60 氷柱崩壊(2)
一度口にしたことは守らねばならない。
五時間目の現代文学に関するビデオを観終えた後、梨南はすばやく身支度を整えた。
「とうとうあいつ来なかったなあ」
「心配なさるのは当然です」
「まあ、たまにはぱーっとサボりたくなる時もあるかとは思うんだがなあ」
たいして心配しているようにも見えないが、ただ二時間目前の狩野先生の様子は少し異常だった。結局あれから何事も起こらず、途中に体育の授業が混じったっきり。特に何かが起こる気配もなかった。
「担任の狩野先生があそこまで心配なさるのであれば、私も確認はさせていただきます」
「思い当たる節でもあるのか?」
「私にはありません。一般的な噂のみです。ただ立村先輩であればもう少し詳しい事情がわかるかもしれません」
菱本先生は吹き出した。
「さっきそんなこと言ってたな。立村も霧島にはいい兄ちゃんになっているようだが」
「霧島くんが利用しているだけだと思われますが、私よりは情報を持っていると思われます」
「そっか、そうだな。ああだがな、杉本知ってるかもしれないんだがなあ」
手をぱちりと打った。
「今日は青大附高の入学試験日なんだ。それで学校に入れないんだよ」
「入れないということは、学校休みということですか」
自分に関係がないと思ってそのあたりはチェックしていなかった。うかつだった。
「いや、次の次の日が予餞会といって卒業生を送る会の派手な奴をやるんで生徒会や実行委員たちは生協かその辺でつるんでいるはずだがな。少なくとも俺の頃はそうだった」
一応菱本先生は青潟中学・高校・大学フルコースの出身者である。
「だとしますと、その辺を歩いていれば見つかる可能性はありますか。立村先輩はお話によると規律委員会に所属しているはずです」
「規律? どうだろうなあ、ほとんど実行委員しかいないんじゃないか? あいつ実行委員やるような玉か? いやまあ評議委員長やってたくらいだから関係あるか。でもまあ、もし探すんだったら生徒会あたりから当たりつけて行けばいいんじゃないか? 清坂とか羽飛とかなら少なくともさ、生徒会長副会長だからなんだかんだ上右方は持ってるんだろ」
なるほど、さすがだ。やはり菱本先生はまっとうな発想力の持ち主だ。狩野先生とは大違いだ。見直した。
「素晴らしいご意見ありがたく頂戴いたします。それでは行ってまいります」
笑いをこらえるようにしながら菱本先生は手を振った。
「じゃあな、立村に会ったらよろしく言っといてくれよ。それと、霧島見つけたら首根っこ捕まえて明日絶対来いって伝えておいてくれよ」
「承知いたしました」
約束はした。守らねばならない。
教師指導室を出て生徒玄関に向かった。立村先輩に会うのは気が重いが先生たちと約束したのだから守るのは義務だ。靴を履き替えようとした時、階段を激しく言い争う声が玄関ロビーに響き渡った。近づいてくる気配あり。男子と女子の叫び声と、それに伴う野次馬たちの群れ。まとまった人数がぞろぞろ続く。梨南はそのまま立ちすくんだ。
──まさかあれは。
偶然にもほどがある。ふたりとも見覚えのある顔ばかりだった。怒鳴っているのは男子、泣いているのは女子、側で喚きたてているのは別の女子、集団で押さえつけようとしているのは別の男子たち。忘れもしないあの顔は、
──新井林とはるみ?」
梨南が玄関先でじっと見つめているのをふたりとも気づいていないかのように振舞っている。距離があるから当然か。よくよく見ると風鈴型の髪型を振り乱して騒いでいるのはかの天敵・風見百合子ではないか。風見と渋谷のふたりはいつもはるみにくっついて親友面していたけれども、例の事件がきっかけで渋谷が梨南の敵ではなくなった今、すれ違うたびににらみ合うのは風見ひとりとなった。しかし、まさか風見が親友はるみの恋人新井林を罵倒しているとは、信じ難い光景だった。
「そんなことないわよ! ハルはね、そんな二股なんかする女子じゃないって言ってるでしょ! 私、ずっとハルと一緒にいたけど、一度だってあんた以外の男子に目を向けたことないって言ってるじゃないの! 悪いけどハルの彼氏だからってあんな言葉でののしるなんて男の風上にも置けないわよ! ハルに謝りなさいよ!」
「だからお前邪魔するな! これは俺と佐賀との問題だ!」
「昨日の段階であんた霧島くんに文句言ったよね! ちゃんと誤解を解けとか伝えたんでしょ! ハルが違うって言ってるんだからこれはもう、霧島くんの片思いなだけなんだから、ハルを責める筋合いなんてないって言ってるの!」
「お前佐賀じゃねえのに、なぜそうやって口挟むんだ馬鹿野郎、早くどけ!」
「いいえどかない! 女子を人前でののしるだけじゃなくって、二股しているとか浮気してるとかあんな失礼なこと言われたら、誰だって起こるはずよ」
「じゃあなんで、佐賀、お前、否定しないんだ! あいつの前で!」
「だからあんた何度言ったらわかるのよ。今日霧島くん休みなんだって!」
なんだか演劇を見ているかのようだ。はるみはひたすらヘアバンドした女子の胸に顔をうずめて泣いている。ひとりで戦っている風見を相手に、ただひたすら隠れている。新井林はブレザーを床に脱ぎ捨て、何度も足を踏み鳴らす。興奮しすぎて自分を抑えられないようでもある。いつのまにか通りすがりの生徒たちが先輩後輩同輩それぞれ取り囲みひそひそ話をしつつ様子見している。
「俺が言いたいのは霧島の言ったことになんで言い返せねえんだってことだけだってのがわからないのか! 言えよ佐賀、はっきり言えってのがわからないのか! 違うなら違う、そうならそう、そのイエスかノーか、どっちかってのがなぜ言えないんだ!」
なおも激しく泣きじゃくる佐賀はるみの姿をどこかで見たような気がした。
黙って背中を撫でてやっているヘアバンド女子渋谷名美子の姿に何か似たものを感じた。
──霧島くん、新井林から逃げようとしてる。
梨南はすばやくその場から立ち去った。あのふたりには死んでも関わりたくない。
ただ、約束は守らねばならない。
立村先輩を捕まえて、霧島の状況を伝える義務がある。
たとえ後で霧島が文句言おうとも、梨南は先生たちと約束してしまった。最低限の義務は果たさねばならない。たとえ立村先輩が梨南に会うことを拒否していたとしても、どんなことがあっても今日中に探し出さねばならない。
外の風は冷たく時折雪が混じっていた。とりあえず生協に向かうことにした。
──立村先輩はもう、私のことなど忘れているかもしれないけれども。




