8 助言(4)
本条先輩は日常的に女子の胸を触り慣れているだろうから平気かもしれないが、三年前の上総にとってはどれだけ衝撃的な瞬間だったかわからないだろう。なにせ杉本の女性らしいフォルムに対する意識はいろいろな意味で普通ではない。たぶんどこかで性教育を間違った形で受けてきているんじゃないだろうかとたまに考える。自分の胸の厚さをためらうことなく「贅肉」と言い放つその感覚を受け止めるなんてどうすればできるのだろう。
「天羽たちが話してたぞ。立村があの瞬間完全にいっちまってたってな。傍から見てて笑えただろうなあ」
「あいつらは見てません。完全に妄想です」
そうだ、あの時天羽をはじめとする元評議三羽烏はいなかった。側にいたのは清坂美里と羽飛貴史だけだった。少なくとも杉本の発言とその行動の後上総はきっちりポーカーフェイスを保ったはずだった。
「『こんな贅肉のどこがいいのかわからないけれども触りたいならいくらでも触らせます。いつでもおっしゃってください』とか言って杉本自身が手を取ってタッチさせたそうだよな。しかも清坂ちゃんがいる前で。清坂ちゃんのためにもとか言い出したんだろ。何考えてるんだあいつな。お前はラッキーだったかもしれねえが」
「だからそんな見たことないこと勝手に捏造されても困ります」
あの時鼻血を噴いてぶっ倒れなかっただけでも自分を褒めてやりたい。しかもあの発言後上総は美里、羽飛とふたりで至極冷静に杉本梨南の行動を分析したりして時を過ごしたはずだ。たとえあの後家に帰り、部屋でひとりきりの時、指先にその感触を蘇らせたとしても人前でみっともないことをやらかしたわけではないのだから許されるはずだ。誰も知らないに決まっている。
「まあいい。お前がどういう立場に立ってるのかはだいたい把握できた。要するにあれだな。杉本の推薦入学についてはすでに情報をどっさり集めているにも関わらず、本人には確認してないと、そういうわけか」
「なんで確認しないとならないんですか」
「事実を踏まえて行動しないとまたとっちらかっちまうに決まってるだろ。そのくらい気づけよ」
──わかってるさそのくらい。
無言で押し通す。コーヒーをまた口に含む。完全に水になってしまっている。苦いだけの水。飲み込むのがしんどい。
「じゃあもうひとつ確認だ。なんでお前そんなに杉本の情報を集めるのがうまいんだ? さすがにその受験先が山の上でロープウェー使わねばならないとかそんな話までは聞いてねえぞ」
「中学にはそれなりに情報ルートがあります」
詳しくは告げなかった。本条先輩が夏休みに霧島と鉢合わせしてあまり気持ちよくない対話をしていたのを上総はしっかり見届けていた。どちらも上総にとっては近しい存在である以上、余計にことをこじらせたくはない。
「スパイでもいるのか」
「そんなことはしてませんが友だちはいます」
霧島は確かに事あるごとに高校校舎にきてはいろいろぶちまけて帰っていく。合唱コンクールが終わるまでは一切顔を見せなかったのに終わるや否やこちらが呼びかけたわけでもないのにひっきりなしに日参する。向こうだって生徒会副会長で次期会長が暗黙の了解で決まっているようなもの。なぜそんな自分の首を絞めそうなことをやらかすのだろう。上総の方がはらはらしている。
本条先輩はしばらく天井を見上げていたが膝を叩き、
「ははん、キリオのことか」
鋭いところをついてきた。
「あいつお前にべったりなんだろ。難波が愚痴ってたぞ。あいつにやたらと最近敵視されちまってるてな」
「霧島のことなら、杉本とは全く別です。あいつは二学期から担任が代わって狩野先生に受け持ってもらうことになりました。やはり性格が合うかどうかは気になりますから様子を見に行ったりそれなりに話を聞いたりはしています。杉本のことを絡めて話をすることはこちらからはありません」
事実をありのままに伝えると本条先輩は首を振る。
「お前からなくともキリオが勝手に伝えると、そういうことだな」
──逃げ場がないよな。
さっきの杉本胸タッチ事件にしろ霧島との対話にしろ、本条先輩は上総が絶対にノーと言えないところを鋭く突っ込んでくる。お察しの通りですとしか答えが出てこない。霧島に杉本の最新情報をよこせと頼んだことはない。あいつがわざわざ姉の会話や生徒会経由で届く情報をかき集めて一方的にしゃべるだけだから、上総はそれを素直に頭へと叩きこむのみ。本当であれば霧島と狩野先生との間柄も様子を伺いたいのだが、肝心要のことを奴は決して口にしない。特に問題がないのであればそれはそれでいいのだが。
「んで、キリオくん情報が手元にあるし、杉本が山の上の女子高、たぶん寮か下宿だろうな。そっちに行くことになっちまった以上、さて立村、お前はどうする。残された半年……もねえか。その間どうする。このまま指くわえてみてるのか? あのFカップバストが誰か知らん奴の餌食になることをひとりしこしこしながら耐えてるのか?」
「本条先輩、まるで俺がえげつない変態みたいじゃないですか!」
「人のことは言えないだろが。一度も杉本のことで抜いたことがないんだったらわかるが思い当たる節がないんだったらお前には他の奴が色気持ってみているのをにらみつける権利全くねえんだってこと忘れるな。ま、惚れてる女子に対する感情としては正常ではあるがな。落ち込むな」
そうにやにやしながら見るのはやめてくれと言いたい。もう何ひとつしゃべりたくない。きっぱりはねつけられる自分であればよかったのにと唇噛むしかない。知っている。杉本を嫌う男子連中がその一方でフォルムから来る欲望のはけ口にしていることも。それを嫌悪する一方で自分も同じ狢だと言われればうなだれるしかないことも事実。あんな奴らのおかずにされるのであれば、ととんでもないことを感じては恥じる、その繰り返しだ。
「とはいえ、このままひとり悶々としてても埒が開かないことくらいはわかってるんだろうな」
「どういうことですか」
恐る恐る尋ねると本条先輩は上総の握り締めているカップに自分のカップを打ち付けた。乾杯ののりだ。
「どっちにせよ結論が出ているんだったら杉本本人の口から聞いたらどうなんだ」
「それは」
──正論かよ。
にらみつけても、先輩の顔は笑顔のままだ。
「要するにだ立村、お前は杉本の行く末がどうなるのかが上半身と下半身両方でびくびくしてるんだろ。噂は所詮噂かもしれないが事実は基本としてひとつ。そのひとつのことを確認するためにはどうすりゃあいいか。話は単純だ。杉本から聞きだせよ」
「そんなことは」
──あいつが話すわけないって!
杉本の性格を熟知している上総としては首を振りたい。
「俺なんかに話すわけがないでしょう」
かろうじて声を絞り出した。
「ほうなんでだ? こんなに杉本のことばかり考えてる奴この世に親父さんおっかさん以外だとどう考えてもお前だけだぞ」
「そこまで信頼されてませんから」
唇を噛んで、それから発する。
「杉本にそういうこと求めていませんし、これからも」
目を閉じる。わかっている。杉本梨南の瞳はすでにどこへ向かっているのかを上総は誰よりも知っているつもりだ。その眼差しの先に自分は立っていない。学校祭中青大附高の「幻の制服」と呼ばれる蛍光黄緑の学生服をまとった男子の姿を追いたくてならないだけ。自分のプライドが邪魔してその視界に入ることをこらえているだけ。自分がその屏風のような存在なだけ。
「自分のことは自分が一番わかってねえってほんとだな。おい、立村、ほらティッシュ」
足元にティッシュボックスが置かれた。
「気づいてねえようだが、お前、目に涙たまってるぞ」
慌てて目をこする。そんな気配なんてない。本条先輩を思い切り無言で睨み返した。
「ほらほらひっかかってるぞ。ったくなあ、お前要するに自分ひとりで鬱々落ち込んでて結局本当のことがわからないでいじけているだけだろ。いいか、溜めすぎってのはよくねえよ。お前の原点はさっさと自家発電しておいてすっきりさせときゃいいものを溜めすぎて結局夜の夢でいっちまうってとこなんだよ。ひとりでパンツを風呂場で洗うなんて情けないこといい加減したくねえだろ?」
「先輩、何言いたいんですか」
わかってる。分かりすぎるほどわかる。でも知らないふりをさせて欲しい。
本条先輩は甘くなかった。
「聞いちまえよ。結局青潟に残るのか山の上にロープウェーで昇っちまうのか」
上総の様子など目もくれず一方的に、
「結論が出たらさっさとお前も覚悟決めろ。どうせあと半年もないんだ。誰かのおかずにされたくないんだったらお前が張り付けばいい。口説いてもいい。ただこれだけは忘れるな」
じっと上総の目を見つめた。逃げられなかった。
「他の男へ横恋慕しているのを応援するなんて社会の大迷惑なこと絶対するなよ。杉本に惚れている奴はこの世で立村、お前だけだ」