74 つつみなおし(6)
いつものようなレッスンが終わった後、父が本条先輩と戻ってくるのを待ちながら上総は紅茶のみすすっていた。昼食も勧められたのだが、本条先輩と一緒に過ごすほうが最優先だしということで、印條先生も無理じいはしなかった。
「ところで上総くん」
次の練習曲を何にするかを弓絵さんも含めて話し合っているうちに、いきなり印條先生が問いかけてきた。
「もうそろそろ、大学受験準備は進めているのかな」
「一応、考えてはいます」
上総なりの答えである。とりあえずはこれ以上へまやらかしたりしなければ青潟大学には進学できるだろうし、高望みさえしかければ英文科の内定はもらえそうな気がする。もちろん理数系が壊滅している状態なのは承知しているが。万が一のために他の大学もチェックしておくつもりではいるけれども、まだ動いているわけではない。隣で弓絵さんがやわらかく微笑んでいた。
「青潟大学の英文科だったらとか、そのくらいは考えます」
「そうか。だが四月以降は他の学校情報も集めておかないといけないね」
印條先生がさりげなく紅茶を注ぎながら、
「入学しないとわからないところもあるからなんとも言えないところもある。ただね、やはり自分の好みにあった勉強ができるかどうかを可能な限り調べておくことは必要だよ。たとえば、上総くんは語学系が強いと聞いたけれども、文学をやりたいのか語学を専門に勉強したいのか、その他の分野に興味があるのか、どちらなのかな」
答えには迷うが一応、自分の偏り加減を考えて答えておく。
「海外の作品を翻訳したりはしてみたいとか、そういうのは考えてます」
「特に外国の人たちと交流したいとかはどうかな」
「関心ないわけではないです」
──いや、ほとんど関心ないかもな。
とりとめもなく話をしながらふと、弓絵さんの顔を覗き込んだ。少し困ったように上総を見やり、恥ずかしげにうつむいている。きっと上総の言うも情けない成績のことを丸ごと知っているものだから、
──こいつ正気で話してるのかとか思われてるのかもな。
だいたい想像してみた。
しばらくどうでもいい話を続けて時間つぶししているとまもなく、玄関の呼び鈴が響き渡った。窓辺から見えるほのかな梅の花を眺めつつ、父が車をいつもの場所につけたのを確認し立ち上がった。
「上総くん、それでは今日はここまでだね。弓絵さんも今日はお見送りになりそうだが」
「私も、ここで失礼いたします」
──本気でついてくるつもりなのかな。
いつもだったら上総とふたりでバスに乗り込み、美里たちに見られないことを祈りつつ駅までだべるのが常だった。しかし今日は別だ。申し訳ないがさっさと帰らせてもらう。これから本条先輩が待っている。
玄関まで見送ってくれた先生に振り返りもう一度頭を下げた後、上総はあらためて弓絵さんに説明しなおした。ちらっと本条先輩と会話していたようだし、もしかしたら狩野先生経由で紹介される機会があるかもしれない。本当はこのしち面倒くさいつながりを説明するのも骨なのだが、妙な誤解されるよりはましだ。
「今日はここで失礼します。あの、さっき僕と一緒に乗っていた人なんですけど」
外に出るまでは自然な表情を守り続けていた弓絵さんが上総と目を合わせたとたんふっとまた頬を赤らめた。
「青大附中時代の一年先輩で、あの、本条さんという人で」
「名前は、聞いてます」
言葉すくなに弓絵さんは答えた。なぜかずっと顔を上げない。どうしたのかと問いたいが変にどつぼにはまるのも怖いのであえて知らぬふりして説明しておく。
「今、青潟東高の二年生で、僕とは中学時代から親しい付き合いしている人なんです」
「二年生?」
ふっと弓絵さんが目を丸くし口をあけたままちらと車に視線を流した。声は聞こえない。ただ見えてはいるだろう。上総も振り返ったが父も本条先輩も出てこない。紹介する必要はないだろう。
「あ、四月で三年生、です」
「ということは、まだ、十七歳?」
なんでいきなり年齢のこと聞いてくるんだろう。まがりなりにも高校の先生なのだからそっちの方が詳しいような気もするのだが。仕方ないので頷いた。
「そうです、僕より一才上だし」
「そうなの、そうだったの」
弓絵さんはしばらく呆けたように空を見つめていたがすぐ、かばんを持ち直すようにして、
「私、今日は急いでいるのでまた学校で会いましょうね。本当は上総くんと、もっと曲の話したかったのだけど、ごめんなさいね」
上総の挨拶返しも待たずにそのままバス停まで駆け出していく。いつもならば駐車場で待っている父に一声挨拶をして場合によってはそのまま車に同乗するのが常なのだが。
そのまま車に向かい、上総はいつのまにか助手席に座っている本条先輩に向かい窓ガラスをたたいて合図した。
「よおどうした。さっきからべっぴんさんと鼻の下伸ばして長話してたなあ」
「してませんよ。それより今まで何してたんですか」
言いながら父の方をちらりと見る。実はそちらのほうが少し気がかりだった。父と本条先輩とが年齢差をはるかに越えた形で意気投合しているのに、まさかとは思うがとんでもない情報を流されたりしてないかどうかが不安になったりもする。父はけろっとした顔で答える。
「安心しろ。お前の色即是空な事実とか幼年時代の恥ずかしい記憶とかそんなもんは話題にしていないから、その点はな」
「なんだよその色即是空って」
本条先輩の顔も覗き込みつつ、仕方ないので後部座席に乗り込んだ。シートベルトも締めて、本条先輩の肩に語りかけるようにして、
「けどあのお姉さん、大変だなあ、さっき聞かせてもらったけど、ありゃ秘密にしちゃいますわな」
すっかり父とは対等の関係とばかりに笑いながら話しかけている本条先輩。上総のねたをどこまで肴にしたのかまではわからないけれども、弓絵さんのことについてある程度の事実を伝えたことは確かのようだ。今後の話題にかこつけて確認しておく必要がある。
「父さん、どこまで話したんだよ」
「たいしたことじゃな。お前が高校で世話焼かせている先生で、かつピアノの弟子同士、あまり外にはばらしてほしくない関係だてところくらいかな」
十分過ぎるくらしゃべっている。本条先輩がさらにけたけた笑いながら言う。
「確かに、下手したら誤解されまくりますわな。わかりました、俺がこの件は内密に処理しときますからどうぞご安心を」
やはり本条先輩とは何か、秘密のやり取りがなされているようだった。車が走り出す。
上総はふと、弓絵さんが今日顔を合わせている間ずっと寡黙だったことを思い出した。予餞会の「ローエングリン」やらいろいろと音楽で話題にすべきこともたくさんあったはずなのに、上総に問われるまでは何も語ろうとはしなかった。
──珍しいな。今日に限っては。




