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海の辺

作者: ノタ

しばらくぶりに顔を合わせた男は、突然に海へ行こうと言い放ち、有無を言わせず強引に僕を引っ張っていった。


潮風が頬を撫でる。雄大に広がる水の大群はオレンジ色に染まり、きらきらと眩しいくらいに輝きを放っていた。水平線に夕日が半分だけ覗いている。


海に来たのなんて、もう何年ぶりだろうか。海岸線を有する街に生まれ、小学校中学校、そして高校とも地元のものに通っていたが、海へ足を運ぶことはほとんどなかった。今は、地元を離れ都会の大学へ通っていて、大学三年の春休みの最中であるが、もちろん大学に入ってからも一度も訪れたことはない。小学校の低学年の時の行事以来かもしれない。あまりにも久しぶりに嗅いだ潮の匂いに、漠然とした懐かしさと、時の流れの速さになんとなくもの悲しさを感じる。


「どう?大学は」


隣の男がふいに尋ねてくる。砂浜に座って、砂を掬い上げてはさらさらと落して山を作っている。強引に連れてきた割には特別何かあるというわけではないようだった。男とは、同じ高校を卒業して以来一度も会っていなかった。卒業してからしばらくは連絡をとっていたが、最近はそれもめっきりなくなっていた。それが一昨日、男のほうから突然に会わないかと連絡がきて、今に至る。


「…あんまり、楽しくないかも」


正直に答えた。男、もとい幼馴染に対して変に取り繕った返事をしたってどうしようもない。


「そ。まあ、あと一年の我慢だね。頑張れ」


あっさりと慰められる。切り捨てられただけとも取れる言い様だが、この男はだらだらした会話が嫌いなだけなのだ。この素っ気ない言葉のせいで、過去にどれだけのいらぬ確執を引き起こしたのか、わかったものではない。


「うん。頑張るよ。それで、おまえはどうなの」


たったの一言で自分の近況報告は終ったし、男の返しも一言で終わった。でもさみしいとか、つまらないとは思わない。この男の言う通りだったし、これ以上の慰めや応援がほしいとも思わなかったので、自分から切り上げた。短くても素っ気なくても、男の誠実な言葉がもらえたので、それで十分だった。


「俺はね、最近調子がいいよ」


砂を弄っていた右手を顔の前に持ってきて、人差し指を動かしてその仕草をしてみせる。男はカメラマンで、風景画を専門にしていた。それも主に地元の風景を撮っているらしい。男の出版した写真集はそこそこ売り上げがいいらしく、地元の書店で特集されているのを帰省時に見かけていた。購入はしなかったが。


「そう、よかった。評判いいらしいな、写真集」


「ああ。この間も、地元のローカル雑誌で紹介されたんだ。ほんのすこしだけだけど」


ニッと笑う男の笑顔が眩しかった。夕日よりも、よっぽど眩しく感じた。きっと彼は充実した日々を送っているのだろう。その笑顔には一片の陰りも見当たらない。


思わず顔をそらしてしまう。見ていられない。あまりにも自分と対照的だった。きらきらと輝いていて、その輝きがどうしようもなく羨ましい。その輝きは男自身の努力の成果だ。お門違いなのはわかっている。でも僻む気持ちが渦巻いてしまう。


「おまえみたいな生き方がしてみたかったな」


つい口に出してしまう。特に興味もなかった分野の大学へ進学し、だらだらと無意味に毎日を過ごしてきた。夢も目標も作らず、過ぎていく日々の貴重さに気づくこともなく、ただ行き交う周りの景色をぼんやりと眺めていた。気づいたら、自分はもう、なにものにもなれなくなっていた。ただのあわれなななまけものだった。


落ち込む自分を見ていた男は苦笑していた。男はなんとなくその理由を理解しているようだった。しかしながら優越感をあらわに責めるでもなく罵るでもなく、男はただ静かに隣にいた。もとからそんなことをするようなやつではないことはわかってはいたが、それがとても嬉しかった。


「…実は俺ね、週一でここにきてるんだ」


男は静かな声音で話す。おまえはずいぶん久しぶりみたいだけど、と付け加えられる。男とは小中高と同じ学校に在籍しており、休日にだってよく遊んでいたというのに、初耳だった。


「小学5年あたりからずっと通ってる」


「小5から?知らなかった。なんでそんなことしてんの」


「教えてほしい?」


男にしては変な言い方だった。長ったらしい会話が嫌いで、尋ねられる前にさっさと顛末を話すような男が、悠長にこちらの反応を窺っている。こちらを見つめてくる瞳には、緩やかな笑みがのっていた。


「…教えてほしいけど」


わざわざ教えてほしいかと聞かれて、素直に教えてほしいと乞うのに些かの躊躇いが生じたが、気にはなるので素直に答えた。


「おまえは覚えてるかな。小5の頃に、一度だけ二人でここにきたこと」


言われて少々驚く。先ほど考えていたとき、海にきたのは小学校低学年以来だと思っていたのだが。男と海へ訪れたときの記憶は残念ながら全く残っていなかった。


「覚えてないよな。まあ、昔のことだし」


少しだけ男の声音が沈んだような気がした。相変わらず笑ってはいたが、苦笑いのように見えた。緩く笑みをのせた目元がほんの少し色を変えて、細められた。


「俺もなんで海に行ったのかはもう忘れた。でも、俺とおまえの二人だけで、学校帰りの夕方の…日が沈みかけた頃に、ランドセル背負って行ったんだ」


遠い記憶を手繰り寄せてみる。あの頃の僕らは、本当にいつも一緒にいた。家も近所だったから、登校も一緒で、学校でもクラスが違った年であっても休み時間になればクラスメート達に混じって一緒に遊んだ。下校だって特に待ち合わせをしていたわけでもないが、当然のように一緒に並んでじゃれながら帰っていた。僕の小学校時代の思い出のほとんどにはこの男がいる。高校に上がった辺りから、別々の友達といることがなんとなく多くなり、なんとなく距離が開いていった。それでも会えば以前と変わらずふざけて笑いあった。いつだって、男と過ごした時間は本当に楽しかった。


「ランドセルを砂浜に放って、靴を脱いで、ズボン捲って濡らさないようにして波打ち際を走ってさ。まあ、小5のガキがそれだけで我慢できるはずもなく、すぐに全身びっしょびしょになったんだけど」


当時を思い出して、懐かしそうに楽しそうに、男は笑う。鮮明に覚えているらしい男とは反対に、説明を受けてもなお、その情景の一片さえも僕は思い出すことができない。一人で楽しそうな男が羨ましい。


「実はその頃から、俺、カメラに興味があってさ。いつもこっそりランドセルのなかにインスタントカメラ入れて、学校に持ってってたんだ。どっかで何かを撮れるチャンスがあるんじゃないかって。ビビりだったから、誰かから漏れて先生にばれるのが怖くて誰にも言えなかったけど」


「…ああ。僕、おまえのランドセルの中漁ったことあるけど、そのときに見つけたな、カメラ。たしかに」


「なにしてんだよ」


笑いながら肘でどつかれる。おまえだって僕の漁ったことあるだろと言えば、けろりとうんと返ってくる。


「僕、漁った後、カメラのことおまえにきいただろ?」


「きかれたような、きかれてないような、きかれてもめんどいから流したような」


「おい」


今度はこちらから男を肘でどついてやる。大げさに痛がって砂浜に仰向けに倒れた男は、しばらくひどいだのドメスティックだの呟いていたが、ふいに、ふうと長く息を吐き出した。


夕日はすでに半分以上沈んでいて、いよいよ星が輝き始めようとしている。そんな茫洋の空を見上げる男は、静かに口を開いた。


「あの時、赤い夕日と、オレンジ色に輝いた海を背にして笑うおまえが、すごく、綺麗だったんだ」


小5ながらにね、と男は苦笑を漏らす。突然に昔の自分を褒められて、なんだか妙に恥ずかしい気持ちにさせられた。小5の小喧しいガキ真っ盛りだった自分が綺麗だったなんて褒められても、全く信用ならない。


「だから、思わず撮っちゃったんだよね」


「その時の僕を?」


「うん」


当時のことを男は語る。あの時、男は急いでランドセルを放ったところまで戻った。濡れた手をランドセルに無造作に突っ込んでいた体操着で拭うと、カメラを取り出して、波打ち際を振り返る。そこには、男に手を振る僕が、夕日を背にして、濡れた体をきらめかせ、笑っている。呆然と見とれてしまう自分を制しながら、男はシャッターを切った。らしい。


「何気ない人物が、風景が、こんなにもきらきらと輝く瞬間があるんだってことを知ったのは、でかい衝撃だった。それまではカメラに興味があるっていっても、適当なものをレンズにおさめてシャッターきるって動作が好きってだけだったから…ほんとにびっくりしたんだ。まさか、見慣れきったおまえがあんなに…」


「そりゃよかった」


綺麗に見えるなんて、と続けられそうなのが恥ずかしくて、強引に言葉を遮る。


「それから俺はさらにカメラにのめり込んでいったよ。カメラを使うことの、本当の意味を知ったから。俺は、おまえから、夢を貰ったんだよ。感謝してる」


「…嫌味か?」


「そうじゃなくて。どんなところにも、きっかけや希望はあるってこと」


だから、めげるなよと、言外に言われた気がした。まだ自分への励ましは続いていたらしい。いつもは直接的にはっきりと物事を伝えてくる男にしては、自分の経験を話したりなんかして、なんとも遠回りな励まし方だった。こそばゆい気持ちになりながら、ありがとうと口にすれば、笑顔を返された。


「まあ、せっかく久しぶりに会ったのにどんよりしてる幼馴染には、元気になってもらいたいしね。俺がずっと気を使うのも面倒だし」


最後に余計な一言が付け加えられる。照れているわけでも気恥ずかしがっているわけでもなく、どんなに辛辣なことでも思ったままの気持ちを伝えてくるのがこの男なのである。


夕日は完全に水平線に沈みきった。水平線には名残の赤みが残っているが、頭上には一気に夜の支配が押し寄せている。夕日の熱を失った潮風の冷たさがはっきりと体に染み込んでくる。夕日の熱が恋しくなった。


そろそろ帰るか、と男は腰を浮かせた。僕も立ち上がり、服についた砂を払う。払った砂が風に飛ばされさらさらと流れていく。


海岸から道路に出るまでの間の道を、砂に足をとられないように二人でゆっくりと歩いて行く。


「今日おまえが僕をここに連れてきたのって、ただの気紛れ?」


「まあ…そうだな。暇だったし」


「そう…まあ僕もおまえと久々に話せてよかったけど」


「はは。ああ、あと実は、あの時撮ったおまえの写真、まだあったりする。というか、ずっと家宝並みに大切にしてる」


「ええ…」


男から冗談だかなんだかわからないようなことを言われて戸惑う。男の夢のきっかけを作れたのは嬉しいが、いかんせんその被写体が自分であることが、やはりどうしても恥ずかしい。ましてやそれを大切にしているだなんて。

それを知ってか知らずか、いやおそらくわかっているのだろうが、男は畳み掛けるように写真を讃え始める。


「おまえの無邪気な笑顔も子供らしくていいんだけど、からだのほうもまたいいんだ。夕日がバックだったからからだの部分はちょっと暗いんだけど、そのぶん線が際立つんだ。ほんとになだらかで、特に腰から尻、腿にかけてのなぞりたくなるような曲線が…」


現在手元にはないかの写真を思い出して、男は恍惚とした表情を浮かべる。しかしその表現の仕方になんだか嫌な予感がした。


「…あのさ。もしかしてその時の僕、裸…?」


一瞬合った視線が、ふっと逸らされる。しまった、という声なき声が男からは聞こえた。


「…まあ、それはそれでいいじゃん。綺麗だし」


「よくない!綺麗だからで済ませるな、僕のプライバシーを返せ」


「やだよ。あれは俺の始まりであり、命だ」


「気持ちの悪いことを言うな」


とんでもない事実が発覚してしまった。クソガキだった僕は服を濡らすだけでは飽き足らず、全裸になって海辺を走り回っていたらしい。たとえその写真がこの男の宝だろうが命だろうが、絶対に葬ってもらわなければならない。いくら子供の頃のものとはいえ、己の裸体を愛でられてはたまらない。


やいやいと、まるで子供のように言い合いながら、僕らは海から離れていった。


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