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68 裏返り(4)

 杉本梨南は嘘を言わない。

 一度約束したことは自分の本意に反したことであっても絶対に守る。

 その杉本が両手で今にもバケツの中に盛り込まれた雪を構えているのであれば。

「わかった、とにかく、床において」

 とっくに上総の全身には杉本梨南の存在だけで身体が冷え切っていた。これ以上雪まみれになろうものなら、完全に雪像、いや氷像と化してしまうだろう。

 杉本は言われた通り、バケツを静かに置いた。一歩近づいてきて、上総の背中をすり抜け霧島にかがみこんだ。

「霧島くん、大丈夫ですか」

「……杉本先輩?」

 涙にぬれたままの霧島も、まさかよりによって杉本が助太刀に来るなど想像だにしていなかったに違いない。上総の手が霧島の襟元から離れたのを確認し、杉本は霧島を助け起こし、ネクタイおよび緩みきった襟を整えてやった。見るからに、

 ──新婚夫婦でもあるまいし。

 思うだけでも下品な罵倒が飛び出しそうになる。飲み込むため、視界から杉本の姿を消すため、上総はふたたび影法師を見つめた。そこにはかいがいしく世話をやく杉本の姿と同時に、涙がたっぷり含まれた口調で、

「杉本先輩、先輩、今まで、ごめんなさい」

 情けなくも許しを請う霧島の頭とがそれぞれ映っていた。


 ──よりによってなんで杉本に見られたんだ!

 自分をののしってもしょうがない。とっくに杉本は帰ったものだと思っていた。自分らの後を付けてくるとも予想していなかった。中学の体育準備室という秘密基地に杉本が自分から気づくとも思えない。ということはやはり追いかけてきたと思わざるを得ない。

 ──それも、なんで、気づかなかったんだ俺は。

 ふたりきりで詰問していた時も、ドアが開いた段階でよそ者到来とすぐに気づくべきではなかったのか。騒音の激しい場ではないし、もう少し上総が気を遣っていれば多少は穏やかに霧島と対話していたはずだ。自分なりのブレーキもそれなりにかけられたはずだ。

 それを、よりによって、誰にも見せたことのないたがの外れた自分を。

 杉本が飛び込んでこなければ、自分が何をしていたから、わからない。

「立村先輩、この近辺には誰もいませんでしたのでご安心ください」

 ばつが悪い、どころの話ではないのに杉本は、いつもの一本調子な声で上総に呼びかける。

「いつから来た?」 

 そっぽ向いたまま問いかけると、

「おふたりが体育準備室に入った時からです。奥まったところにもう一部屋あるということは、現在青大附中在学中の生徒であれば常識的に理解しております」

「常識的に、か」

「はい。よく新井林と佐賀さんが入っていくのを見かけたことがあります」

 何事もない時であれば霧島も顔を引きつらせるだろうが、シルエットは身動きひとつしない。聞き入っているのみのようだ。

「誰にも聞かれないところで話し合われるのであれば正しい選択です。私も立村先輩が常識を逸する講堂を取ろうとなさるまでは、さっさと姿を消すつもりでおりました」

「盗み聞きしてたのかよ」

 責めてやる。勝ち目がないのはわかっていても。杉本は頷いた。

「その通りです。立ち聞きという行為そのものは私の罪です。あやまります。ですが霧島くんに対してなぜ、立村先輩は手を挙げようとなさったのですか。いえ、もうすでに挙げてらっしゃいます。なぜ、あれだけ暴力に対して嫌悪感を持たれる立村先輩が、自分にあれだけ懐いてくれている霧島くんをなぶろうとするのですか」

「理由がある。わかるだろ。聞いてたんなら」

「事情は理解いたしました。ですが立村先輩、多少のことは理解できるのではありませんか。そんなに霧島くんを責め立てなくてもこの件そのものはあっさりと結論付けられるのではありませんか」

 しゃちほこばった口調は杉本のいつものもの。驚くには当たらない。

 ただ知ったかぶりで言い放つのが、勘に障る。

「じゃあどうしろって言うんだよ」

「立村先輩、幼児のごとくすねないでください。私の申し上げたいことは話を少し整理していただいたいというそれだけです。これから先のことを考えるとすべては学校側の都合のよろしいように処理されるでしょう。私の時と同じように」

 はっと、杉本を見る、声をあげおんおん泣いている霧島をさておいて。

「今のところ圧倒的に援軍をかかえているのは新井林です。もし霧島くんが先ほどのように真実を訴えたとしても、すぐに押しつぶされてしまうでしょう。それに佐賀さんも今までどのような対応をしていたかはわかりませんが、おそらくなんらかの手はとっくに打っているはずです。霧島くんの言い分をそのままみんなの前で認めるとは思えません。さらに言うならば、霧島くんは」

 言葉に詰まる。だいたいなんなのか、ほのかに漂う。

「私も何度か佐賀さんと霧島くんがふたりで歩いていたりするのを目撃しています。一度は、佐賀さんが私を呼び止めようとしていましたし。霧島くん、あの時もやはり佐賀さんをゆすっていたのですか」

 真正面から問いかける杉本に、完全なる腑抜けの霧島が目をぬぐいつつ頷く。

「あの時、あの時は、黙っててくれればもう少し何かって話で」

「お前なんてことを」

 思わず頭の頂点に火が点きそうになる。腰が浮く。すぐ杉本が上総の前で通せんぼをする。

「立村先輩落ち着いてください。私の話が終わるまでお待ちください」

「落ち着いてられるかよ! 人間としてやっていいことと悪いことが」

「あります。それは普段であれば誰でも理解していることです。立村先輩ならお分かりのはずです。普段であれば絶対にしないであろうことを、あまりにも気持ちが裏返ってしまった時にどうなるか、ご理解いただけませんか?」

 一歩、膝で詰め寄ってくる。三人とも冷えた床に座り込んだまま。杉本の膝が上総の膝に触れそうになるくらい。コートの裡が一気に温度高くなるのを感じる。

「杉本にはわかるのか」

「わかります」

 まっすぐに、すべてを射抜くような厳しい瞳で杉本が上総の側ににじり寄る。

「信じていた友だちに裏切られて、さっさと別の相手と仲良くしろと言うのと一緒です。そうかんたんにあきらめられますか。一生の友として信じてきた相手にあっさり裏切られ、憎まずにおれますか。恨まずにおれますか。復讐したいと思ってどこがいけないのですか」

「思うこととしていいこととは違うだろ」

「先輩こそなさったではありませんか! とことん叩きのめしたではありませんか! 私にも復讐していいとおっしゃったではありませんか! なぜ、霧島くんに対してだけそれを許してあげないのですか。さんざん翻弄してきた佐賀さんを憎んでどこがいけないのですか!」

「霧島のしたことはいわゆる脅迫なんだ。どんなに腹が煮え繰り返っても恨みが消えなくても、いったん相手に手を下してしまえば終わりなんだ。どんなに正しくても、相手に報復してしまったらもう勝ち目なんてないんだ。骨身に染みるほどわかっている俺の言うことのどこが間違ってる? どんなに杉本が佐賀さんに見捨てられて傷ついてても、霧島が理想をひっくり返されて失望しても、相手には関係ないんだ。自分ひとりで耐えていれば誰かが味方になってくれるし反撃もできる。いったん自分の手を汚してしまったらもう、誰一人助けてくれないんだ。どんなに霧島が佐賀さんの間男疑惑を言いふらしたって、いったん脅迫したという事実の方が重罪になるのは当然だろ? どんなに、どんなに」

「立村先輩は霧島くんの味方に立つおつもりないのですか」

 杉本の言葉が、冷え切った部屋いっぱいに響いた。バケツの雪は溶けていなかった。


 上総は立ち上がった。自分のコートを調えた。腕時計を覗き込んだ。五時四十五分。急いで戻らないと予餞会の極秘リハーサルに間に合わない。頼まれていたウェディングドレスの手直しもままならない。目の前にないことに意識を飛ばした。

「立村先輩、どうなさるのですか」

「今日はセミナーハウスに泊まる」

「それが」

 冷ややかな声が返る。杉本がじっと上総を見上げている。同時に霧島が涙を手の甲でぬぐっている。

「霧島」

「先輩、僕は」

 もう外は闇だろう。この時間帯に女子ひとりで歩かせるのは危険だ。

「杉本を家まで送っていけ。そのくらいのことはしてもいいだろう」

「え?」

 杉本と霧島が顔を見合わせて、あっけに取られたまま座り込んでいるのを振り返りもせず上総は扉を開けたまま外に出た。グラウンドは完全なる闇の中。抱えた荷物でふらつきそうになりながら、上総はもと来た道をゆっくりと歩き始めた。

  

 



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