58 トライアングル(4)
誰もいない家の中。手の混んだ昼食を作ることもなく、食パン一枚にバターを塗りそれで終わらせた。父の戻りはたぶん夕方だろう。それまではひとりで過ごせるだろう。
制服から裾の長いグリーンのワンピースに着替える。
母がいた頃は決して許してもらえなかったお気に入りの服だった。
今はためらうことなく自室の隣りにある衣装室にて着替えられるというわけだ。
髪の毛を解いて丁寧に梳いた後、すっと背を伸ばす。紅茶のみ自分の分を入れてそれからゆっくり楽しむことにする。
母がこの家を出て行ってから、もう一年近く経つ。
冬休み中も何度か母方の実家を訪ねる機会はあったのだが、すでに入院中ということもあって顔をあわせることができなかった。祖父母の他人行儀な態度や、たまたま帰省中の叔母たちの冷ややかな視線に梨南よりも父が恐縮してしまい、結局日帰りで戻ってくるはめとなった。
──私はある意味、母を殺したのかもしれない。
口には出さないけれども、すべての悪の権化として扱われている感触はある。
父も、梨南とふたりきりの時には口癖のように、
──梨南は、お父さんとお母さんにとって最愛のお姫さまだからね。信じるんだよ。
言い聞かせようとしている。その時は信じた振りをして頷くのみ。父は簡単に騙される。
──私は、父の将来も母の精神もすりつぶしたのだからしかたない。
結晶が水色のラインで描かれたティーカップに紅茶を注ぐ。甘い色とほのかな香りに一瞬すべてを忘れたくなる。ポットと一緒に運び、ベッド脇のミニテーブルにそっと置く。今日はミントの葉を一枚載せてみる。すうっとくるものがある。
机の上に置いた二通の手紙に手をかけてみる。一通はすでに封を切ってこれから返事を書くつもりでいる。しかしもう一通はまだ読んでいない。名前だけ確認してそれから放置したままだ。礼儀知らずの行為であることには違いない。
読むべきか思案する。
──急ぎではないし。
やめることにする。やはり今はミントを浮かべた紅茶で気持ちを癒したい。
封を切ったほうの手紙は、和紙漉きの封筒と便箋だった。紙風船のイラストが透けている。
──杉本さん、元気? あれからいろいろありましたけど私、やっぱり高校受験することにしちゃいました! うちの両親、ダーリン、おかみさんとも相談したんですけど、やっぱり今の時代すぐにこの世界に入ってしまうよりも、もっと視野を広げてからでも遅くないんじゃないかって言われて。でもここでの修行は今までどおりでいいよって言われているんで甘えちゃうつもりです。三月六日の公立高校受験だけにして、もし滑ったら浪人しようかなとも思ってます。おかみさんからは、芸者さんよりも和楽器の専門の学校に進学してそこから考えてもいいんじゃないかって言われてますけど、いいのかなあそれで。だんだん芸者さん少なくなって困ってるなら私がさっさとデビューしたほうがいいんじゃないかって思うんですけどね。大人の考えってわかんないなあ~。ほんとそう思いません? 杉本さーん、どう思います?
手紙でもしゃべっているような書き方をする花森さん。
いつもそうだ。笑い声や擬音まで時には入れる。
品がない?といわれればそれまでだけど、花森さん限定で言えばその書き方が決して不快ではなかった。声がびんびん伝わってくる。
──あ、そうそう、実はね。冬休み中に日本舞踊の初ざらいってのがありましてそこで踊らせてもらってるんですけど、前回に引き続き立村先輩と会っちゃいました!
立村先輩のお母様ってのが、私のちっちゃいころからお世話になっている大先輩ってことは知ってますよね? 私も踊りの方しっかりやんなくちゃってことで出させてもらってるんだけど、やっぱり元青大附中の先輩ってこともあるんでいろいろしゃべってます。立村先輩、高校に進学してからも全然体型とか顔とか変わってないんだけど、ちゃんとごはん食べてるんだろうかって心配になります。杉本さん、たまにはクッキーとか焼いてあげて食べさせてあげたほうが絶対いいと思います。あのままだと身体壊しそう。
立村先輩とはこの冬休み、全く連絡を取らなかった。
あえて言えば年賀状だろうか。毎年恒例の、美しい筆跡のものが届いたのみ。
高校に立ち寄れば会うことも可能だろうが、今の梨南はどんなことがあっても近づいてはならない場所。
──立村先輩にも杉本さんのこと聞いたら、すっかりにやけてデートの自慢話させてしまいました。一緒にコンサート行ったんだって? どのくらいおごらせた? とか下世話な想像しちゃいました。ごめんね。やっぱり男は惚れさせてなんぼだなって。杉本さんが冷たいので寂しい、とまでははっきり言ってませんでしたけどかなり落ち込んでました。やはり、三月に杉本さんが卒業してしまうのが寂しくてなんなくて、たぶんひとりで泣いてると思うので、たまにはやさしくしてあげたほうがいいと思います。後々のために。
そんなことはないだろう。花森さんの思い込みが激しすぎる。
立村先輩は梨南に確かに手を差し伸べようとしてくれた。梨南のほうから断った。だからもうこれで縁は断ち切れたはずだ。父も梨南についてくる男子に対しては警戒心が強いのでこれでいいのだと思う。
──あーあ、でもなんとか、なんとかして杉本さんがなずな女学院に行っちゃう前に会っていっぱいお話したいです。いつ出発するのかなあ。まだ時間あるよね。私も受験終わったらすぐ連絡します。絶対会おうね! 青大附中でたったひとりの親友として、こんなに長い間会えなくなるんて寂しすぎるし!
『親友』という言葉。
もう梨南の中では破棄されているものと思っていた。
てらうこともなく花森さんは「親友」という言葉を使う。
──花森さんに他意はないと思う。けど。
梨南はもう一通の手紙を手に取った。花森さんからの便箋をひらきっぱなしにしたまま、封を切った。いかにもぺらぺらの、少女漫画雑誌の付録のようなもの。目のくりっとしたキャラクターの絵がでかでかと自己主張しているびんせん。
丸文字で桜田愛子、と宛名に綴られている。
たった一枚のものだった。
──杉本さん、ごめんね。許してくれないよね。でも、言わせて。ごめんなさい。本当のことをいえなくてごめんなさい。だましちゃってごめんなさい。りんりん、あっこのことを友だちだって言ってくれたのに、私のことをすごいって認めてくれたのに、私も模範生徒の表彰対象にしてくれって言ってくれたのに。全部裏切ってごめんなさい。
ごめんねの繰り返し。文字が流れていく。滑っていく。
理由は書いていなかった。
言い訳したいとか、直接会って話したいとか、そのようなメッセージは一切なかった。
梨南はいったん桜田さんからもらった便箋を並べ、すぐに畳み机の引き出しに納めた。花森さんからもらった手紙もきれいに封筒に納めた後、かばんの奥、内ポケットの中に二つ折りにしてしまいこんだ。
桜田さんはみよしさんと仲直りする選択をしただけ。梨南には絶対出来ない選択をしたからといって、責める気はない、恨む気もない。ただ一年前と同じ関係に戻るだけ。
──もう、話さないだけ。




