76 ふたりの教師(1)
──学期末試験、最終結果が出た。
文句なし、言うことなし。
わざとらしくB組の教室に立ち寄って学年二番だった奴の面を拝んでやろうかとちらと思った。張り出されるわけでもない。一応は手渡される三年間の結果が刻み込まれた結果表をかばんにしまいこみ、梨南は廊下を歩いていた。
「杉本さん、やっぱり最後まで一番だったんだね! すごいね!」
「ほんと、とうとう学年トップを三年間守っちゃったんだもん。尊敬するよね」
三年B組の女子たちと顔を合わせた。露骨に無視はしないけれども、いろいろな出来事の後はさりげなく距離を置きだした生徒たちだ。恨みなどはもう霧散したとはいえ、あまり露骨に人前でしゃべるべきではないとも思う。
「ありがとう」
静かにそれだけ伝え、教室の中をちらと覗いた。足を踏み入れる気はない。厳密に言えば卒業式まであと一週間を切っているため、卒業式練習とかの集団行動はどうしてもB組に混じって行わざるを得ない。今までずっと「E組」にこもっていられたのとは違い、三月に入ってからはいやおうなしに入らざるを得ない。ただ、歓迎されていないことは重々承知しているので休み時間および空き時間はできるだけすばやくE組のある教師指導室まで避難するようにしている。梨南のためというよりも、クラスの連中がみなそれを望んでいるかのような顔をしているのがありありと分かるし、桧山先生も一切梨南が存在しないような対応をし続けている。
──私が教育委員会に訴えれば、余裕で勝つことできるはず。
それをしないことが梨南の負けとするならば、それでもよい。三学期に入り梨南のすべきことがほとんどB組に存在しないのだから。書類や進学に関する準備はすべて菱本先生や殿池先生が片付けてくれている。幽霊としてB組にいればよい。たまにしつこく話しかけてくるかの、彼女を、
「梨南ちゃん、今日、クラスの女子みんなとお茶会しようと思うのだけど」
「結構です」
冷たくあしらうのももう慣れた。
──もう、どうでもいい。
心底、そう思えていた。はるみの陰でにらみつけているらしいかの男子の存在も、学年永年次席という屈辱を味合わせた以上、もう言うことはない。
──私にはまだ、することがあるのだから。
「杉本さん」
振り返った。今日はまっすぐ帰るつもりでいた。誰にも文句の付けどころなき成績を父に披露して青大附中教師軍のおろかさをせせら笑う予定だった。父だけはきっと共感してくれるたったひとりの人だから。
「何か御用でしょうか」
銀縁めがねの男性教師がひとり。顔を見るまでもない。ただ梨南に声をかけてくる用事などない人ではないかとも思う。一礼して顔を見上げた。もちろん目に力を込めてぶつけるべきものはぶつけた。
「少しだけ時間をもらえますか。杉本さんに伝えたいことがあります」
教師側の「時間要求」を跳ね返せる生徒などほとんどいないだろう。梨南には決してやましいことなどひとつもない。一年前にいろいろあったことをまた蒸し返したいのであれば、こちらにも準備がある。勝つ自信はおおいにある」
「かしこまりました。今ここでお願いします」
「いえ、少し込み入った話になりますので、E組に行きましょう」
コートを廊下で脱ぎ、腕にかけた。話を聴く意思はあるとのメッセージを無言で伝えてみる。
──霧島くんのことかしら。それとも。
よい機会だ。聞いてみるのもよい。クラス担任といえば霧島真に対する一種の情報の塊だ。今までは立村先輩経由、および姉である霧島先輩経由といった一年上のルートしか見つからなかったけれども、行き詰っているのであればここで大人を利用させてもらうのもよい。梨南には自信がある。説教しようとしてふんぞり返る教師連中から求める情報をしっかと手に入れる方法であれば、この三年間ありとあらゆるケーススタディを学んできている。勝利たれ。
教師指導室、梨南にとっては「E組」。
あとここで過ごす日もわずか。外を眺めやるとまだこんもり積もった雪の蔭から鋭い光が窓辺に突き刺さってきている。ささやかな春の気配とも言う。いつもの教壇まん前席に腰掛けた。狩野先生は教室扉を半開きにしたまま梨南に、
「もうひとり来ます。少しだけ待っていてください」
意味ありげな口調で微笑んだ。
──納得いかなければこちらで立ち上がって終わらせるのみ。
まさかとは思うが、最後の最後にはるみと仲直りさせようなんてことは考えていたりしないだろうか。狩野先生と生徒会とがつながっているという話を聞いたことがないので、たぶんそれはないだろう。霧島がいた時もそんなことはほとんど聞いていなかった。
コートをひざに置いたまま梨南は狩野先生の様子を伺った。扉を開けたままというのはやはり教師と生徒といえども男女一対一を避けたいというところなのだろう。もうひとりというのが教師なのかそれとも他の生徒なのか。そこのところも分からない。
──まさか、桜田さん?
もうひとり、まだ答えの出ていない名前を思い浮かべる。
二学期終業式後、桜田さんとはほとんど会話を交わしていない。挨拶をすることも最近はなくなった。梨南も最初は会釈程度していたのだが、桜田さんが日々おびえつつ他の女子たちと張り付くようになったこともあってあえてそれ以上のちょっかいは出していない。その「他の女子」というのがいわゆるかつての不良グループの女子ではなくて、生徒会がらみの……さすがにはるみ以外だが……生徒というのもひっかかる。今まで決して桜田さんが積極的にかかわろうとしたタイプではない、ということだけはよくわかった。
──狩野先生はあの件にかかわっている。駒方先生とはあれきり連絡を取っていないけれども、私が終業式に何をしたかくらいはすでに聞き知っているはず。知られて恥じるべきことではないし、むしろ伝えにいくべきこと。
卒業式が終わったら手紙にまとめて挨拶だけしておこうとは考えていた。いろいろあったにせよ駒方先生にはお世話になったのだから。
──あと誰かしら。思いつく相手、あとは、まさか……?
よぎったのは、もうひとりの名前。
目を思わず閉じる。
──まさか、そんなことありえない。
二月のあの雪の日を境に、もう梨南は一切口も利いていない。連絡も取っていない。
中学と高校、はっきり校舎が分かれていれば、こちらで足を踏み入れない限り絶対に顔を合わせることなどない。偶然も、きっかけも、何もない。ただ知らないまま、気づかないまま過ごすのみ。あれから二週間以上経つが、当の本人のうわさを聞くことすらない。
──まさか。いやでも、狩野先生とは確かにつながりがある。もしかしたら。
ひざの上に乗せたコートをがっしりと握り締めた。もしそうだったら、立つべきか、立たざるべきか。
「ああ、悪い悪い。杉本待っちゃったなあ。ごめんよ。あ、先生もすいませんでした」
梨南の予想は次の五秒後にあっさり外れた。
「菱本先生、何か私に質問とは」
立ち上がりそのまま頭を下げた。今日がはじめてではない挨拶。コートを机の上に置いた。菱本先生はポロシャツにブレザー姿で相変わらずの愛想よさで梨南に頷いた。狩野先生に対しては少しぴりっとした目線を交わした後、
「ぜんぜん悪い話じゃないからな。それだけは最初に言っとくから、まあ気楽にな。じゃあ狩野先生よろしくお願いします」
促した。インフルエンザ予防接種を行う際の、「痛くないですよ」程度の予告と思って梨南は心の準備を整えた。やはり、ただ事ではない、ということだ。




