82 初梅の終わりに(4)
梨南の剣幕に静内さんもなにか言いたそうだったが、ふと階段付近の気配を感じ取ったのか、
「ほら、関崎来ているよ」
小声でささやいた。
「あいつ気づかないかもしれないから、とりあえず声かけてくるからね。待っててちょうだいよ。あと、それから」
そこまで言いかけたところで、噂の主が現れた。背は高く、筋肉質な男子で、今は青大附高の制服姿。似合っているかどうかはわからなかった。生徒玄関に向かって歩いてくるその姿に、梨南は息を呑んだ。まだ相手は梨南を認めていないようすだ。窓辺に立ち、空を覗きこむようにし、手をさすっていた。
━━関崎さん。
先輩、とはつけられなかった。
梨南の記憶の中にあるのは、学生服の凛々たる水鳥中学生徒会副会長の姿だった。どこかずれているようで、同じようで。もちろん同じなはずなのに、青大附高で見る関崎先輩の姿は、自分と繋がっているようには見えなかった。
━━なぜ?
梨南は一歩踏み出した。静内さんよりも早く、
「関崎さん」
自分の声がかすれているように思えた。もっと近づきたかった。学生服とブレザー制服、それぞれ同じ人が纏っていたのかを確認したかった。
「関崎さん」
関崎先輩は、梨南を明らかに異物のようなまなざしで射た。
ここにいるべき人ではないというふうに。梨南から、その後ろにいるらしい静内さんに目を向けている。なにかを話しかけようとしていたがその前に静内さんは、
「さっきから一時間くらい待ってたんだって。やっと会えてよかったね」
梨南の隣に立ち、そっと顔を覗きこんだ。ふわりと笑顔を浮かべた。
「じゃあ、あとでまた。じゃあね」
軽く手を振り、長いひとつたばねの髪をゆらしながら生徒玄関から飛び出していった。関崎先輩には特になにも言わず、梨南にだけ微笑んだ。
━━あとでまた、って言われても。
中学の卒業式は一週間後。もう会うこともない。
━━静内さん、ありがとうございました。
静かに心の中に言葉をためて、梨南は改めて関崎先輩に向き直った。
目の前にいる関崎先輩は、まごうことなき青大附高の生徒だった。
もうすっかり馴染んでいるのが見受けられた。
なにかを言おう。自然と言葉が出た。
「先ほどのお方にはご恩をいただきました」
「どうも、杉本、さん」
梨南の苗字を覚えていたことに、少しだけ安堵した。やはりこの人は梨南を憎んではいない。嫌ってはいない。他の男子たちのような眼差しで射たりしない。
深く最敬礼した。言わねばならない。最後の言葉を。
「お別れのご挨拶に参りました」
また人がばたばたと生徒玄関になだれ込んできた。ようやく梨南に向かいきつめの眼差しが飛んでくるようになった。決して負けたくなかった。怖くなかった。
━━今だけは、関崎さんは私だけを見てくれている。
「お時間いただけますか」
関崎さんは静かな眼差しで答えた。
「少しだけならかまわない」
「ありがとうございます。それでは教師用玄関で靴を履き替えてまいります」
頬が熱い。あの人の眼差しは初めて出逢った時からずっと梨南をすべて熱く燃え立たせる。完璧なる男子、完全たるローエングリン様。そして永遠に受け止めてくれない人。
━━私の想う人は決して私を好きになってくれない。
教師用玄関に走った。関崎さんは梨南に生徒玄関から入るよう促してはくれなかった。
関崎先輩は梨南を職員玄関で待ち受けていた。スリッパにあらためて履き替えたのち改めて向かい合った。
━━いやがっている。
すぐにそれだけは感じ取れた。早く決着をつけるべきなのか。さっき静内さんと一緒に語らっている時とは違う、固い緊張感がある。
━━でも、言うことは言わねば。
すぐに歩いていこうとする関崎先輩を追いかけるようにして梨南は呼びかけた。
「お話は主に二点ございます」
片手を振って制された。関崎先輩は階段を指差した。
「とりあえず三階に行こう」
言われた通りにしたがって階段を昇っていく。青い空がまだ見え隠れしている。卒業式が今日だったらよかったのにと思えるような空だ。階段すれ違いに、西月先輩の友達で独特の薫りを漂わせる女子先輩とすれ違ったが、特になにも言わず関崎先輩と目と目で合図を送る程度で去っていった。
━━西月先輩にも、手紙を書かねば。
あと一週間で梨南も卒業式を迎える。しなくてはならないことがまだたくさん残っている。
連れていかれたのは三階奥の音楽室だった。
青大附中と校舎の作りがさほど変わっていないのが意外だった。
「ここは」
関崎先輩にはイメージが重ならない場所で、思わず呟くと、
「たぶん、ここなら大丈夫だろう」
ほっとした表情で細く扉を開き覗きこんだ。
「いつもなら吹奏楽部の連中が練習しているんだが今日は誰もいないようだ」
「音楽室ですか」
中に入った。広々とした教室の中、眩しい光が差し込んでくる。
艶やかなグランドピアノに目を留めた。関崎がすっと梨南の前に立ちはだかる格好となり、問いかけてくる。
「今なら誰もいない。その二点の件について話してくれないか」
事務的な口調だった。
「かしこまりました」
ピアノの脇に立っている関崎さんに近づいた。いやがられるのもこれで最後と思えば苦しくはない。わかっていても息がつまりそうになる。見上げるとそこには完璧なローエングリンがいるわけで、心臓が騒がぬわけがない。
「一点目は、三年前のお約束の件です」
そこまで言いきった。戸惑った風にちらと横を見て関崎さんが、
「約束、とは」
問うてきた。知らない振りをしているのか、それとも本当に忘れているのかはかりかねた。じれて言わざるを得ない自分が負けている。
━━これが、本当に最後なのだから。
自分を叱咤しつつ、梨南は続けた。
「覚えていらっしゃるでしょうが、水鳥中学にお伺いした際、私は関崎さんにお約束させていただきました。かならず青潟東高にトップの成績で合格し、その上であなた様に想いのたけをお伝えするつもりでおりました。残念ながらその夢は潰えました。公立高校を受験するということを阻まれるとは、当時の私もそうぞうだにしておりませんでした。一度お約束したことをたがえたことについてはお詫びしなくてはなりません。申し訳ございませんでした」
一気に、全力込めてぶつけた。いつもの自分ではなく、思いきり吐き出すように伝えないと別の感情に飲み込まれてしまいそうだから。
━━なにも感じてらっしゃらない。
冷ややかな眼差しを読み取れるようになった自分が惨めだが、走るしかない。
「しかしながら、あなた様の青潟大学附属高校でのご活躍ぶりを聞き知るにあたって、私の鑑識眼は正しかったのだと思わずにはおれません。関崎さんのご多幸を心よりお祈りいたします」
━━ちゃんと、礼儀保って言えただろうか。
ぽろっと膝が砕けてしまわないだろうか。必死に足を踏ん張り立つのがやっとだなんて、決して伝えることはできない。梨南を困った風に見つめつつ、関崎さんはそれでも、
「いや、こちらこそ。何も答えられず申し訳ない」
ひととおり礼儀に叶った言葉を返してきた。
梨南の身体がまた熱くなる。冷えたり熱くなったりと落ち着かない。
━━関崎さんは、私を少しは嫌わないでくれたのだろうか。
探りたくなるのをこらえた。しつこいようだがこれが最後なのだから。
次の言葉を待った。
「卒業後は、進学は」
━━この方にだけは言いたくなかった。
関崎さんは梨南を憎んでいるのかもしれない。
ふと、そんな気持ちがよぎった。声を低めて、辛うじて答えた。
「なずな女学院と申します私塾に参ります。青潟からは遠く離れている学校です。寮に入りますので少なくとも三年間は青潟には戻りません。もう二度と、お会いすることは叶わないかと存じます」
目の前の関崎さんの表情に、よぎったものが何なのか。
見たくなかった。それでも見つめざるを得なかった。
「厳密には卒業式まで間がありますが、本日を持ってこの高校内に入ることは永遠にありません。せいぜい校門の前に立つ程度でしょう。万が一外ですれ違ったとしても私は目を閉じますのでご安心ください」
━━嬉しいんだ、関崎さんは。
━━私が青潟から消えてほっとしているんだ。
━━私が見ていたものは、やはり、幻。
もう恨むことも許されない。この場で泣きくずれるなんて恥をかくのもまっぴらだ。今の梨南が、最後の最後まで凛々しくいるためには、この場にあえて来た目的をやりとげることのみだった。




