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90 見守りの期限(5)

 次の日から卒業式前日まで、上総は理数系科目の追試勉強のため、野々村先生から個人授業を受けるはめとなっていた。こればかりはもう開き直るしかないのだが、中学でもついていけない状態だったのが高校に進学してからは授業の言葉がすべて外国語にしか聞こえない。本物の外国語であれば上総も自動翻訳機の誇りでもって多少は頑張ることができる。しかし、数学の公式、生物の元素記号、その他もろもろの理数系知識はどんなに野々村先生が熱く語ってくれても右から左に抜けていく。とうとう野々村先生も最後の手段として、

「無機質な記憶として、言葉を暗記するのが一番よ」

 わかるようなわからないような言葉でもって、上総に秘策を授けてくれた。

「暗記ものとして割りきるの。それが一番よ。理解しようなんて思わなくていいの。答えだけをひたすら暗記していけばいいわ」

 ━━学校の先生としてそれは言ってはいけないんじゃないかな。

 他人事のように上総も思わなくもないのだが、今はとにかく留年を避けるために死に物狂いで暗記するしかないのも現状だった。

 おかげでしばらくの間は、手のかかる弟や妹のことも忘れていられた。

 

「立村くん、一段落したところで少し休憩しましょうか」

 補習を受けている生徒たちの手前、決して野々村先生は上総を名前で呼ばない。すでに一部の生徒たちには、上総と野々村先生がピアノを通じてのきょうだい弟子だということは知れわたっている。それで多少教師としてはくだけた口調で話しかけるのだということも。もっとも野々村先生は学校にいる間、はめをはずすことはまったくない。極めて謹み深い女性教師として振る舞っている。

「あの、もういいんですか」

「教えることはもう教えました。あとは毎日の努力のみよ。ピアノと一緒」

 はにかむように野々村先生は微笑んだ。時おりこんな風に、高校生のようなしぐさを見せる時がある。声を潜めて、

「次のお稽古はいらっしゃるの?」

 ピアノの稽古のことだ。上総も合わせて頷いた。

「そのつもりです」

「そちらではゆっくりお話しましょうね」

 聞きたいことはある。ピアノを挟むと上総と接する女子、女性、みな態度がやわらかくなる。それはそれで心地いい。

 ━━本条先輩と関わりあるのか、聞く機会、あるかな。

 

 一方で古川こずえからも、教室にいる間逐一報告を受けていた。

「ねえ立村さ、羽飛たちと話していた例の集まりなんだけど」

 詳しく聞かなくてもわかる。可南女子高校生徒会長を挟む交流会のことだろう。

「あんた、参加するつもりだよね」

「清坂氏が来いって言ってるし俺もひまだし」

「チェリーボーイはすることないのよね」

 いつものように下ネタをさらっと混ぜる。無視するのもいつも通り。

「それでなんだけどさ、ちょっと日程の調整をしているとこで、ちょっと先に延びそうなんだ。本当は春休み前に集まろうかってことだったんだけど、相手さんのいることだし日がどんどん延びてるのよ。あんた、遅くても平気?」

「どのくらい延びそうかな」

 念のため確認しておく。とりあえず上総のスケジュールは、春休み前であればまだ余裕があるが、それ以降だと母に繋がる面倒くさい行事やらピアノ稽古やらで束縛されてしまう。泊まりがけということはたぶんないだろうが、やはり先が読めないと言うのはたしかにある。

「そうねえ、美里とも相談してるんだけどね、こればかりはもう少し待ってってことになりそうなんだ」

「春休みに入ってしまうと俺は参加できない可能性もあるけど」

「そうよねえ」

 困ったように口をへの字にして、古川さんは頷いた。


 麻生先生が上総に対してきつく当たるのも今まで通りだった。話によると両親には担任としての愛ゆえの振る舞いと説明しているらしいが、そんなのは知ったことではない。侮辱するのであれば無視するだけ、これが上総の今までのやり方だ。

 一方、麻生先生に可愛がられていて時おり焼き肉のご相伴にあずかっている連中……関崎とか、藤沖とか、片岡とか……は相変わらずのんびりと過ごしている。ちらちら噂に聞いたところによると、片岡は関崎の中学時代可愛がっていた後輩を青大附高に合格させるべく家庭教師を買って出ているという。藤沖は藤沖で、評議委員の仕事をそれなりにこなしつつ、中学にいる問題の女子後輩の面倒を見続けているらしい。どちらの件も上総には知ったことではなかった。

 ━━どちらにせよ、関崎とは連絡とったほうがいいよな。

 追試が一段落するのは高校の卒業式前だった。なお青大附高の卒業式はスペースの関係もあって、中学同様一年生は参加せずに教室内で待機、一部の生徒会役員、および委員会役つき生徒は手伝いのため参列を許されるが、なにもあんな寒い体育館に好き好んで参加したがる奴もそうそういないだろう。三年の先輩たちには上総もあまり覚えめでたくないので、ありがたく一年の特権を活用させてもらおうと思う。

 

「立村くん」

 授業が終わり振り向くと、美里が耳元で手を振り教室の扉を開けて待っていた。

 こういうしぐさが、別れたカップルのすることではないと思われるのだろう。これまたもう知ったことではない。すぐ廊下に出た。

「清坂氏、どうした?」

「こずえにも伝えておいたんだけどね、例の集まりのことなんだけど、今日程調整中なの」

 こずえと連携がとれていないのだろうか。同じことを繰り返し答えた。

「春休み前だったら余裕あるけどそれ以降だとちょっと厳しいかもな。でも都合はつけるようにするよ。相手の都合もあるだろうしさ」

「そうなのよ。こずえの言ってる通りなんだけど。立村くんが来てほしいのはやまやまなんだけどね、どうしても向こうの生徒会長さんが春休み以降でないと厳しいなって言ってるの」

 申し訳なさそうに美里が言う。

「それならしょうがないよな。俺も手伝える時には手伝うから、今回は無理に数に数えなくてもいいよ」

「ごめん! ほんっとにごめんね。けどどっちにせよ春休み立村くんが都合いいときに集まろうよ。それは決定だから。それと」

 美里はそっと耳元に口を近づけた。

「杉本さんには、話、したの?」

 

 ━━そうだよな。清坂氏ならそう思うよな。

 長年の付き合い、こればかりは隠すわけにはいかなかった。

「してないよ。これからもたぶん、することない」

「ちょっと待ってよ、それ、変よ。絶対変」

「向こうがそれ望んでいない以上しょうがない」

「しょうがないって、けど、立村くん、悪いけど本当にそれでいいの? 後悔しないの? もしよければ私、こずえと相談してふたりっきりになるチャンス作るよ。こずえのうちとかなら誰にも気づかれないし、杉本さんも怪しまないし」

 美里の言い出しそうなことだと密かに思う。笑顔で首を振った。

「杉本が俺に会いたくないって言っているんだから、無理じいしても無駄だと思うよ」

「悪いけど立村くん、本気でそう思ってる?」

「何が?」

 真剣な美里の眼差しに、いすくめられる。

「ほんとに本当に、杉本さんは立村くんに会いたくないと思っているって、信じてる?」

「本人がそう言ったし、杉本は約束を絶対守るから」

 たぶん美里にそれは通じないだろう。杉本の言う「約束」とは絶対的な規則であって破ると言うことはあり得ない。どんな些細なものであっても、裏切ることは許されない。たとえば、

「清坂氏、杉本は絶対に約束を守る性格なんだ。関崎の時だってそうだっただろ」

「たしかにそうだけど」

「青潟東高校に合格するまでは絶対に会わないと決めてたから、校舎が同じになっても、俺が学内で顔を合わせるチャンスをこしらえても一切拒絶してたんだ」

「知ってるよそのくらい。けど」

「俺は杉本に約束を破らせたくない。そういうことなんだ」


 不満そうな美里に、上総はあえて作り笑顔で答えた。

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