だけど、それだけに実力がものをいうシビアな世界だからね。身分以前に、弱ければ目を付けられて、面白くない目にも遭う。
まして天賦の才を持った庶民とか、やっかみもあるし目障りな存在だろう。いろんなやり方でライバルを潰すのは、ここでは『アリ』なんだ。
私は立ち止まり、後ろから無言で観察していた。気配に気付いた一人が振り向いて、私の存在にぎょっとした。連鎖的にみんなが振り返る。
「こんにちは?」
笑顔で挨拶をすると、3人は面白いくらい顔色をさあっっと青くした。
「ご、ごきげんようっ。大変っ、次の授業に遅れてしまうわっ」
などと上ずった声で呟き、そそくさと私の横をすり抜けて去っていった。
――私はどんだけ危険人物扱いなんだよ。
まあ、正しい判断だ。噛みつく相手を見極める目を養うのも、この学園における重要課題だからね。
「あなたも次の授業は統計学でしょ? 私も一人なの。一緒に行きましょ?」
通りがかりに普通に出会ったかのように、何気なく誘う。さっきのいざこざに関しては、私が口を出すところではない。ベルタ自身の問題だ。
「――は、はい……」
ベルタもぎこちないながらも淡々と答え、私と並んで歩きだした。
「あ、あの……ありがとう、ございました……」
少し歩いてから、微かな声が聞こえた。
「あなたは困っていたの?」
わざとらしい質問をする私に、ベルタの表情は微かに曇る。
「どうしてやり返さないんだって、思うんでしょうね」
――あなたのような人は……って言葉が聞こえてくるようだね。私は弱肉強食の頂点付近で好き勝手やってるタイプだからね。
「ふふふ。嵐のやり過ごし方は人それぞれ。私が口を出すことじゃないわ。3年間で、自分のやり方を探ればいいんじゃない? そのための学園よ」
私の言葉に、今度はちょっと目を見開く。うん、よく見れば、表情はちゃんとある。自分を否定されないことに慣れてないんだろうな。ほっとしてる。
いくら数学の天才っていったって、授業以外の実生活に生かせる機会がなかなかない特技だもんな。今までよっぽど周りからバカにされてきてるんだろう。諦観が見える。天才のくせに、どうして自信を持たずにいられるのか、逆に謎だ。
「あなた、ショーギはやるの?」
ふと思いついて訊いてみる。
「いえ、経験ありません」
ザカライア時代に開発した『ショーギ』。貴族とか富裕層には広がったけど、未だに下層には普及してないんだよな。もったいない。
「じゃあ、今日中に図書館で本を借りてルール覚えて。明日私とやりましょう」
「……えっ? ええっ……?」
「決まりね。私とまともに指せる相手が欲しいのよ。ちゃんと覚えてきてね」
戸惑うベルタに強引に押し付けて、一緒に次の教室に向かった。