57 トライアングル(3)
校門から出てしばらく歩いていたが誰にも声をかけられなかった。元三年B組の生徒たちや梨南を知っているであろう女子男子たちとはかなりの数すれ違ったが、みな小声で挨拶するかもしくは無視するかのどちらかだった。いつものことだしたいしたことはない。
──はるみと新井林の間に変化があるかもしれない、とは。
気づいていなかった。そのくらい三B桧山級には縁が薄くなっていたせいだろう。そうでなければ自分が気づかないはずがないのだ。そんな鈍感な人間ではない。
梨南は立ち止まり振り返った。誰かの気配を感じたからではなく、ただからだがそうしたかっただけのことだった。すぐ家に向かって歩き始めた。父は仕事でまだ戻っていないし昼ごはんもパンと牛乳だけで十分だ。ひとりで部屋に篭っていられればそれでいい。
──霧島くんは生徒会長だからそのつながりで情報を得ているのかもしれないけれども。
どうだっていいことだ。もし新井林がはるみよりも清坂先輩に気持ちが揺らいだのであればそれはそれでしかたないことだろう。清坂先輩はかつてあの、立村先輩と長年付き合ってきたという過去がある。高校進学してからは付き合い解消したようだが、新しい恋人ができたという話は一切聞いていない。あえて言えば羽飛先輩との仲がいろいろ取りざたされているようだけれども、お互い幼馴染の自然体ということで全く気にしていないはずだ。
──清坂先輩は決して男子を顔で判断する人ではない。だってあの立村先輩の顔を見ることを三年間も耐えたのだから。
新井林がどう想いをかけたところで清坂先輩がなびくとは思えない。
ただはるみは。
──もしそれが本当だったとして、はるみは浮気した相手を許すことできるのかしら。
知ったことではない。梨南は道を曲がった。同時に我が目を疑った。
──はるみ? それと、なぜ霧島くんが?
街路樹の側で立ち止まるふたりの後姿を目の前にして、思わず身体が凍りついた。はるみの家も小学校時代から同じ校区だったので梨南と同じ道を通ることは決して珍しいことではない。今までははるみが生徒会役員だったこともあって登下校時に見かけることはほとんどなかったのだが、やはり始業式ということもあるのだろう。無視して通り過ぎたかったが霧島がいる。さすがについさっきまで顔をあわせていた相手だけに、挨拶だけはしないと礼儀知らずである。目にいっぱい力を入れて、軽く会釈のみして通り過ぎようとした。
「杉本先輩ではありませんか」
高らかに呼び止められたが用事はないので無視して進む。はるみには最初から用はなし。
「梨南ちゃん!」
はるみの甲高い甘えた声が響くがもちろん背を向ける。しかし追ってくる気配がする。足早に離れるつもりだったが、ぐいと腕を力いっぱい掴まれた。
「梨南ちゃん、ちょうどよかったわ。私、あなたとお話ししたいことがあるの」
「私にはないので、失礼します」
わざと丁寧語で拒絶する。
「いいえ、私、用があるの、絶対に」
今度は両手で押さえようとする。全力で振り払った。両方の目にすべてのエネルギーを込めてにらみつつけた。
「失礼な! 恥を知りなさい! 公共の場において」
「人のこと言う権利などないでしょう。それよりも、ほら、早くこっちにきて」
「命令される覚えなどないわ。どいて」
「どかない、だめ、今逃したら梨南ちゃんもう二度と青大附中の居場所なくしちゃうもの」
おとなしそうに見えて、いったん言い出したことは決して引こうとしないはるみ。生徒会長に就任してからその凛とした態度は他の先生生徒たちから高い評価を得ていた。模範生徒としても表彰され、誰からも完璧な生徒会長として見上げられていた存在。退任した後もこうやって霧島にも慕われて、さぞや満足なことだろう。それであればさっさと霧島とくっついてしまえばいい。新井林が浮気しているのであればわざわざ泣きつかないでさっさと振ればいい。それが女子の意地だ。
あとから追っかけてくる気配がもうひとり。霧島が微笑みすら浮かべてふたりの間に割って入った。さぞ大好きな佐賀はるみ元生徒会長を守るため、E組仲間の梨南を罵倒するつもりなのだろう。受けてたつつもりはある。身構えると、
「杉本先輩、失礼しました。実は今、佐賀先輩と僕とは先ほどお話した内容に関係していることを、少々相談していた最中なのです」
「先ほど、って」
頭より先に口が動いてしまう。霧島は満足げに頷いた。
「そうです。かなり重要な話ですので、申し訳ないのですが佐賀先輩とお話なさるのは日を改めていただけると助かります」
「私は最初から佐賀さんと話すつもりは一切ありません。霧島くんとは明日からE組の授業をご一緒させていただくことになりますがその節はなにとぞよろしくお願いします」
「こちらこそ」
何を誤解しているのだろう。梨南は最初からはるみの要求を受け入れる気など全くない。おそらく話の内容を予想すると、梨南に三年B組の教室に戻るよう提案しようとしているのではないだろうか。冗談ではない。去年の秋まで一緒の教室だったが結局放り出したのは担任の桧山先生の判断だ。梨南からしたら大英断であり、今のところ不満はない。
「佐賀さん、これだけは言っておくわ」
梨南は面を見据えてはるみに言い放った。指さしした。
「私は家庭科、体育、それ以外においてB組に戻るつもりなどありません」
「だから梨南ちゃんが頭を下げてくれればみんな、桧山先生だって許してくれるわ。あの桜田さんだって許されたのよ!」
「私と彼女とは違います」
まっすぐ言い返す。冗談ではない。桜田さんの目の前に「友だちとの仲直り」というえさをぶら下げてさっさと取り込んだやり方を梨南は一生許さないだろう。
「ねえ、お願い、ここにいて!」
「用事があります。それでは霧島くん。取り込み中失礼いたしました。ゆっくりお話ください」
「梨南ちゃん! なんで助けてくれないの、どうして」
悲鳴にも近い言葉ではるみがなおも食い下がるのを、幸い霧島がなだめてくれた。
「まあまあ、佐賀先輩、ご存知の通り僕と杉本先輩は同じクラスで明日から過ごすのですが」
そこまでしか聞き取れなかった。聞き取る気などなかった。競歩の選手になった気持ちで梨南は思い切り先を急いだ。
──助けてくれない? 何が?
三年B組の教室に戻れば、元生徒会長である佐賀はるみの手柄も増えて立場もさらに強まるからだろう。桧山先生に梨南を全面降伏させて、表向きだけでも平穏な三学期を過ごし最後は笑顔で見送られる梨南を見たいのだろう。
──冗談じゃない。私ははるみの言いなりになんか絶対にならない。
最後まで戦う、それがいくさおとめ杉本梨南の生き方。
これ以上はるみに栄光を与えるような隙など、見せはしない。




