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98 見守りの期限(13)

 しばらくはなにも考える気になれなかった。

 家に帰るまでの風の冷たさがいつもなら心地よいのに、なぜか痛みを感じる。

 ━━風邪ひいたかな。

 ついさっき食べた喫茶店のカレーがまだ胃に持たれている。冷蔵庫から持ち出したサイダーを部屋にそのまま持ち込み、いったんグラスに入れ変えようとおもったが、あえてラッパ飲みを試してみた。むせるだけだったのですぐに諦めた。

 電子ピアノに向かい、楽譜を開いてみた。

 「モルダウの流れ」の譜面を見直した。

 弾いてみた。階段の踊り場で耳にした曲と同じには思えなかった。

 ━━あれからもう半年か。

 しばらくピアノの練習を続けた後、ベッドに横たわった。制服を着替えるのも面倒だった。目を閉じてみた。そうしないと闇が見えない。

 ━━もう二度と会うことはない。

 

 もし関崎が上手にあしらって杉本を振ってくれただけであれば、上総もそれなりに考えるところがないわけではなかった。もちろん美里に話した通り、直接連絡をとるつもりはなかったけれども、消息くらいなら花森なつめ経由で多少は、と期待していたところも否定しない。元気ですか、くらいの情報は黙っていても入るかもしれないというささやかな期待がなかったとは言いきれない。

 ━━でもそれは、条件がある。

 学校内でさんざん言われてきた、

「杉本さんは結局あのでき損ない評議委員長だった立村先輩とくっつけばよかったのよ」

「そっちのほうがお似合いだし」

「関崎や新井林みたいにレベル高い男子に憧れるなんてお笑い草」

 などという言葉をしっかり否定できる環境にあること、だった。

 ━━あくまでも俺の立場は、杉本に無視されつつもしつこくつきまとう奴として認識されなくてはならなかったんだ。それでよかったんだ。

 どんなに叶わぬ恋であっても、杉本がその相手を想い続けることができる環境を守ること、それが上総の役目だとある時から悟った。いや、杉本が関崎一直線に走り出した時から、そう思っていた。当時はそもそも上総の中に、杉本と同じような「人を思う感情」が育っているとは知らず、清坂美里の捧げてくれる想いすらうっとおしく思っていた時期だった。あの頃ならどんなに杉本にちょっかい出しても自分の中では問題なかった。しょせん、自分と杉本梨南がそういう「つきあい」をすることは絶対にあり得なかったからだった。

 ━━言いきれたのは、絶対に杉本を嫌いにならない、それだけだった。

 その約束だけは、たがえることがなかった。


 どんなに想いを寄せても報われない杉本相手に、しつこくつきまとう立村先輩、それをはねのける杉本。その構図さえまもられていればよかった。

 杉本梨南は決して低いところに馴染まず、高みを目指す。

 ━━それを関崎は。

 起き上がり、枕を殴り付けてみる。

 ━━あいつはよりによって、杉本に、俺のことを好きにならない限り、人として軽蔑するとまで言いやがったんだ。それがどんなことか、わかっているのかよ!

 たぶんわかっていないのだろう、あの、関崎の、勝ち誇った表情を見る限りは。きっと善意のかたまりでいいことをしたと信じているだろう。もっというなら、愛のキューピットをしてのけたと自負しているかもしれない。関崎のいう通り、美里を無理に引き合わせようとした行為と一緒じゃないかと言われればなにも言えない。だが、言い返したい。

 ━━清坂氏の場合は違うんだ。杉本とは違う。関崎がどう反応しようとも、清坂氏ならまっすぐ突き抜けていける。実際その通り、関崎は清坂氏を相手にしてないみたいだけど、その代わり生徒会という新しい道を見つけて、羽飛を右腕にして、ちゃんと輝きを取り戻している。俺はそれだけで十分、成功だったと思っているんだ。そんなこと、言ったことないけど。

 ぐちってもせんなきこととわかっていても、枕を殴り付けるしかない。


 ━━でも杉本の場合は違うんだ。 

 杉本梨南は約束をかたくなに守る。

 身に覚えのない濡れ衣すら、いったん話し合いの上、杉本が納得した上であればすぐに受け入れて一生口をつぐむ。そのまま受け入れて、周囲の軽蔑の目も耐えていく。藤沖の面を見るたび上総はいつも思い出し、むかむかすることこの上ないのだが、杉本が選んだのだからしかたない。上総も静かに耐えるしかない。

 佐賀はるみに、関崎に迷惑をかけないよう決して会うな、といったふうに話を持っていかれた時もそうだ。絶対に会わない。どうしても顔を合わせねばならない時はしっかりと目を閉じる。うつむく。周りが許していたとしても絶対に杉本は守り続けるだろう。

 ━━俺の知らないところでたくさん、約束していることがあるんだろう。

 すべて守り続けるのは難しいかもしれない。ただ杉本なりの筋を通す姿勢が、憎からず思えていたのも正直なところだ。だからこそ杉本梨南でありえた。決して敵に屈することなく、まっすぐに戦い続ける、たとえずたずたに叩かれたとしても。

 上総のすることは、その姿を守り続けることだった。

 それが上総のすべきことだった。

 決して、杉本梨南を「しかたなく付き合わせる」なんてことではなかった。

 

 きっと杉本のことだ、大好きだった関崎に約束させられて、悔し涙の中でその約束を守らねばならないと思っていることだろう。もっとも軽蔑すべき相手を愛さない限り、人として見てもらうことすら難しいとまでいわれたら、きっと杉本は歯を食いしばり上総を受け入れてくれるかもしれない。今会えば、もしかしたら、それなりの言葉をかけてくれるかもしれない。もしかしたら、本当にもしかしたらだが。

 ━━でもそれは、義務だ。関崎に対する約束にすぎない。

 ━━それに乗っかれというのか? ふざけるなよ。

 いやでいやでならない相手と付き合えと、杉本は周りから外堀を埋められていき、とうとう止めを刺されてしまう。今上総が直接連絡をいれたら最後だ。

 ━━だから、もう二度と、会ってはならないんだ。

 

 上総はもう一度ピアノの前に座った。「モルダウの流れ」をさらい直した。

 隣で調子っぱずれの歌声が響いたあの日を思い出した。少しだけ笑えた。

 奏でられれば、側に想い出ごとよみがえらせることができる、そう信じた。

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