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67 裏返り(3)

 膝を突いて霧島の襟首をネクタイごとつかみ、何度も揺さぶり続けた。

「先輩、やめてくだ、怖い」

「そんなこと言えた義理か!」

 いったん火がついてしまうと自分でももう押さえが利かなくなってしまう。今までは自分の裡だけで留めておけたことだけども、今目の前にいる霧島が百パーセント悪である以上ぶつけどころはそこしかない。

「お前、よりによってなんであの人に取り付いた? 百歩譲って嫌味言うだけならまだしも、なんで犯罪すれすれのことやらかそうとしたんだよ?」

「離して、やめてください、だって先輩が」

「俺がどうした、俺のせいか」

 ネクタイで首絞めそうになるのを必死に自制する。霧島の目から溢れる涙は闇の中で光っている。鼻水を啜り上げる音も聞こえる。コートを着たまま身体をよじる霧島の肩をしっかり押さえつけ、一歩寄る。しゃくりあげながら上総のせいにしようとする。

「僕は何度も、先輩のとこに行こうとしました!」

「行こうとしたったって、俺はいつでもいただろ? うちにも来ただろ? 学校でも会ってただろ? いくらでも話す機会あっただろ?」

「学校の中とか、そういうとこで話せないことじゃないですか!」

 何を今更言い訳しようとするのだろう。思うより先に片手が勝手に霧島の頬を打っていた。自分の中の鍵が外れたような気がした。

「だから、何度も、何度も」

「この前うちに来た時、あの時じゃだめだったのか!」

 一点の曇りもなかったわけではない。気になってはいたから霧島を品山の自宅に呼んで詳しい事情を聞きだそうとした。あの時の霧島ときたらつらっとした顔で白を切ったじゃないか。あれ以上上総はどういうチャンスを与えればよかったのだろう? わからない。傷口がぱっくり割れるまでの間に何か、自分で出来たことがあるというのか?

「あの時はもう」

 一瞬上総の手が緩んだ。頬を押さえ、霧島は顔を覆ったままさめざめと泣き続けた。声をあげ、激しく壁に頭を打ち続けた。上総はあえて光に映る自分らの影を見据えていた。ゆれる霧島の影と対照的に自分の姿はびたひとつ動かないままだった。

「もう、止まらなかったからです」


 ──まさか、霧島が。

 青大附高生徒会長、学年トップの秀才、怜悧で端正な顔立ち。女子たちからの憧れの的になる要素をほとんど備えている霧島真という人間が、いったいどこで道を踏み外してしまったのだろうか。いや、余計な肩書きをとっぱらった上でも霧島は決して、正義に反したことを平気で行えるような悪党ではない。もしそうであれば上総は人を見る目が救いようのないほど曇っているということになる。見た目は貴公子であっても中身は手に負えない甘ったれの弟、そういう性格のギャップを踏まえてもやはり霧島が手を染めそうなこととは思えない。目の前でまさに「しくしく」泣いている姿は男子らしさとはかけ離れている。上総の問いたい言葉はただ、なぜか、それだけだった。

 ──噂があったのは確かだ。霧島が佐賀さんに執着していて、なんとかして新井林から奪い取って我が物にしたいと思っていたことも俺は気づいていた。そんな無茶なとは思っていたけれどもそれは人の心、どうしようもないってことくらい俺も分かっているつもりだったさ。けど、なんでだよ、なぜ。

 関崎の中学時代親友で、実は今だに切れていない佐賀の浮気相手。一度だけそいつを別の意味でストレートパンチ食らわせたことがある。事情もあってあえて勘違い野郎の汚名を来たけれどもあの時の行為を上総は一度も後悔していない。きっちりと裏づけのある事実を持って行ったことだと自負している。あえて屈辱を耐え忍んだのは、佐川を張ったおした時即に、親友のため土下座して上総を止めようとした関崎の男気に負けたからだった。あのまっすぐな気性の関崎がなぜ、策士たる佐川を親友として受け入れているのか上総には今だ理解できない。

 ──佐川と佐賀さんとが相変わらず付き合っていることを見抜いた以上、霧島もあきらめるしかなかったはずだ。もしくは向こうが別れるのを待つか。どっちかだ。それをなぜ霧島はあえて、佐賀さんに近づいて、そんな脅迫じみたことしたんだ? それこそさっき新井林に言い放った通り、幻滅したさようならで終わらせればよかったんだ。なぜ?

 改めて上総は霧島の顔をぐいと片手で持ち上げた。顔を覆う手を払った。

「答えろ。今だにお前、佐賀さんのこと、好きなのか」

「まさか、それはありえません」

 かすれた声で霧島が答える。上総も容赦はしない。畳みかけた。

「それなら聞くが、佐川と佐賀さんがそれなりのことをしている時にお前、見ててどう思った? 妬いたのか、それとも憎んだか」

 首と身体全身を震わせて霧島が叫んだ。

「殺してやる、殺してやりたい、それだけ、です」

 外に声が漏れるかもしれない。口をふさぎ、小声でさらに問い詰めた。

「なら、幻滅したんだろ。そんな相手さっさと忘れればよかっただろ。よりによってなんで、お前、しつこく付きまとったんだよ。俺にも言ってただろ、あの人が最高だ、あの人が一番だって、お前言ってただろ? あれ嘘だったのか?」

「あんなことを言ってた相手が、まさか、あんな最低女だったと、今更言えるわけ、ない、ないです」

「俺には言えただろ? お前も知ってるだろうが俺は最初から佐賀さんとは反目している状態だ。向こうは鼻にもひっかけてはいないだろうが。それならなぜ、俺にそのこと言わなかったんだよ」

「言おうとしました、だから言おうとしたんです!」

 悲鳴に近い声で霧島が泣き叫ぶ。少しだけ声は抑え目に。

「それわかってからE組の話があって杉本先輩と顔を合わせる可能性があると聞いて」

「杉本と顔合わせることとどう話、つながるんだ」

「もしかしたらすべて、僕があの女に見てきたことがすべてさかさまかもしれない、そう思ったからあえて、E組に入ることを志願しました。立村先輩のこともあったし」

 虚を突かれて思わず息が止まりそうになる。がさりと氷柱が落ちる音がした。

「やはり、実際杉本先輩と話してみて、やはり、やはり」

「やはりなんなんだ、早く答えろ」

「やはり、思った通りだったんだって、そう思っただけです、だから」

 ここでまた霧島は顔を覆い、頭突きを繰り返した。時折「ああ」と悲鳴らしき声を挙げる。完全に霧島が壊れていく。上総の激昂が抑え切れなかったせいなのかそれとも、自分の罪に苦悩しているのか。判断しかねた。一方で上総の中で真っ黒い泥のようなものが沸騰しているのはどう処理すればいいのだろう。ただ吐き出すべきか、それとも塗りつぶすべきか。もう一発片方の手で殴りつけたいくらいの熱さが身体にみなぎる。唇かんでこらえる。

 ──杉本のことを見直した、ということか? 

 細い風のようなものが首筋に流れたような気がする。

「ここまで僕を翻弄してきたあの女に一発泡吹かせてやりたかった、それがそんなにいけないことですか! 僕だって悪党じゃない。新井林先輩ならば正々堂々奪い取ることだって考えてました。けど、あの、あの女は、佐賀という女は!」

 かつて「完璧な女子」と崇め奉っていたかつての霧島と同じ口から出たとは思えない。

「僕にチャンスがありそうなこと言って、たとえば新井林先輩との仲がうまくいってないとか、寂しいから一緒にいてとか、いろんなこと言って、だから僕は真正面から信じきってしまったんです。嘘八百だったにも関わらずばか正直に信じ込んであれやこれやしてたんです。それを一瞬のうちに、あの青潟工業の奴に! 佐川書店の野郎に!」

「だから、なのか」

 懸命にわかってもらいたいとばかりに訴える霧島の想いを、可愛い後輩の甘えとして受け止められればどんなに楽だっただろう。ここでさんざん佐賀はるみの二股交際ぶりを罵倒しあってすっきりする程度であれば。しかし霧島のしたことははるかに法を越えている。

「佐賀さんをゆすって、ばらされたくなければお前の言う通りにしろとばかりに脅して、AだかBだかCだか」

「Aです、Aで終わってます! Bはまだ」

「いい加減にしろ!」

 もうだめだ。自分の頭にぶら下がっていた氷柱のようなものが完全に落ちた。

 霧島の頬を片方ずつの手の平で往復殴りつけている自分。

 座ったまま何度も床にたたきつけている自分。

 もう、止められなかった。

 ──もうおしまいだ。もう、かばえない。


 背中に流れ込む風にかすかな香りが混じった。空気がふっと溶けたような気がした。

「立村先輩」

 呼びかける声に上総は振り返った。霧島の襟首を掴んだままに。

「外に声はまる聞こえです。お控えいただけますか。それと、これ以上暴力行為を続けられるようであれば、こちらを先輩の頭にすべてかぶせますがよろしいですか」

 抑揚のない声、ブリキのばけつにたっぷりと白い雪を詰めて上総に向かい立っているのは杉本梨南だった。かばんを足元に置き、両手でバケツを持ち上げるようにして、

「おやめになりますかどうなさいますか」

 静かに問うた。

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