73 つつみなおし(5)
ベットから出て本条先輩の側に張り付いて徹夜して語っていた。話すことなどたいしたことなくて、夜が更けるにしたがい昼間話せないことをいろいろ教えてもらったりもする。
「お前も実践準備それなりにしてるっつうわけか。去年の今頃と比較するとずいぶん成長したもんだな、全く」
本条先輩が上総の隣りに張り付きながら笑う。さすがに答えづらくて口ごもると、
「お前らの学年だと結構チェリーご卒業の奴も多いんじゃねえのか。俺のレクチャーを待つより直接教えてもらえばどうだ」
「確かに卒業している奴は多いですけど、そこまで話せる間柄じゃないし」
上総が教えてもらおうとしたのはいわゆる「初体験」に関することのひとつひとつだった。雑誌ではある程度頭に入っているけれども、その手順が今ひとつイメージがつかない。疑問だけが膨れ上がっているのをいったん整理したいというのがあった。さすがに昼間話す内容ではないとなると本条先輩しか頼る人がいない。
「けどあれですね。思ってもみない奴が実は卒業している話、よく聞きます」
「ほう誰だ」
「例えば、あの」
さすがに特定の誰というわけにはいかない。南雲はさもありなんと思えなくもないが、まさか藤沖がとっくの昔にあの渋谷名美子と……とか、経験有無は別として婚約者持ちの片岡とか、天羽も中学の段階でとっくにおさらばしているとか。いや一番恐ろしいのは、確実に更科が都築先生とそれなりにそれなりだということも。
「まあそりゃそうだ。据え膳出されて食わないわけいかないわな。お前もその口だろ」
「食べないとは言わないですけど、出されることないですから」
「ふうん、じゃあそろそろ俺が誰か紹介してやっか、ってとこなんだがお前の性格だとちょいとやばい。相手を選らばねえとな。うんとやっぱ、風俗に行けるようになってから考えるか」
「それはちょっと」
結局そこで上総の生真面目さが出てしまう。結構つっこんだ話もしているけれども、いざとなるとどうしても退いてしまう。
「手順フローチャートを書きたいのはわかるがな、その前に大切なこと忘れてるんじゃねえか?」
「何をですか」
本条先輩は唇を一瞬尖らせた後、
「ABCという順番があるんだ、まずはAから始めよってことじゃあねえのか? お前、ファーストキスは済ませてるのかどうか、まずそちらを確認しとかないとな」
上総が答えずにいると本条先輩は続けて、
「最初にどこからチューするんだ?」
「やはり、口から」
「ばーか、最初はほっぺただっての。ったくお前なあそんな順番でやらかしちまったら卒倒するぞ、お前の彼女。目の前に目と鼻と口が猛スピードでくっついてくるんだ、うぶな子だったらびびるぞ」
──やはり経験しないと分からないってことか。
その後丁寧にファーストキスに関するフローチャートを書いてもらったのは言うまでもない。実地練習は丁重にお断りした。
当然寝不足の顔で朝を向かえ、さっそく着替えることにした。三月に入ったとはいえやはり朝は冷え込む。
「おい、これからずいぶん堅苦しいかっこしてくなあ」
「ピアノの稽古はいつもこんな感じで行きます。先生の家に行く場合はそうしてかないと親が文句言うから」
「ふうん」
ブレザーを羽織った上総に本条先輩は上から下までじっくり嘗め回すように見て、
「お前の親父さんには、稽古している間お茶ご馳走してくれるって話だったんだがどうしてればいいんだ?」
本日の予定を確認してきた。印條先生の家でいつものようにレッスンを受けている間、本条先輩と父はその辺ドライブして時間をつぶし、終わった頃に上総を拾うことになっている。せっかくだから夕方までのんびり遊べばいいのではという父なりの気遣いだ。ありがたく頂戴する。
「できれば俺の過去についてあまり触れないでもらえると助かります」
「了解。なあるほど」
おそらく父はこの機会に、かつて青大附中時代親に隠してきた上総の姿を探ろうとしているに違いない。だが本条先輩が妙なこと口走ったらその時は上総もお見舞いしてやるつもりでいるし、そんなことしたら最後たぶんこれから先の付き合いは途絶えるだろう。
「じゃあお前が何人女子と付き合ってきてたかとかまだチェリーボーイだとかファーストキスもまだとかそういうことは止めておくとすっか」
「におわせるようなことも絶対しないでください!」
ふざけ半分、本気半分、それぞれ伝えると本条先輩は上総の肩を叩きながらささやいた。
「お互いすねに傷のある身、養生しような」
さすがわかっていらっしゃる。
眠たさ半分かかえつつ上総たちが父の車に乗り込んだ後、上総は助手席ですぐ眠り込んだ。客人は運転手席後ろという決まりもあって、本条先輩とは二言三言しか話していない。到着した時父に揺り起こされた。
「上総、目、覚ませ」
「あ、もう着いたんだ」
いつもどおり、特に渋滞にひっかかることもない日曜朝。海の水平線がちらついている。青空が輝いていて海が銀色に光っている。
「では、本条くん、ちょっとだけ待ってもらえるかな。これから上総と一緒に挨拶した後、すぐ出発しよう。いい機会だ、ゆっくりその、マイコンの話など聴かせてもらいたいな」
「お任せあれ、ぜひ、こちらこそ」
昨夜一晩ですっかり父も本条先輩と意気投合したらしい。なんだか調子に乗った本条先輩が妙なことを口走らないかどうか、父が上総の家でのぐうたらぶりをばらさないかどうか、心配なことは多々あるけれどもまあいっかとも思っている。
「それじゃ、またあとでな」
「本条先輩、すみません。またあとでゆっくり」
上総は車から降り、本条先輩に軽く手を振った。いつものように玄関で印條先生と奥さんの二人と挨拶を交わし、ふと父の車のほうをちらと見た。初めて気づいた。
──しまった、忘れてた!
上総の視界に飛び込んできたのは、車後部座席の窓辺に話しかけているひとりの女性だった。誰かは問わずともわかる。野々村先生、もとい、弓絵さんの存在を今の今まで忘れていた。
いつも弓絵さんはバスでここまで通ってくる。印條先生の家では決して青大附高の教師ではなく同じ師につくきょうだい弟子というわけだし、最近は上総もその切り替えに慣れつつあった。しかし、いやしかし。
「おや、上総くんどうしたのかな」
「あ、あの、車が」
上総がどもるのを父は目で制し、
「実は、上総を中学時代から弟のように可愛がってくれている先輩くんがおりまして、上総のレッスンが終わるまでは彼と僕とでドライブしようかなと考えていたところです。気になってしかたないんでしょう、この子も」
微笑たたえて伝えた。事実ではあるがすべてではない。あわてて目線を戻した。
──なんで、弓絵さん、車の中にいるのは本条先輩のみなのに、なぜ話しかけているんだろう。まさか、知り合いなんてこと、ないよな。
話しこんでいるのだろうか。弓絵さんが印條先生の玄関に経ったのは、それから五分後のことだった。




