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55 トライアングル(1)

 青大附中の三学期はあっという間に終わる。特に三年生は。

「杉本もよくがんばってきたな。あと残り一ヶ月半か。全力投球してこうな」

 形だけの三年B組列での始業式を終え、梨南はすぐにE組へと連れていかれた。初日くらいは授業もないしB組で過ごすつもりでいたのだが、菱本先生が迎えに来たのだからしかたない。クラスメートたちの哀れむような視線に見送られつつ教師研修室へと向かった。

 席に着く。霧島は来ていない。とするとひとりだけか。

「霧島は二年だからな。ちょっとばかり立場が違うし、なにせ生徒会長だからな」

「私は別扱いですか」

 言い返すと菱本先生は首を振り、梨南の真正面にパイプ椅子を置きにやりと笑った。

「三年はやはりいろいろ大変だが、せっかくの機会だしじっくり俺と語り合うのも悪くないと思うがなあ」

「勉強すべきことがなければ私はすべきことなどありません」

「いや俺にはなあ」

 ポケットから小さな飴玉を取り出し、ちょんと梨南の机に置いた。

「校則違反だが、まあいいだろ、せっかくの機会だし俺も杉本に相談したいことがあったんだ」

 

 ──どうせあのことよ。

 二学期終業式に異議申し立てをしたことを、菱本先生はまだしつこく言い募るつもりだろうか。一応この先生は梨南の味方になって桧山先生に抗議してくれた。父もそのことについては涙が出るほど感謝していたようだった。

 しかし、結果、何も変化などない。

 そういうことだ。

 ──結局、はるみは当然のごとく模範生徒表彰されただけのこと。

 今日はまだ、桜田さんとも顔を合わせていない。向こうも気まずいだろうしあえて追いかける気もない。一ヶ月じっくり考えた結果、桜田さんはかの「みよしさん」という子との友情を天秤にかけて選んだだけのことと判断し、割り切った。恨みはしない。そこまで深く付き合ったわけではないのだから。

 そう、はるみのような付き合いではないのだから。


 菱本先生が切り出したのは梨南の予想とは全く別のことだった。

「立村のことなんだけどな、これずっと前から杉本に聞きたいと思ってたんだよ」

「別に、何か話すべきことはございませんが」

 ないわけではない。一年前の間違えれば駆け落ち騒動というあれのことか。

 ため息を小さくついて菱本先生は続けた。

「いや、俺、本当にあの時杉本が居てくれたおかげで救われたようなもんなんだよ」

「立村先輩がですか」

「いや、俺。ほら、俺は立村の担任だったろ。もうあん時は寿命半分縮まるかと思ったよ。結局杉本がうまくお守りをしてくれて事なきを得たからな。一年前のことで今更なんだが土下座して俺感謝したい気持ちなんだよ。今まで霧島も一緒にいたから何もいえなかったけどあらためて、ありがとう」

 両膝に手をつき、菱本先生は頭を机にくっつけた。

「それほどのことはございません。私も校則違反になるのは嫌でしたのでそうしたまでのことです」

「後から聞いたことなんだが、立村が杉本を連れ出した後一生懸命なだめたんだろ?」

「なだめたと言われれば否定はできません」

 一年前、つい昨日のことのように思われる。立村先輩がいきなり学校から梨南を連れ出して、どこか逃げ出そうとわけのわからないことを言い出した日のことを。ちょうど二月頃だったと思う。あの時の立村先輩の目つきは普通ではなかったし、へたに止めたら清坂先輩が被害を蒙る可能性もあった。あの時言われる通りに外へ立村先輩を連れ出し、なだめ、なんとか三桜行きの電車に延々往復させるという案を呑みこませて落ち着かせたのは自分なりに冴えた手段だったと思う。もちろん補導なんてされたくないので、できれば六時か七時ごろ再度青潟駅に戻ったところで清坂先輩に頼んで待ち構えてもらうつもりではいた。少し落ち着かせれば頭も冷えるだろうとの梨南なりの判断だったのだが、途中で割り込んできた狩野先生に無理やり梨南だけタクシーで送り返されたのは誤算だった。あの時以来狩野先生には嫌悪感しか残っていない。

「立村先輩が頭を冷やすにあたっては三桜駅まで往復すればなんとかなるのではという判断です。その後教室に戻ってくれたようで何よりでした」

「いやほんとにそう思う。さすがに当時担任として、杉本に感謝の気持ちを伝えるのが難しかったんだがいい機会を得たよ。本当に助かった」

「一年前のことをまだ覚えていらしたのですか」

「そうだよ、当たり前だ。生徒たちのことは十年前のことでもよく覚えている。あ、十年前は俺がまだ教師じゃなかったがな。塾講師していた頃の記憶ともいうな。あいつらどうしてるかなって思うぞ」

 ──この先生が苦労するくらいだから、立村先輩の救いのなさは相当なものだったのね。


「そこでひとつ相談なんだがな、杉本に改めて聞きたかったんだが」

「なんでしょうか。立村先輩の教育方法についてですか」

 虚を突かれたといった風に菱本先生は口を尖らせ固まったが、すぐに落ち着き、

「まあそんなとこだ。あれから一年経つが相変わらず立村のことを杉本がいろいろ面倒見てやってるおかげで、あいつも問題起こさずにすんでると聞いてな。どういう風に舵取りしているのかを、教師として今後の参考に聞いておきたかったんだよ」

「舵取りするほど深いお付き合いはしておりません。確かに私の能力を正当に評価していただいているのはありがたく存じます。私はいつも、家庭科的な能力ばかりを評価されてしまい本来の頭脳的な部分を無視されることが多いようです」

「まあ、な。杉本が淹れてくれる紅茶は絶品らしいからなあ」

「そういうどうでもよいことは高く評価していただけるのですが、大抵の先生たちおよび先輩たちはそれ以外のたとえば成績のこと、企画能力のこと、その他もろもろの本来評価されるべきところを無視なさいます。それは仕方ないことといえばそれまでです。私が誤解されて当然のことをしているといわれれば何も言い返すことなどできません。しかし立村先輩は私に、本来の能力を高く評価してくださいました」

 強調する。

「おそらく立村先輩は自分にない頭の回転や数理的、論理的能力を私の中に認めて高く認めてくださったのでしょう。それゆえに私は一時的に立村先輩の価値観を認め、受け入れました。ですが途中で全く別の評価に切り替えられてしまっておりますので私は非常に不愉快です」

「別の? なんだろな」

「つまり、家庭科的な能力です。先日、なずな女学院の校長先生にお会いして同じことを言われましたが立村先輩も最近は私をそちらの能力でのみ認めているようで非常に腹が立ちます」

「つまり、杉本の本来認めてほしい能力を立村は、高く評価してくれたってことかな」

「さようです。お茶など誰でも淹れられることですし、部屋の掃除も料理もごくごく日常のことです。そんなことを認められて誰がうれしいでしょうか」

「それじゃ、杉本は立村のどういうところを認めてやれたかな」

 面白い質問だ。梨南は言い放った。

「立村先輩にはリーダーシップの才能はからっきしありません。それはよくわかります。しかしなぜか立村先輩はご自身よりはるかにレベルの高い先輩方に評価される『才能』をお持ちです。あれだけ醜く無能でらっしゃるにも関わらず、本条先輩および清坂先輩から信頼されています。最近は霧島くんも懐かせているようです。ある意味能力のある方々をひきつけてその浮力でもって物事を動かす才能は、天性のものかもしれません」

 

 菱本先生は額を押さえて頭を振り、やさしく梨南に訴えた。

「頼む、男として、もう少し立村にやさしくしてやってくれないか。さすがにこれ言われると男子としては堪えるぞ」

「とっくに伝えてあります。何度も、繰り返し」

「で、あいつなんて言ってた?」

「さすがよくわかっていると納得されてらっしゃいました。真実を受け入れる覚悟だけはお持ちのようです」

 再度菱本先生は肩を落とし、

「完全に尻に敷かれてるというわけか」

 哀れむよう天井を見上げた。

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