日本人少女
感情に振り回されてる。自覚してても、激昂が収まらない。
怒りも、私が意図的に捨てていた感情の一つ。この世界に転生してから、こんなに怒ったことがなかった。今までのように、なるようになるさと、へらへらする気が起きない。
闘技場の中央で、敵意と衆目を一身に浴びているのは、どう見ても普通の、平凡な日本人の女の子。恐怖と絶望に、ただ打ち震えるしか術がない。
きっと平穏な日常を送っていただろうに、己の身一つ以外の全てを、突然理不尽に奪われた。言葉すら通じない異世界に、誘拐紛いにいきなり放り込まれた。まったく関係ない何者かの、一方的な思惑による召喚魔法によって。
目の前の少女を見ていると、どうしても自分と重ねてしまう。いや、家族も知識も何もない分、私よりはるかにひどい。あの子のこの先の葛藤を、今から理解できて、見ていられなかった。
煮えくり返るハラワタとともにぐるぐると回る思考が、そこで唐突に断ち切られた。
「っ!?」
後ろから来たトリスタンに、いきなりガバッと抱え上げられたせいで。さっきまでしがみついていた叔父様とマックスが、流れるように脇にどいてる。
「式典は中止みたいだし、特にやることもなさそうだからもう帰ろうか」
ずっと興味なさそうに観察していたのに、急に引き上げを提案してくる。確かにその意見に否やはないけど、行動が意味不明だ。
「それは構わないけど、なんで今お姫様抱っこをする必要が?」
とりあえず首に腕を回しながら、至近距離のトリスタンに問いかける。もう子供体型じゃないから、これをやられると恋人同士みたいになるんだけど。
「ご機嫌斜めの愛娘はだっこするもんだろう? 怒った君は苦手なんだ。みんなも怖がるよ?」
「――!」
普通に訊けば、娘に弱くて甘い親バカ発言。でも、知っている者だけが分かる別の意味がある。
はっとしてさりげなく周囲に目線を配ったら、ルーファス、ロクサンナ、クエンティンが、どことなく戸惑った顔をしていた。ジュリアス叔父様とマックスも、心配そうにのぞき込んでいる。
自分の失態に気付いて、深呼吸で意識を切り替えた。
ただでさえ騎士というのは気配に敏感なもの。まして私はこれまで、本気の怒りの感情なんて見せたこともない。彼らにとっては、ザカライア先生の……というより大預言者ザカライアの激怒を、初めて目の当たりにした心境だろう。
アリの魔物の時ですら平然としていたのに、あの少女の出現は、それほどの事態なのかと思わせても仕方ない。
ごく個人的な事情で感情的になって、周りに余計な気を回させてしまったのは、考えが足りなかった。反省。
それにしても、学生時代散々叱ってやったトリスタンに言われると、説得力があるな。
「ちょっと、あのデザインのドレスで先を越されて、悔しかっただけ」
適当な言い訳をして、もう一度少女の方を見た。
差し迫った危険なしと判断されたのか、騎士たちの包囲網が縮まり、少女が両脇を拘束された。
攻撃対象が確保されたところで、一部始終を見守っていたアイザックが、闘技場に降りてくる。その視線が、私を捉えた。
私はかなり強い視線を、アイザックに叩き付けた。
丁重に扱え、という意味を込めて、少女に一番当たりの強い騎士を睨み付けてから、視線を戻す。
もう一度目が合えば、目配せの意味が伝わったのが分かる。さすが半世紀の付き合い。
アイザックは指揮官に指示を出し、まもなく少女の扱いから目に見える乱暴さは消えた。
「帰ろう、お父様」
しがみついたまま、トリスタンを促した。
今やることはもうない。あの少女をこの場所に召喚した犯人は、まだこの場所にいるのだろうか。もしかしたらとっくに満足して、さっさと帰ってしまっているのかもしれない。いずれにしろ、長居は無用だ。
「自分で歩けるから降ろして」
「俺の楽しみなんだけど」
「ロレインとクリスがいるでしょ」
「君は世界で一人だけだから」
結局トリスタンは、周囲の呆れた視線などお構いなく、闘技場を出るまでは私を降ろさなかった。
馬車に乗り、帰途につきながら、この先のことを考える。
私も帰ったら、早速できることをしよう。
できることは限られるけど、さしあたり手紙を書くつもりだ。
こうなると、アイザックに私の正体が見抜かれていたことは、好都合だったのかもしれない。何も言ってこない以上、私を大預言者に担ぎ出す意思はないだろうし、できる限りの協力はしようと思う。アイザックとエイダの連携が可能なら、大分やりやすくなる。
まず一つ、少女は被害者であり、犯人の手先ではないことは確信している。彼女を召喚した理由は、まだ分からないけど。
この世界のことを何一つ知らない、異世界の少女。この先ずっと厳重な警備が付けられるのは仕方ないけど、せめてこの世界で平穏に暮らしていけるだけのサポートはしてほしい。
まず何より必要なのは言語教育だ。教師には、トロイを指定する。ルーファスの従兄弟の、元日本人転生者。会話できる人間が一人いるだけでも、安心できるだろう。
アイザックとしても、言葉の通じない異世界人から直ちに事情聴取できるのは助かるでしょ。
トロイはまだうまく立ち回れなかった幼児の頃に、日本語という謎言語をしょっちゅう不用意に披露してた実績があるから、家族に打診すればスムーズに運ぶはず。まして父親は宮廷魔導師長だし、必要とされれば進んで、部下でもある愚息を進呈してくれるだろう。
トロイには面倒を押し付けることになるけど、相手は若い女の子だし、まあ、役得とでも思って頑張れと。むしろあのナンパ野郎に、少女の方が迷惑被っちゃったらどうしよう? そっちが心配だ。
悪いけど、私は表舞台に出るつもりはないからね。敵勢力との駆け引きの上でも、まだ当分彼女に近付くつもりはない。少なくとも彼女の存在理由が分からないうちは。
でも、陰ながらできるだけの援助はするつもりだった。
異世界から召喚された少女、フジー・ユーカの世話役の一人に、宮廷魔導師トロイ・ランドールが決定したのは、数日後のことだった。