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59 氷柱崩壊(1)

 その時は、突然やってきた。


「珍しいな、霧島が遅刻するなんてな」

 二月に入ったばかりの冷え込む朝だった。菱本先生がひょいと梨南とその隣りの空いた席を見やり、

「最近風邪がはやってるから気をつけろよ」

 穏やかに語りかけた。いつのまにか霧島が居座り、学内の孤島状態で受ける授業に頭が完全に慣れてしまっている。通信教育用のテキストと一緒にビデオを観ながら語り合う授業は何時間でも苦痛なく過ごせる。

「どうなさったのでしょう」

 ノートと筆箱を用意しつつ梨南がつぶやくと、

「まあ、たまには寝坊しちまう時もあるぞ。男子は特にな」

 わけの分からぬことを答える。

「少し待ってるとするか。それともビデオ観ながら待ってるか」

「ビデオを観たいと思います」

「わかった、じゃあ今日はアジアの生活文化についての特別ビデオでも見ようか。霧島が来たらもっかい巻き戻すかもしれないがまあいいだろ」

「わかってます」

 梨南もすでに菱本先生のやり方には慣れていた。とことんふたりの進度に合わせること。ただし遅れてきたら遅れた相手に合わせること。同時に難しいところにきたら納得するまでとことん語り合うこと。菱本先生の持ち合わせていない知識についてはすぐに大学教授などありとあらゆるネットワークを使って埋め合わせること。

 ──こういう授業をもう、四月からは受けられなくなる。

 ──面白いと感じたことを口に出せなくなる。

 あと一ヶ月半、限られた時間、余計なことを考える暇などなかった。忘れていられた。


 ビデオを一本観終わった後、菱本先生は教室の時計を見上げ首をひねった。

「変だな、今日は霧島、休むなんて聞いてないぞ」

「まさか事故にでも遭われたのでしょうか」

「人聞き悪いこと言うなよ。ちょっと職員室行って来るから今のうちに休憩に行ってこい」

 やんちゃな口調でひょいと教室を出て行った。普通の男子であれば常識なしと切り捨ててしまう態度だが、もう菱本先生に対しては慣れた。

 ──それにしても、本当に珍しい。

 霧島と普通の会話を交わすようになり半年程度だが、梨南と同じくほぼきちんとした態度で授業を受けている。もちろん遅刻することもない。時折姉にあたる霧島ゆい先輩から聞くところによると、最近は機嫌よく家でも過ごしているという。それなりに青大附中での生活に満足しているのだろう。

 タイミングもよいところでお手洗いに立った。二時間目の休憩時間にちょうど当たったこともありそれなりに混みあっている。梨南の前にはふたり先客がいる。二年の女子たちで梨南の顔を見て軽く会釈をしてくれた。礼儀正しい子だったがすぐにおしゃべりを再開し始めた。


「ねえねえ知ってる? 生徒会長とうとう先輩に宣戦布告されちゃったって」

「うん、聞いた。生徒会室で大騒ぎだったんでしょ?」

「らしいよ。生徒会室に新井林先輩が飛び込んできて」

 ──まさか!


 ここまで話したところでひとりがすぐ個室に向かった。それ以上の情報は得られなかった。聞き出そうとしたがすぐに別の個室も空いたので結局梨南が仕入れたものはこれだけだった。それで十分だった。

 ──大変なことに、なってるのかもしれない。

 急いで教室に戻った。まだ菱本先生は職員室から帰ってきていない。次の授業である英語の教科書を準備し、指先をさすって頭を整理するよう勤めた。

 霧島がはるみを追いかけ続けていて、少し顰蹙気味の扱いを受けていることはなんとなく聞いていた。気にならないこともなかったので、三年B組に戻って授業を受ける時は他の女子たちの持ち出す噂に耳を傾けるようにもしていた。しかし特段はるみと新井林とがよそよそしいとか霧島がちょっかいだしているとかそういう話までは出てこなかった。新旧生徒会長である以上それなりの接点はあるだろうし、現生徒会長の霧島が旧生徒会長の佐賀はるみを尊敬しているのは自然の流れだろう。話題にすら上がってきていなかったはずだ。

 だがしかし、今は。

 ──やはり、何かあったに違いない。

 どこまで正しいかは判断できない。新井林の性格上、はるみに危害を及ぼすものに対して容赦はしない。梨南の実体験を含めて言うなれば、絶対息の根止めるまで叩きのめす。守ろうとした相手も逃げ場がないくらいに同じ目に遭わせるだろう。もし霧島が、はるみにしつこく付きまとうということであれば新井林がぶち切れるのも不思議ではないということになる。

 だが、霧島の言い分では新井林のほうこそ清坂先輩にちょっかい出していて、はるみが傷ついて相談しているだけともいう。どっちもどっちだ。はるみからすれば誰でもいいから話を聞いてほしい相手として霧島を選んでいるだけともいえる。もし梨南がかつてのような親友だったらそのポジションを担当しただろうし、やましいところはないだろう。

 ──でも新井林は、霧島くんを敵だと思ってそういう行動をとったに違いない。

 霧島が本心どのような感情を隠していようが梨南には関係ないことだ。霧島とふたりで決着を付ければいい。ただ、青大附中でとっくみあいの喧嘩をやらかしたらなんらかのペナルティが与えられるのはしかたない。そのくらいの覚悟があってふたりともやらかしたことだろうし、それはそれでどうでもいい。

 ──あとで結果を聞きましょう。


 なかなか菱本先生は戻ってこなかった。ビデオを持ってくるのは菱本先生なので時間だけが無駄に流れていくのがいらただしかった。しばらく本を読んだりしているうちに菱本先生ともうひとり、狩野先生が現れ思わず起立した。

「杉本さん、おはようございます」

「おはようございます、狩野先生。何か御用でしょうか」

 ふたりの教師が顔を見合わせ、とりあえずといった風に入ってきた。狩野先生はいつも霧島が腰掛けている席にすばやく座り込み、梨南にも椅子を勧めた。

「杉本、授業の前に、霧島のことでちょっとだけ話を聴かせてもらえないかな。いや、悪いことじゃないぞ。大丈夫だ」

「いかにも私と話をなさる時は悪いことばかりのようですが」

「そんなことないない。ほらほら機嫌直して。では狩野先生」

 梨南に語りかける菱本先生の口調が軽やかなのに対して狩野先生の表情は堅かった。そのまますぐに梨南へ質問を投げかけた。

「いきなりで申し訳ありません。杉本さん、本当にささいなことでかまわないのですが」

 切り出した。

「ここ一週間ほど霧島くんと話をしていて、何か変わったことはありませんでしたか」

「別にそこまで深いことを話したわけではありませんので、特に変わったこともありません。霧島くんとはごく普通の常識的授業を受けているだけの間柄です」

「質問の仕方が間違っていました。杉本さん実は、今日、霧島くんが学校に来ていないのですが、何か思い当たる節はありませんか? 杉本さんが感じただけではなくて、学校内の噂とかそういうものでもかまいません」

 狩野先生はゆっくり、じっと梨南の顔を見上げるようにして問い詰めた。

 

 どうもこの先生の態度は前から好きになれない。いかにも持って回ったような言い方をしつつ、梨南を追い詰めようとする。ちょうど去年の今頃に起きた一件を思い出し、つい首を振ってしまった。

「私には思いあたる節がありません。ただ」

 今さっき耳にした、霧島と新井林の「はるみ争奪戦」なんていう情けない三角関係の顛末なんて口にしたくもない。隠すもなにも、ただ気持ち悪い。だがこのままだと自分が嘘を言うことになる。

「あとで立村先輩に確認してみます。確実でないことを私の口から話すことはできないので、ふたり以上の確証が取れた段階でお話させていただくかもしれません」

「ということは、何かあったということなのですか」

 鋭く追い詰めようとする。隣りで菱本先生が穏やかに声をかけてくれた。

「霧島は年上女子が好きだからなあ。そういうそぶりは見せてたよなあ」

「霧島くんのそのことに関する言動は、あまりにも日常的なので、それが特別なことなのか判断はつきかねます」

 ここまで話したところで狩野先生ははっと何かを掴んだように顔を挙げた。

「わかりました。ありがとう。助かりました。立村くんには僕からも連絡を入れてみますが、できれば杉本さんからがいいですね」

 かもしれない、とは言わず「からがいい」と言い切られた。


 三学期が始まってから、一度も立村先輩は青大附中に姿を見せていないのに。

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