79 初梅の終わりに(1)
中学とほぼ同じ時期に高校の期末試験が行われるのだと聞いたことがあった。
立村先輩が教えてくれたのだろうか。それとも清坂先輩か。
「やべ、俺追試じゃねえ?」
「自業自得だあきらめろ。そもそも数学の試験前日に鉄マンやっとったのはどこのどいつじゃ」
「誘ったお前が平然とした顔して進級するのを見とれってか」
すれ違う高校の先輩たちが口走る言葉に耳を傾ける。結果は出たのだろう。試験中だからということで気を遣う必要もなさそうだ。懸念材料といえば、中学と違って高校生はさっさと帰るのではないかということくらいか。
━━あの方は生徒会役員だから。
梨南ははるみと霧島の言動を通じてしか生徒会役員の一日を想像するしかないのだが、試験中は生徒会室立ち入り禁止となり、無事試験が終わったらひたすらのんべんだらりと生徒会室で過ごすのみらしい。もしかしたら、待たされるかもしれない。それは予想の上だ。
青潟大学附属高校の校門でいったん足を留め、梨南はじっと最奥の生徒玄関を見つめた。本来なら部外者が立ち入り禁止のはずだが、一応今の段階で梨南はまだ付属中学の生徒。ある程度のお目こぼしはあるだろう。
━━中に入るべきかしら。
いや、と心に戒める。附属中学の生徒であるからこそ、本来は教職員玄関すなわち来客用玄関から、来校者名簿に名前を書き入れて入らねばならない。だがそうすると、目的の相手に会うことは難しい。それ以上に、
━━会いたくない人と顔を合わせるはめにもなる。
今日の目的を考えると、やはり会ってはならない人だと思う。
しばらく躊躇したものの、思いきって生徒玄関の隅っこで待つことにした。
すでに高校生たちのほとんどは下校しているようだが、梨南の見た限り関崎先輩の姿は見当たらなかった。やはり生徒会室にてたむろっているのだろうか。
━━あの方にお会いするのは、もう二度とない。
指折り数えてみた。中学卒業式までほとんど日もないし、少しだけ残っている春休みもほとんどはなずな女学院への出発準備に費やされる。実家で療養中の母にも本来は挨拶するべきなのだろうがそればかりは父の判断に委ねるとする。青潟ですごす暇な時間はほとんどないと考えてよい。
梨南は手袋をはめ直した。
空を見上げた。青空のもと、はらはらと降り注ぐのは頬に触れてもすぐ溶ける粉雪のようだった。しっかとコートで守られている身体は寒くない。雪も決して冷たくない。ただ心臓だけが限りなく熱い。
━━完璧なる、ローエングリン様。
白鳥の騎士ローエングリン。その名を求めたがためにオペラ上のローエングリンはエリザ姫をおいて去ったけれども、青大附高のローエングリンはそのまま残る。エリザ姫は自らその名を求めて追いやられるように去る。
━━せめて、完璧でいられますように。
今までのように、立村先輩やはるみ、新井林たちに邪魔されて梨南は完璧な自分を関崎先輩に見てもらうことができなかった。ただひたすらにひとりの男子を慕い醜い部分をさらけだすような惨めな女子としてしか受け取られていないだろう。
━━でも、今日だけは。今だけは違う。
今日が最後の会瀬となるならば、凛として美しい杉本梨南を見せつけて終幕としたい。青空も、髪の毛を乱さぬ粉雪も、すべての舞台装置が梨南の願いを叶えているように見えた。
よけいなエキストラも通らなかった。
━━立村先輩は帰ったのね。きっと。
カップル下校が珍しい学校ではない。単に遅く帰る人が少なかったからかもしれない。梨南が腕時計を覗きこむと同時に、男女の生徒が梨南のそばを通りすがった。足元においていたかばんに女子のほうが躓いた。
「失礼いたしました。申し訳ございません。おけがはございませんでしたか」
あわててかばんを手繰り寄せた。ころんだわけではないが、明らかに通行の邪魔になっていた以上悪いのは自分だろう。九十度、しっかり身体を傾けて謝った。「見てなかった私が悪かったのよ、そんな、そんなにかしこまらなくていいって。ね、名倉」
名倉と呼び掛けられた仏頂面の男子はなにも言わず梨南を睨み付けてきた。男子であれば先輩後輩問わずする表情なので慣れている。この人にはなにもしていないので相手にする必要なく、梨南は再度、もうひとりの女子先輩に深々と頭を下げた。
「いえ、本来お帰りになる先輩たちの邪魔をすることは絶対に許されざることです。申し訳ございません。おけがございませんでしたか」
目に見えなくてもあとで気がつくこともある。
しばらくふたりは梨南を不思議そうに見つめていたが、
「大丈夫よ大丈夫。そんなに私、ひよわそうに見える? ねえ名倉、私をさんざんたくましすぎる扱いするんだけど、本当はこの子くらい丁寧に扱われてもいいんじゃないかなって思うのよね、どう?」
ストレートの黒髪を後ろにひとつ束ねたさっぱりとした雰囲気の女子は楽しそうに微笑み、梨南の顔を覗きこんだ。
「ここじゃ寒いよ。ロビーに入って待ってたほういいよ」
「お心遣い恐れ入りますが、中学の生徒がはいることは許されません」
「そんなことないよね、結構附中の子うろうろしているよ。真面目なんだねあなた。けど、風邪ひくよりはましだよ」
「規則です」
言われるほど寒くはなかったのでそう答えた。ひとつたばねの彼女がもう一言梨南に食い下がろうとした時、隣の名倉という男子が目で彼女を促した。
「なによ名倉」
「ちょっと来い」
礼儀知らずの男子としか思えない。なぜ梨南本人の目の前で聞こえよがしに、
「あいつは、関崎につきまとっている有名な迷惑女子だ」
そういうのだろうか。耳元でささやいているふりしているんだろうが、梨南の耳にはよくよく聞こえた。
「関崎?」
「静内、お前も噂で聞いたことあるだろ」
ここまでで十分だった。
━━まさか、あのふたりが。
噂に聞いた、「青大附高外部三人組」のお仲間なのか。
梨南はじっとふたりを見つめ返した。嫌悪あふれる名倉の眼差しはシャットアウトし、その上でもうひとりの女子、静内と呼ばれたひとつたばねの女子にすべての感覚を集中させた。
青大附高に鳴り物入りで入学した関崎先輩。当初は青大附属英語科の連中とつきあっていたが、新歓合宿を境に外部入学の生徒ふたり、うちひとりは女子という面子でつるみ学内を闊歩していると聞く。梨南はもちろん関崎先輩の顔を卒業まで見るつもりはなかったから、そのふたりがどういう奴かということは伝え聞くのみ。清坂先輩と生徒会でなんとなくいい感じらしいとか、古川先輩の下ネタに圧倒されかけているとか、女子がらみの情報を耳にすることはあれども、実際こうやって本当につるんでいるというふたりを目の当たりにすると、どこか気持ちがずしんと揺れる。
━━きっと、私のありもしない噂を聞いて色眼鏡で見ているんだわ。
雪を甲羅にして、そっと身構えた。
ひとつたばねの彼女は、すすと首を名倉という男子に振って見せ、
「悪いけど今日は先に帰ってて。また明日話すから、じゃあね」
さっぱりした言い方で片手を挙げた。そのまま梨南のもとへ近づいてきた後、
「やっぱり寒いよ。後輩を風邪ひかせちゃいけないし、ちょっとだけ中に入りなよ、杉本さん」
いきなり梨南の苗字を呼んだ。ぎょっとしたけれども、梨南の悪名があれだけ中学で響き渡っていれば、さらに立村先輩の情けなさも踏まえて知られていれば、外部の彼女が知らないわけがない。
「恐れ入ります。でも校則があります」
「校則よりも健康一番。いざとなったら私が守ってあげるよ。こう見えても私、評議委員やってるから、権力はちょっとばかり持っているはず。ま、こういう時にひけらかすのも悪くないかもね」
妙にこの人は梨南に対してあけっぴろげだ。梨南のことを気に入る人たちの多くは、出会った瞬間こうやって自分の姿を恥ずかしくもなくさらけ出す。あの人も、この人も、と指で数えたくなる。たぶん、ひとつたばねの彼女は梨南に警戒していないのだろう。一緒にいた名倉という男子の先輩よりははるかに。
「恐れ入りますがお名前をお伺いしても」
問いかけた梨南に彼女は無表情と笑顔の間の、繕わない表情でさらりと答えた。
「静内菜種。いわゆるあぶらな」
「春の花、ですね」
呟くと同時に、すうっと菜の花畑が広がっていくような錯覚にとらわれた。今目の前に広がるのは青空とさららとした粉雪のみ。心地よい幻のようだった。
「ずっと気になってたんだけど、三十分くらい立ってたみたいだね」
持ってきた上履きにはきかえて、すのこに立つ。そのまま高校校舎のロビーに座る。ひとつたばねの彼女、静内さんが問いかけてくる。
「はい、用事がありました」
「そいつ、出てこないの」
「お忙しいのでしょう」
「ってか、誰待ってるのか聞いていい。私の知り合いだったら探してきてもいいよ」
あっさりとした口調だが、無理な笑いはない。
━━もしかしたら気づいているのかもしれない。
隠すつもりはなかった。梨南は両手を拳にし、じっと静内さんを見据えた。
「関崎先輩です。お別れの挨拶に参りました」
ぎょっとした顔で静内さんが目を見開いた。誤解させたかもしれない。すぐに言葉を次いだ。
「卒業して自殺しようとは思っておりません。それなりのことをされた自覚はありますが、本日はどうしても関崎先輩にお話しなくてはならないことがあり、けじめの意味で参りました。今日お会いしたら、もう二度とお会いすることはありません」
梨南はもう一度、静内さんに向かって正面からその顔を見据えた。
最初驚いたであろう表情が、やわらいでくる。
━━でも、違う。
じいっと静内さんの表情が変化する様を梨南は興味深く見守った。今までこんな表情の変化のしかたを見たことがなかった。たいてい梨南と話して面白がる人たちは、けらけら笑うか言葉遣いが変わっていると面白がるか、もしくは作り笑いで受け答えるかのどちらかだった。じっと受け止めるような眼差しを投げてくるのは、ほんの数人であり、静内さんはその限られたなかのひとりだった。
━━私のことを、関崎先輩にまとわりつく害虫と思っているのかしら。
━━関崎先輩のつながりなのであれば、私の悪口をたくさんの人たちから聞かされているはずだから。
「どうして、これが最後なのかよくわからないけど、もう関崎には会うつもりないの?」
しばらく首を捻っていた静内さんは、またさっぱりした声で問いかけた。
「はい、本来であれば、私はあの方にお会いするつもりなどありませんでした」
「なんで? 学校の外でも会えるじゃない?」
「いいえ、私のポリシーに反します」
外の粉雪のような、触れては溶けるさらっとした空気が静内さんを包んでいるようだった。暑すぎず寒すぎず。ただ梨南の芯にあるまっすぐな炎だけが熱いのみ。
内部上がりの人たちならともかくも、おそらく彼女は梨南がどんな気持ちで関崎先輩を慕ってきたのか知らないだろう。今日が卒業まで数えるほどでなければ、たぶん口には出さなかった。諦めなかった。
「私は、あの方にふさわしい完璧な人間になれませんでした」
「かん、ぺき?」
戸惑うような口調の静内さんに、梨南は大きく頷いた。
「あの方は完璧なローエングリンでした。白鳥の騎士でした」
「ローエングリン?」
問いかけ続ける静内さんに、梨南は畳み掛けた。
「あの方にふさわしくあるために、私は青大附属を追い出されたあと、青潟東高にトップ入学するつもりでいました。そうしたらあの方にきちんと手続きを取り、思いを伝えるつもりでした。それが叶わぬ以上、本来であれば会ってはならないのです」
「会っちゃ、いけない?」
「ですが、どうしてもあの方のお力を借りないと救えない後輩がひとりおります。だからこそ、参りました。あの完璧なローエングリンたるあの方ならば、私以外に残る、もうひとりの後輩を救っていただけるのではと信じたからです。その力を持っているのは、あのお方だけなのです」
極めて冷静に梨南は話したつもりだった。
静内さんは把握しきれていないように頷いていた。作り笑いは浮かべなかった。
梨南の言葉を受け止めつつ、困ったように、
「知ってると思うけど、私と関崎は友だちなのよ。悪い奴じゃないとはわかっているつもりなんだけど、そんな救い主みたいな性格には思えなくて、混乱中なんだ。けど関崎なら、杉本さんの言う後輩を、救ってくれそうなの?」
「必ず救っていただけます」
「杉本さんの力だけでは難しいの」
「私はもう、ここにおりません。遠くに参ります。死にはしませんが、青潟にはもう戻って参りません。私の弟分にあたるであろう後輩を、私ひとりの力ではもう救うことなどできません」
梨南は口を閉じた。言葉にしてはいけないことを、無意識のうちに並べてしまったことに気づいてしまったからだった。




