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89 見守りの期限(4)

「聞いてきたよ、音楽室だって!」

 息つくまもなく疋田さんが叫んだ。教室にふたりしかいないのが幸いだ。

「ほら、早く行こう!」

 急かす疋田さんと一緒に、

「そんなわけで、ほらりっちゃん、行こっか」

 さらっとさわやかに促す南雲。

「けど、行ってどうするって」

「行ってみなくちゃわかんないよ。ほら、先に行っちゃうよ。私なにするかわかんないよ」

 ━━確かに、そっちのほうが怖い。

 上総は立ち上がり、コートを羽織ったまま、走っていく疋田さんのあとに続いた。すぐ後ろに南雲がいる。まだ考えが追い付かないうちに、杉本の行動が先走ってしまい、ついでに疋田さんも暴走してしまっている。それぞれ別々のレールを走っているはずなのになぜ、こうも似たふたりが揃ってしまったのか。不思議に思う間も無く、三階に向かう階段へとかけ昇った。


 暴走列車疋田さんはたいして息も切らせずに三階手前の踊り場でふたりを待っていた。鞄を抱え直し、しっかと男子ふたりを見据えて、

「関崎くんね、杉本さんと一緒に音楽室へ向かったのをみんな見てたのよ。やっぱり気になるみたいでね。今日たしか音楽室、吹奏楽部の連中も使ってなかったって話だったし、関崎くんもその辺り把握してたんじゃないの」

 背中に冷たい光がささっと流れている。窓から差し込む初春の日差し。

 疋田さんはなおも続けた。

「で、相談なんだけど。ここから先、話が終わるまで待ってたほうがいいと思う? それとも押し入ったほうがいいと思う?」

「押し入るってなにも、ちょっとそれまずいよ絶対それ」

 慌ててしまう。自分でもつい引っ張られてしまったけれども、少し息をついて考えれば上総たちが関崎と杉本との間に割り込む筋合いは全くない。静内さんがなぜ杉本を心配するような口調で話したのか理由はさだかではない。ただ、それなりにふたりの話し合いはラブラブハッピーエンドに終わるものではないだろう。終わったあとの傷ついた杉本梨南を、いわゆる公認の片想い野郎扱いされている上総が迎えにいくのは、ごくごく自然なことに思われたのだろう。

 ━━けど杉本は絶対にそんなこと望んでいない。

 他の連中よりも杉本梨南を見つめ続けたからこそ、わかることがある。

 ━━杉本は、自分を理想通りに見てほしいだけなんだ。

 ━━理想に反した行動をした自分自身を、絶対に許さない。

 ━━そんな価値のない自分を受け入れられても、ちっとも嬉しくない。

 ━━それが、杉本梨南なんだ。だから俺は。

 瞬時にこれだけ頭を働かせた。この場を乗り切る方法は。

「りっちゃん、ここで待っているほうがいいような気するな」

 のんびりと南雲が呟いた。

「けど、話の内容によっては割って入ったほうがよさそうじゃない?」

 疋田さんは諦めず、たったと階段を昇り耳を扉に近づけた。もちろんこれは、盗み聞きという紛れもない違反行為だ。現役規律委員たるものがやってはいけない。

「疋田さん、いいよ、そんなしなくていいってさ」

 これはまずい。どちらにしてももう抜けられないところまできてしまった。上総の思惑とは異なり、気がつけばあっという間にしつこい追いかけ野郎の汚名を着せられてしまう。実際してきたことはそうなのだからしかたないけれどもだ。静内さんの名前を出すことができない以上、上総としてはこの場をどうやって取り繕うかを大急ぎで考えなくてはならなかった。疋田さんと南雲を巻き込んで、嫌われている女子にしつこく言い募る変態野郎ではないということを。

 そこまで頭が突っ走った時、ふと、扉に耳をくっつけている疋田さんの姿に光がちらちらと煌めいた。幻かと思ったが光の反射らしかった。現実だ。


 ━━杉本は、まだ関崎の伝説的美声を耳にしたことないんだよな。


「疋田さん、ちょっと」

 この間、一秒もなかった。上総は疋田さんに近づき、短く伝えた。

「この場に割って入って、関崎を歌わせるよう説得してもらえるかな」

「え?」

 問い返された。無理矢理踊り場まで引っ張ってきて、説明した。

「あの場で関崎の歌を、杉本に聞かせたいんだ。どういう結論になるにしても、関崎の歌を聴かないまま卒業させたくない。青大附属から追い出したくない」

「出前の注文ってことね」

 疋田さんの瞳にあふれんばかりの星が煌めいたような気がした。これも光のタイミングで、現実だった。すばやく疋田さんは早業のごとく鞄から大きめのファイルを取り出した。

「まかせて。あつ子ちゃんが大好きだったモルダウを聴かせるから。踊り場で待機せよ! 毎度あり!」

 

 上総が踊り場に降りるのを確認した後、疋田さんは細く音楽室の扉を開き、すすと入っていった。南雲と窓辺で物言わず立ち尽くしている間ほんの一分程度。

 聞きなれた前奏がかすかに扉からもれる。よく知っているそのメロディは、

「合唱コンクールの再現だな」

 小声でささやく南雲に、上総は黙って頷いた。


 フルで演奏するのかと思ったが、一番のみで終わらせてそそくさと戻ってきた疋田さん。行くときのエネルギッシュさをそのまま追いたてにも用いて、

「とりあえず、行こう、行こう」

 踊り場から降りるよう促した。上総が振り返った時誰の姿もなかったから、たぶん追いかけては来ないだろう。追いかけられた時の心の準備もできていなかったしそれはそれでいいと思う。


「とりあえず、どうだったか報告ね」

 再び一年A組の教室に戻った。やはり誰もいない。暖房が入っているはずだけれども、かなり空気は冷え冷えとしてきている。

「杉本さんと関崎は話をしていたけれど、そんな修羅場っぽいものはなかったよ」

「何期待してたんですかいったい」

 南雲のまぜっかえしを無視して、疋田さんは上総に向かい勢いよく捲し立てる。

「ビジネストークみたいなやりとりしてたようだったし、モルダウの一番弾いて降りてきたけど、あまりいい雰囲気じゃなかったよ。関崎くんは相変わらずいい声だったけど」

「それは聞こえてきた。ありがとう、助かった」

 何かちぐはぐなやり取りに思えて、それでもまずは礼を言うことにした。かばんにファイルをしまいこみ、達成感あふれる顔つきで笑いかける疋田さんをよそに、南雲だけが首を捻っていた。上総をちらっと見て、

「りっちゃんさ」

 問いかけた。

「結局、今日、彼女を待ち構えて連れて帰るつもり、ある?」

「ないよ」

 即答した。もうそのことはA組の教室に戻る間に決めていた。

「りっちゃんは重々承知だと思うけど、中学の卒業式まであと一週間しかないんだけど」

「知ってる」

「事情も、俺たちに流れてくるくらいのことは、りっちゃんとっくの昔に知ってると思うしあまり突っ込まないけど」

「十分すぎるくらいつっこんでるけどな」

 作り笑いで受け流そうとしたところを突かれた。

「このまま、見守ってるだけで、終わらせるつもりなのかな」

 ━━見守っているだけ、か。

 思わず南雲を真顔で見てしまった。いつものさらりとした笑顔からこぼれる言葉にとげはなく、ただ不思議に思っているだけといった風だった。

「それしかないよ、もう今となったら。それに関崎もそれなりに対応してくれているようだし、あとは個人の問題だよ」

「疋田さん、どう思う?」

 南雲は次に、ただいま一番の功労者たる疋田さんに声をかけた。しっかり耳をそばだてていたらしい。これまた即答で、

「イエスかノーかさっさとけりつけちゃえば?」

 みもふたもない言葉が帰ってきた。


 話はそれ以上引きずられることなく、いつのまにか帰り道は疋田さんの失恋話を聞かされるはめとなり、それで幕切れとなった。

「小学校の時つきあってた男子がいてね、ご存じの事情で引き裂かれちゃったんだけど」

「ピアノのご事情ですな」

「そうそう、その事情。音大受かったら大手振って腕組んで歩こうって思ってたけど、去年そいつに会ったらまあ、とっくの昔に私の思い出なんか過去になっちゃってたのよ! わかる? 私がピアノに中学生活投じていた間に、あいつさっさと別の彼女つくっていちゃついているのよ」

「まあ四年もあれば彼女のひとりやふたり作りますわな」

「南雲くんならわからなくもないけど、あいつがよ! もう頭に来ちゃって、これからはピアノに邪魔されることなく青春生活謳歌するって決めたの」

「例の、合唱コンクール後のことかな」

 そっと上総も尋ねてみた。疋田さんがいきなり自分の切ない……聞いている分にはお笑いだが……過去を語り出したのは、彼女なりの気遣いだろうと感じたからだった。

「そう、そうよ。あの時あつ子ちゃんのこととか、いろんなことがあってばたばたしてたけど、もうピアノのためにやりたいことを我慢して過ごすのはやめようって決めたのよ。さすがに体育の時バレーボールを見学にするのはやめてないけど、あれは単に運動としてやりたくないだけ。このままずっとピアノピアノで過ごしてきたら、私、あいつが何番目かの彼女を作っていることも知らないで六年間を無駄に過ごすことになっちゃったわけよ! もう、そんなのいやだから。さっさと確認して、さっさと過去にして、もう会う気もなくなったってことで今はすっきり! 立村くん、経験者として言うけど、振られるならさっさと振られておいたほうが人生楽しいと思うよ、ほんと!」

 くったくなくけらけら笑う疋田さんを見ながら、上総はぼんやりと杉本が同じ心境に達する時期を計算してみた。想い人に幻滅して、人生明るくいきていけると確信できる、おおよその時期を。


 ━━無理だろうな。すぐは、無理だ。

 明日、関崎にあったらどんな様子だったか探りをいれてみることにした。

 さすがに関崎も、疋田さん乱入の後ろに上総が控えていないとは思っていないだろう。関崎の性格上、きちんと対応してくれただろう。憧れのローエングリンとしての姿ですっくと立っていたことだろう。きっと、杉本も、諦めることは難しいくらいにりりしく振る舞っていたことだろう。


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