75 つつみなおし(7)
昼ごはんは父が連れて行ってくれた定食屋で海鮮丼を平らげ、そのまままっすぐ品山に向かった。
「試験準備さすがにしないとまずいだろ」
父の言葉にしゅんとなるしかないが、
「本条くん、悪いんだがさっきお願いした通り、上総の数学と理科の勉強を見てもらえないかな」
どうやら上総のいない間に打ち合わせていたのだろう。本条先輩も当然とばかりに、
「お安い御用です。留年やばいんだろお前。任せとけ、俺が全部押し上げてやるからな」
にやりと答え、上総に笑いかけた。
──本条先輩と二日間一緒にいられる。
自分の部屋にふたりで篭り、数学の教科書を開く。学校側でも上総の能力にはあきらめを感じているようで極端に難しい問題を解くようには言ってこない。ただ、周囲の想像をはるかに絶する自分の数的能力欠加に絶望するしかないのも事実。
「ああ、これだな、お前ここで躓いてるんだろ。ほら、竹定規そこにあるだろ、貸してみろ」
長い付き合い、本条先輩もため息をついたりどついたりはしない。すでにそのレベルをはるかに逸している。ついていけるのが本条先輩、あとはせいぜい狩野先生、野々村先生程度のもの。苦手な勉強とはいえ気が楽だ。
「学校でこんなの持ってったらみっともないったらないですよ」
「しゃあねえだろ。要はわかって点数取れればいいんだ。今度の試験で先生に頼んでみろ。定規持込をお前ひとりに限って許してくれってな」
「そんな」
やりとりを繰り返しつつも、本条先輩は根気よく上総に付き合ってくれた。途中父がサイダーとお菓子を運んできてくれるというもてなしぶり。しばらくぶっ続けで勉強した後、一息つくことにした。机から離れてベッドに腰掛ける。思い切り伸びをする。ピアノの蓋を開けようとする。本条先輩がそれを観て思い出したかのように上総に問う。
「そういやあ、さっきの姉ちゃん、あれなんだ」
「ねえ、ちゃん、って」
──野々村先生のことかよ。
印條先生宅では「弓絵さん」だけども家に戻れば上総の認識はすべて「野々村先生」に切り替わる。少なくとも「姉ちゃん」とは思えない。
「さっき説明したと思うんですが」
「青大附高の教師だっつう肩書きだけじゃねえ、なんであの姉ちゃんがわざわざピアノ習いに来てて、なんでお前とつながってるのかってとこ聞きたいんだよ」
「だから、たまたまピアノの先生が一緒だったからってことです」
「それだけじゃあねえだろ。お前の父さんにもある程度は聞いてるからつかみはOKだ。だがどうも匂うぞ。立村、お前な、気づいてないのか」
いきなり本条先輩は声を潜めた。
「お前の父さんの見合い相手なんだろ」
「それ、父が話してましたか」
上総も本条先輩よりはるかに小声でささやいた。立村家の内部事情を父がなぜ、息子の先輩である他人に話すなんてことがまず信じられない。母にすら内密に、とされているのにだ。注意を要する。本条先輩はつらっとした顔で答える。
「そうだよ、お前がいない間に男同士の気の置けない話をしたわけ。なんかあの姉ちゃんの目つきがやばいとか、お前まさか年上の女に堕ちてねえかとか、いやそれはありえねえ、あんな貧乳ではお前立たないだろうしとか」
「本条先輩!」
思わず立ち上がりピアノの蓋を乱暴にたたきつけた。父と本条先輩は年齢が離れているにもかかわらず妙に意気投合している様子を感じてはいた。なんとなく上総を子ども扱いしているようなところがひっかかったりもしていた。見合いの件くらいならまだ、百歩譲って納得もできよう。しかしまさか、やはり、そんな、あんなことを話しているとは。何が、何が、年上とか、その、胸がどうとかああとか。
──やっぱり恐れてた通りだった! 本条先輩絶対父さんに俺のことしゃべりまくってるんだ!
「何またぶっちぎれてるんだよ。少し落ち着け。それと安心しろ。俺は決してお前の本命が超巨乳の持ち主だとか、毎日寝られないくらいもだえているとかそんなことは一言だてしゃべっちゃいない。そのあたりの仁義はちゃんとある」
「本当ですか」
頭をがしがしかき回され、無理やり本条先輩の隣に座らされる。本条先輩の隣でべったり張り付いているとなぜか、いきり立ったものも和らいでしまうのが不思議でならない。本当だったら家からたたき出して絶交してもいいようなこと言われているにもかかわらず。そっと本条先輩の横顔を伺うと、向こうは笑いをこらえたようにじっと上総を見つめている。しかたなく黙るしかなくなる。悔しい。
「俺がお前の父さんに話した内容ってのは、どっかであの姉ちゃん見たことあるなってことだけなんだ。記憶がぐちゃぐちゃで正直どこかってことも忘れかけてるとこあるんだがな」
「見たことあるって? 先輩、どういうことですか! それっていつごろですか! 学校でですか?」
「学校じゃねえよ。それだったら俺だってちゃんと頭下げるだろ」
本条先輩はさらりと交わして首をひねった。サイダーを飲む。部屋の中が暖かいせいかやたらとのどが渇く。上総も指先を冷やすようにして横目で本条先輩の様子を伺った。
「中学時代だったってのは確かなんだがな、ほんと覚えてねえんだよ」
「……それで、向こうは覚えてたんですか?」
たぶん覚えていたんじゃないかという気はする。野々村先生の様子がただならぬものだったことを考えると、本条先輩の言葉は正しいと判断せざるを得ない。上総も気にならなかったわけではない。ただ、本条先輩の「学校以外」での接点というのがそれこそ「匂う」。もう一杯飲むことにする。
「どうだろ。俺の顔を見て忘れるなんてことは普通ねえだろ。びびってたかもしれねえな」
「でも、それとこれとは」
「まあな。正直あの姉ちゃんのことを思い出すのは面倒なんでどうでもいいんだがな。それよかお前だ、立村よ、お前のことだよ問題は」
本条先輩は天井を見上げつつ、
「いい加減思考停止したまま過ごすのはやめとけよ」
「思考、停止?」
「当たり前だろ。目が覚めている時はへらへらしてるくせに、いったん寝入ったとたんひたすらぐすぐす寝言口走りってるの聞いてたら俺だって眠れるわけねえだろが!」
「寝言、それ、まさか」
息が止まりそうで思わず後ろずさる。本条先輩の眼差しに試しているような色はなし。ただあきれたようにやんわりと、
「思い出したくもねえことを棚上げしておくと、あとで思い切りしっぺ返し食うってことお前いまだに学習してねえのかよ。この鶏頭が!」
──そんな、寝ている時のことまで覚えてられるわけないよ。
夢も見ていない。おきている時は忘れている。面倒なことはすべて意識から消している。
そのつもりだった。
なかったことにした、はずだった。
上総は恐る恐る本条先輩に確認するしかなかった。
「先輩、昨夜、俺はいったい何、話していましたか?」
「お前が三百六十五日ずっと考えているあの巨乳娘とお狐坊ちゃんのことばっかに決まってるだろうが! 寝言の端々聞いてたら全部つながっちまうぞ。どうするんだいったい」




